第4話 ルールマスター

 鼻からコーヒーの香りが引き、舌に残っていた苦味が消えた。肌に当たる空気が乾いたと思ったら耳の奥がツーンとなって周囲の音が失われた。最後まで残っていた視界が色を失い、やがてスイッチを切ったように黒一色に染まった。


 見えない、聞こえない、匂わない。普段は無意識に感じとっていた外界、そしてその外界との対照としての自分、その両者を一度に失ったような未経験の体験。寄る辺もなく虚空に浮かんでいるような、輪郭のないあいまいな自分。


 パニックを起こそうにも、叫ぶ口もなければ、振り回す手足もない。


 だが、そんなぼやけた自己に一つの疑問が生じた。どうして何もないのに虚空に浮かんでいると感じられるのか?


 徐々に“自分”がドームのような半球状の空間に存在することが認識されてきた。周囲を走っている無数の細い光が見えてきたのだ。稲妻のようなその光は、蛇の群れであるかのように集散離合しているようだった。


 見えると言っても視覚経験ではない。三百六十度同時に見える視野を人間が持っているはずがないのだから。


 そんな、いかれているのか冷静なのかわからないことを考えた瞬間、


「【ニューロトリオン】共鳴感度は最高値だね。さすがボクが見込んだ【プレイヤー】だ」


 明るい少女の声が空間に響いた。鈴の音のような軽やかで、状況に全くそぐわない、明るく弾むような少女の声だ。


 そのどこか浮世離れした声には、確かに聞き覚えがあった。


「GM!? いったいこれはどういうことなんだ!!」

「どうと言われても。【ルールブック】で説明した通りだよ。【キャラクターシート】の発動に成功しているってことは、君は正確に状況を認識してくれているはずなんだけど」

「ルールブック!? そうだ、これはあのテックグラスの仕業だな」


 困惑するような少女に、余計に混乱しそうになる僕。だが、彼女の言葉の中に、無視しえないワードがあることに気が付いた。


 慌てて手を顔にやるが、そこにはもちろん何もない。その時になって、ようやく僕はマネキンのような自分が出来ていることに気が付いた。


「ちなみにボクのことはGMじゃなくてRM《ルール・マスター》と呼んでほしい。呼びにくいならルルでいいよ」

「ルール・マスター? いや、そんなことよりも、そう、ここはどこなんだ。なんで君の声が聞こえる。僕は今どうなってるんだ」

「どこも何も君の脳の中だよ。この【リンク】は君の脳のニューロトリオンで駆動する【キャラクターシート】の機能スキルの一つだ。正確には【プレイヤースキル】の一つだね」

「キャラクターシート? プレイヤースキル?? それってさっきの……。いや、そんな馬鹿なことが……。だって、あれは、ほら……、そういう『世界設定』だろ」


 『TRPG』ならプレイヤーとGMは『キャラクターシート』を挟んで世界を共有していると言えなくもない。キャラクターシートを認識している僕は『プレイヤー』であり、『GM』である彼女とそれを通じて話している。


 それはさっきまで読んでいた『Rules of the Deeplayer』の設定としては納得だ。

だが、そんなことがあるはずがない。


「ちなみに君の脳幹は通常通り呼吸や心臓の動きを管理しているから安心してほしい」

「全然安心できない。今の状況ってつまり……君が僕の脳をいじっくってるってことじゃないか」

「それは誤解だよ。ニューロトリオンが干渉するのはあくまで君の脳内のニューロトリオンだ。この【リンク】はボクの脳のニューロトリオンと君の脳のニューロトリオンの共鳴なんだ。つまり、僕からの声を聴いているのは君の意識だ。君が普段、空気の振動を声として認識しているのと基本的には変わらない。ちなみにボクに届くのも君が意識的に発話していることだけだよ。…………今の「家チキください」はどういう意味だい?」


 とても信じられない。何もかもが理不尽なほど意味不明だ。ただ、会話を続けるうちに少しだけ冷静になってきた。いや、冷静にならなければいけないことが分かってきた。正直、この少女が僕に何をしたのか全く分からない。だけど、分からないからこそ深刻だ。


 こんなことが出来る相手に下手な対応は出来ない。


「………………さっきから出てくる『ニューロトリオン』だけど。ルールブックに書いてあった【ニューロトリオン】なのか?」


 慎重に確認する。疑問は山のようにあるが、最大の疑問はこれだ。


「そう。コンピュータや人間の脳が発生する粒子【ニューロトリオン】だよ」

「……つまりニューロトリオンは実在していて。いま僕の脳はそれを感じ取れる状態になっている。【キャラクターシート】によって」

「そういうことだね。脳は外界を直接認識することはできない。例えば君の目の前にリンゴがあるとする。このリンゴは物理的実体として現実に存在している。でも、君がリンゴに“感じている”情報のほとんどは実体として存在しないんだ。君の脳の光学センサーである網膜に、光を通じて届けられたデータから、君の脳が作り出したものだ。例えばリンゴの『赤色』はリンゴの表面から出るある波長の光を、その波長を検知する網膜の細胞が検出して、そこから生じた脳の神経活動パターンだ。それを君の意識が『赤色』と“解釈”している。赤色は物理的には存在しないんだ。味や香り痛み、実は重さや遠近みたいな物理量に近い物すらそうだ。つまり、君が認識している外界は、実際には脳のスクリーンに映し出された君の解釈だ」

