第6話 シナリオ開始
外の景色が斜め下に流れはじめた。高架道路から降りていくにつれて視界が徐々に狭まっていく。数年前に来た時はワクワクした高層ビルの林立が、今は監獄の鉄格子に見えるのは錯覚だろうか。
燃料電池モーターの滑らかな振動を尻に感じる無人バスの最後列。そこで僕は自分が何者かという“非”哲学的疑問について考えていた。
今から二時間前である早朝6:00時。大学前を出た無人バスに乗り込んだ僕は、テックグラスの端にチケットを確認した。名義『
高速道路を南下するバスは利根川、中川を越え、一時間半で都内に入った。東京には何度も来たことがある。今回の目的地である上野公園にも二度訪れたことがある。一度目は動物園で、もう一度は博物館だったか。
だけど、これから始まるのは
昨夜遅くまで及んだRM《ルル》との会話を思い出す。
…………
「『Rules of Deeplayer』における【キャラクター】はプレイヤーの脳内に作られるもう一つの意識だ。君はこのキャラクターを通じてニューロトリオンを【スキル】として使う」
「キャラクター“として”スキルを使う。なるほど本当にTRPGだな。んっ? 待ってくれ。今使ってる【キャラクターシート】も【ニューロトリオン】で動いているんだよな。何が違うんだ?」
「【キャラクターシート】はあくまで【プレイヤー】がRoDをプレイするための基本機能なんだ。例えばRM《ボク》との通信やキャラクターの作成、レベルアップなんかの管理をする。一方、キャラクター・スキルはいわゆるスキルで、様々な能力を君に与える。ただしこちらはあくまでキャラクターとして使う必要がある」
「なんでそんな回りくどいことをするんだ?」
「ニューロトリオンは人間の脳の高次活動、意識と密接に関係している話をしたよね。その意識のレベルが高いほど脳が生み出すニューロトリオンは強力になるし、その制御の精度も上がる」
「つまり、キャラクターを自分だと思い込めばそのキャラクターの持つ能力を強く使えるってことか。それなら誰でもスキルが使えることにならないか? ニューロトリオンは自前なんだろ」
「確かに人間なら多かれ少なかれニューロトリオンを発生している。でも、そのままじゃ使えない。ニューロトリオンを使う
「つまり、【キャラクターシート】を所持する人間だけが、現実世界をRoDとしてプレイする“プレイヤー”というわけか……」
最初にルールブックを読んだ時の“変身”というイメージはあっていたな。それにしても、聞けば聞くほどTRPG、しかもロールプレイ超重視のシステムだ。
「キャラクターの属性は?」
「【
「初心者にはキャラメイクの難易度が高いタイプじゃないか。それで、スキルって具体的にどんなことが出来るんだ」
「まず脳を通じて自己の強化。【
本当に魔法的、いや世界観的に
「ルールブックにスキルリストがあるから開いてみてほしい。キャラクターシートを持つプレイヤーにはさっきの続きが読める」
両手を開くと空中にバインダー風のルールブックが視認された。見た目は
「なになに、取れるスキルと一度に発動できるスキルの数はレベルに依存する、と。ちなみにボクのレベルは?」
「もちろんレベル1だよ」
「…………そうだと思ったよ」
レベル1で選択できるのはレベル0とレベル1のスキルだけ。発動は合計がレベルまでだから、レベル0とレベル1は共存できるけど、レベル1のスキルを複数使うことはできない。
「なんにしてもスキルの選択が勝負か……。ちなみにテストシナリオはどんなものなんだ?」
「舞台は東京のある公共施設で行われるイベント。基本誰でも参加可能なオープンなものだよ。君にやってもらうのはそこでの情報収集だ」
「つまり『
「そういうことだね。まずはキャラクターの名前と表向きの立場を決めてほしい」
…………
『第四環状線、八番口です』
合成音声のアナウンスに現実にもどる。RM《ルル》に指定された『Deeplayer』の死角帯に入った。テックグラス左目に円形コードを認識。脳内に『―Cogito ergo sum―』が現れる。視界が一瞬灰色になった。
無人バスのチケットの名義が白野康之から『
公共交通機関で偽造IDの使用。本来ならこれだけでも大事件だ。万が一、このバスが事故を起こしたら、被害者名簿には黒崎亨の名前が出るだろう。最悪、身元不明者の共同墓地に刻まれる名前にもなりかねない。
ちなみに変化はIDだけではない。マスクを外した顔は、いつもよりも五歳ほど老けて見える。ワックスで髪の毛を上げたヘアスタイルも相まって二十半ばの僕の顔だ。顔の筋肉に微妙な緊張と弛緩を与えることで、年齢を数歳上げている。
レベル0のスキル【偽装ID《カバー》】と【
おかげでシナリオ中、彼女はそちらに掛り切りになり、連絡はとれない。心細い話だが、身分の偽装はどう考えても最優先事項だ。ロールプレイという意味ではなく、現実的に。
シンジケートのシステムを逆用してID偽装が出来るということは、裏を返せばシンジケートは世界のほとんどの人間の行動を追えるということになる。
彼らに僕の、いや黒崎亨の存在すら知られることすらなくクリアすること。それが僕の方針になる。
『……上野公園国際会議場入り口前です』
人工音声が目的地への到着を告げた。
バスを降りた。
時刻は朝8:30。場所は東京都上野公園駅近くのバス停。周囲を行きかう多くの人。何の異常もない金曜日の午前の風景だ。少なくともバスごと海外行きタンカーに積み込まれたり、地下施設に運び込まれたりといった導入にはなっていない。
ただし、それがこれから始まるシナリオの難易度を示しているわけではない。ARに浮かぶ二つ目のアイコンを見る。今から行くイベントのチケットだ。
都心であることを忘れさせるような広い緑の空間に入る。不忍池を見下ろすように建つ台形のビルが見えた。今回の舞台である『上野国際会議場』は、去年出来たばかりのピカピカの施設だ。
歩きながら同じ方向にむかう人々を観察する。背広にネクタイを締めた中年男性。スーツとパンプスの女性。カジュアルなポロシャツの初老男性。そうかと思うとダメージドジーンズにTシャツの若者やワンピースの二十歳くらいの女性もいる。おへそを出したタンクトップの外国人女性と、まくり上げた逞しい肩にタトゥーの入ったハーフパンツの外人男性も見えた。
年齢、性別、服装に国籍まで全く統一感がない。強いて共通点を挙げるなら、多くがカバンではなくリュックサックであることくらいか。
カラフルな水玉模様が描かれたアーチ看板の下を通って、ビルに入った。ホテルのフロントのような清潔なフロアの正面奥に受付カウンターがある。カウンター前には先ほどと同じ看板がある。よく見ると看板の右の緑の水玉はクラゲ、左の赤はイソギンチャクに見える。
実にファンシーなイラストだ。
看板に偽りない親しみやすいイベントならどれだけいいかと思いながら、二つのファンタジックな動物に挟まれたイベントの名前を見る。
『第68回日本バイオモニタリング学会』
そう、『学会』である。つまりこの周囲にいるカオスな連中はSEAMのSやE、
ここで行われているのは、まさにエリートの祭典ということだ。
(明らかにくそシナリオっぽいんだよなぁ)
口から洩れそうなため息を何とか飲み込み、僕は受付に向かった。
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