第3話 ルールブック

 翌日、僕は朝から何度もテックグラスで接近してくる二重円を確認していた。TRPGプレイヤーにとって新しいルールブックに触れる時ほどワクワクすることはない。

 地理や社会制度などの世界設定、スキルやステータスといったキャラクターの要素、装備やアイテムのリスト。ルールブックは単なるデータの集合ではない。多種多様な情報が組み合わさることで、一つの『架空世界』を構築し、その世界における自分キャラクターを生み出す。

 無限の可能性を作り出すための根源なのだ。

 昼前、予定時刻丁度に窓がノックされた。空中に浮いたドローンのアームから小包を受け取った僕は、自然分解フィルムを破りながら机に急いだ。包装の下に現れたのは、トランプ大の薄い金属製のケースだった。

「なんでテックグラス?」

 ケースを開くと二つのくぼみに透明な物体が入っていた。

 アルファベットのCの形の回路が透ける円形のレンズ。僕の角膜にかぶさっている物と同じだ。

「この中にデータで入ってるってことかな……。でもなんでわざわざ?」

 テックグラスにキャラクターシートを表示する機能はTRPGには必須だが、それ自身がテックグラスというのは聞いたことがない。グラスは基本ただのディスプレイだ。コグニトーム上のデータを、個人IDとの紐づけに基づいて表示するだけのもの。

試作版ということで、機密保持に気を使いたいなら、コグニトーム上でルールブックの『コンテンツID』と僕の『個人ID』の関係に契約を設定コントラクトすればいい。

「まあ、着けてみるしかないか」

 念のためにケースの記号を視認、医療グレードであることを確認する。自分のグラスを外し、送られてきたそれを装着した。度数を知っているようにぴったりだった。二度瞬きをして起動する。

 集中線模様が回転、虹彩のパターンマッチングが完了した。

 IDリングとリンクしてないのに個人情報関係の処理が行われた?


――ある日送られてきた『Rules of the Deeplayer(RoD)』の【ルールブック】により。あなたは【ニューロトリオン】能力を獲得します。ニューロトリオンは脳の高次活動により発生する粒子で、他の素粒子の情報を書き換えることで、直近未来に干渉する力を発揮します――


 微かに覚えた違和感。だが、それは視界に現れたテキストに吹き飛んだ。


――ニューロトリオンの発見は、今から約十五年前の全球認知網コグニトームの建設前に遡ります。タワー用に設計されたニューラルネットワークチップにおいて、消費する電力量と発生する熱量の間に微細なギャップが観測されたのです。

これは計算過程で電気エネルギーの一部が光子ねつではなく検知不可能な粒子に変換されたことを意味します。この未知の粒子こそニューロトリオンです――


 これはっ! …………うん、間違いなくTRPGのルールブックだ。海外製に多い語り掛け調の文章で書かれているのは『Rules of Deeplayer』の世界設定に違いない。

 未知のエネルギー粒子がある世界は定番と言える。一方、TRPGのシステムそのものと言える『ルールブック』が当の世界“内”に実在するというのは聞いたことがない設定だ。メタというべきか。GMの言っていたロールプレイ重視のシステムと何か関係するのだろうか……。


――ニューロトリオンは科学界では否定されました。粒子加速器に用いられる超高精度検出器でチップを調べても未知の粒子の発生は再現されなかったのです。これはニューロトリオンが中性かつ質量がゼロに近く、通常状態では他の素粒子と相互作用しない上に、高度で複雑な計算によってのみ発生するからです――


――つまりチップ単独で作動しているときの生成確率は極めて少なく、同チップを大規模に集積し同期的に稼働させたときは高い確率でニューロトリオンが発生します。これはタワーが【ニューロトリオン発生炉】であることを意味します――


 ふむ。予想通りこの『ニューロトリオン』ってやつが世界設定の根幹のようだ。やたらと専門用語フレーバーテキストが多いのはともかく、心配なのはコグニトームに関連付けたことかな。コグニトーム関係の陰謀論はあまりに多くて、リアリティーを失いがちなんだよな。

そこら辺をどうさばくのか……。


――ニューロトリオンの存在に気が付いた集団がいます。【シンジケート】というSEAMの秘密結社です。彼らはタワーの生み出すニューロトリオンを『ディープ・フォトン』と名付けて、秘かに研究を進め、【ディープフォトン・コア(DPC)】を開発しました――