「……クオリアとかいうやつ、か?」

「そう現代科学の最大の難問ハードプログレムの一つである意識。その意識を構成する大きな柱の一つ、クオリアだ。じゃあ光の波長いろではなく【ニューロトリオン】を認識するクオリアを獲得したら?」

「……ニューロトリオンを感じる」

「そう。訓練によって超音波が聞こえるようになったとでも思ってくれればいいんだよ」


 「思えるわけないだろ」という言葉を飲み込んだ。科学的? 哲学的? とにかくややこしい。セッションの時も、ルールブックを読んだ時も思ったが、このGMは科学用語フレーバーテキストがあまりに多い。

僕がそれを理解できるのは、先ほど読んだ『Rules of Deeplayer』の世界設定そのものだからだ。


 そしてその『設定』の中で際立っていた特徴は……。


「つまり、僕が受け取ったのは、TRPG《ゲーム》のルールブックじゃなくて“現実”の『ルールブック』ってことなのか」

「理解してくれたみたいだね。その通り。そして君はテストプレイヤーになることを承知した」


 「答えはYesだ。ロールプレイなら任せてくれ」確かに言った。それも自信満々に。だけど【世界設定】が『現実』だという設定がそのまま【現実】だなんて、誰が想像できる。


「…………そのテストだけど、今からでも断りたいっていったらどうなる。確かに僕は【キャラクターシート】の導入を承諾した。だけど、今の僕は突然監禁されたようなものじゃないか。こうなることを事前に教えてもらっていない。これは……フェアじゃないと思う。君がGM、いやRMで僕がプレイヤーだというなら、信頼関係がないとゲームは上手くいかない。違うかな」


 慎重に言葉を選ぶ。超高難易度の『説得ロール』、邪女神ニャルラトホテプ相手に交渉してる気分だ。


「ふむ。君がそう思うことにも一理あるね。【ルールブック】の存在をシンジケート感知させないため。【リンク】するまでは最低限の説明にしたことを理解して欲しい。もう一つ、君の感覚意識の喪失はキャラクターシート導入のための一時的なものだ。あと数分で回復するはずだよ。ただ、色の感覚だけはキャラクターシートを閉じるまで戻らない。これは君の視覚処理の色の部分を流用しているからだ」


 本当なら朗報だ。感覚が戻ればテックグラスを外すことも出来る。それまでは時間稼ぎに徹しよう。願わくばそこまでの間『正気』が持ちますように。


「あと、断るのは賢い選択じゃないと思う。君はいずれシンジケートにマークされる。ルールブックは君にとってもシンジケートへの唯一の対抗手段になるはずだ」


 なんとか冷静さを保とうとしていたところに、恐ろしい言葉せっていが追加された。このマスター、クトゥルフ神話TRPGなら『SANチェック』が大好きなタイプだろう。


 【シンジケート】。ルールブックに書いてあった悪の秘密結社だったか。あんなゲームじみた設定が現実に存在するなんて、陰謀論というのも馬鹿馬鹿しい。だけど【ニューロトリオン】が本当に存在して、それを使えば今みたいな【テレパシー】が出来るとしたら?


 しかも、そいつらがタワーを裏から支配しているとしたら?


 最低でも世界中の情報を監視しつつ、自分たち同士は秘密の通信手段を持つということだ。現代の情報社会においてはそれだけでも強力極まりない集団だ。それに加えてDPCとかいうサイバーパンク能力を持った兵士を使役する。


 少なくとも一般人ぼくが対抗するのは不可能な存在ということになる。


「僕がシンジケートにマークされるなんてこと、どうして君に分かるんだ?」

「シンジケートのデータベース『不可視の双眸インヴィジブル・アイ』に君のIDが登録されているからだよ。そうだね、これを説明するには最初にボク自身のことを説明するのが先かな」

「コンピュータが生み出したA.I.とか言わないよな」

「それが出来るならシンジケートはコンピューターから大量のニューロトリオンを得て目的を達成しているだろうね。でも、まったく外れというわけじゃないか。ボクは本当の意味でのデジタル・ネイティブなんだ」

「デジタル・ネイティブ? 今の時代皆そうだろ」

「もっと厳密な意味だよ。ボクはプログラミング言語で育てられた。人間が言葉を覚える幼児期に、自然言語の代わりにプログラミング言語を取得したんだ。『A.I.の質的限界』が越えられないなら、逆に人間の方をコンピュータに適応させようという実験の一環でね。その被験者サンプルの一人だったんだよ」

「そんな無茶苦茶な……」


 コンピュータによる人間の初期教育は失敗した。コグニトームによりスコアが産出されるまで九年間、つまり中学卒業までは古典的スタイルで教育が行われるのはそれが理由だったはずだ。


「統計的には失敗だった。集められた三百の子供サンプルは、ほぼ全員が五歳までに精神異常をきたした。でも人間には多様性があってね。臨界期を超えた三つの個体が残ったんだ。その内の一人がボクというわけだね。ちなみにこの実験に資金を提供したのがシンジケート。そしてシンジケートに引き取られたボクは獲得したプログラミング能力で彼らに貢献したというわけだ。君のIDが登録されているデータベース『不可視の双眸インヴィジブル・アイズ』はその成果の一つだよ」


 軽やかな口調で告げられる重い過去。あまりにサイバーパンクな少女の来歴もまた、あまりにゲームじみていた。


 だが、彼女の設定は、彼女がこんなとんでもないことが出来る理由の一端を説明していた。

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