――【DPC】は人間の脳に埋め込まれ、被験者に【ディープ・プログラム】と呼ばれる能力を与えます。これを獲得した被験者は【モデル】と呼ばれ、シンジケートは彼らを使役してディープ・フォトン技術の開発、秘匿、奪取を行っています――


――シンジケートの最終目的は会員メンバーの超人化。俗に『半神化デミゴディス』と呼ばれるテクノロジーにより人間以上の存在になることです。つまり、メンバーは寿命や能力において他の人類とは異なる存在に成ろうとしているのです。そして、そのテクノロジーの中心が【ニューロトリオン】、シンジケートの言葉で言えば【ディープ・フォトン】なのです――


 世界の裏に潜む秘密組織の登場だ。やっぱりこの方向になるか。丁寧に考えられている感じはある。ただ、よく言えば定番、悪く言えば陳腐……。


――【ニューロトリオン】は高度で複雑な計算により発生します。つまり、地球上にはタワー以外にもう一つ、大量のニューロトリオンを発生させる存在があります。それは人間の脳です。脳はコンピュータよりもはるかに高エネルギーのニューロトリオンを生み出します――


――そして、脳のニューロトリオンについてはシンジケートもほとんど理解できていません――


――この【ルールブック】は脳が生み出すニューロトリオンを、あなたの意識を通じて制御することで、潜在的にはDPC以上の力を引き出します。つまり、あなたにシンジケートに対抗できる力を与えるのです――


 『世界設定』はどうやらここまでか。ジャンルは現代SFで最大の特徴は『ルールブック』がゲーム世界に実在していること。そのルールブックがプレイヤーに異能的な力を与えるキーアイテムでもある…………。

 頭の中でいくつかの情報が勝手に組み合わさる感触、そして世界が目の前で開ける感覚が生まれる。

 ……もしかしたら……いや、わかって来たぞ。ややこしい説明フレーバーテキストを横に置けば、これは現実に存在するプレイヤーと架空世界RoDにそのまま取り込むための仕掛けだ。

 この現実世界に異能ニューロトリオンが実在している。それを用いる『ルールブック』を手にした者がプレイヤー。つまり、現実の僕自身プレイヤーがそのままRoDという架空世界のキャラクターになる。

 つまり“変身”に近い感じと理解すればしっくりくる。

「そうだ、そうに違いない」

定番かと思わせておいて、ロールプレイ重視というゲームコンセプトにぴったりのアイデアじゃないか。やっぱりあの子はとんでもない才能の持ち主だ。

 よし、じゃあ肝心なのはこの『設定』をどうキャラクターシステムに取り込むかだ。


――【ニューロトリオン】を制御する意識キャラクターを作成する為にはまず、あなたの脳に【キャラクターシート】を導入する必要があります。ここまで説明した世界の“深層”を理解した上で【ルールブック】のテストプレイヤーになることを受け入れますか?

 もし受け入れてくれるのなら、次に現れる【ニューロトリオンコード】でキャラクターシートを取得してください。これはシンジケートに知られることなく、キャラクターシステムを説明するためにも必須です――


――注意:キャラクターシートの起動は室内で座るか横臥した状態で行ってください。一時的にあなたの感覚処理能力に負荷がかかりますので、体勢を崩すリスクがあります――


 なるほど。ルールブックが実在するならキャラクターシートも秘密組織シンジケートも実在することになるよな。あくまで現実世界という体を崩さない、実に徹底している。

自分の予想が裏付けられたことに、僕は深くうなずいた。

 ここまで来てキャラクターシステムを見ずにおけるわけがない。最後まで付き合うに決まっている。

「答えはYesだ。ロールプレイなら任せてくれ」

 設定に入り込むために、指示通り椅子に背中を預け、腕置きをしっかり握った。

眼球でページをめくった。

現れたのは円の中に円を組み込んだような模様、アナログ時計の中身、あるいは曼荼羅アート的な模様だ。見ていると模様が勝手に回転する。錯視図か? なんでわざわざ……。


―Cogito ergo sum―


 疑問を解決する前に模様の動きが止まり、上に七色に光る文字が浮かび上がった。一瞬カチっという音が聞こえたような気がするが、錯覚だよな?

 『コギト・エルゴ・スム』かな。「我思うゆえに我あり」だったか。『キャラクターシート』を呼び出すキーワードってところか。TRPGにはぴったりの…………あ、れっ……?

 そう考えたのが正常な世界いしきの最後だった。僕はそのコードが網膜テックグラスではなく、脳の中に直接表示されたことを認識しなかったのだ。


 僕の意識は現実ごかんから切り離され、自らの脳に沈んでいった。

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