第2話 TRPG
階段を上がると、冷たい月明かりが照らす白い廊下に出た。一階で警備員から手に入れた波長情報をゴーグルに入力、無人の廊下を走る赤外線レーザーを避けながら目的の部屋に向かう。
――防犯装置の回避成功――
ドアに到達。仮眠室で眠っていた
――君の耳にロックが解除された音が聞こえた。ここで【察知
微かな
――回転するクリスタルの
窓一つない暗い部屋の中、奥にある分厚い保管庫の密閉ハンドルを回転させた。赤外線ライトに照らされた黒い冷気が床に流れ落ちる。霜に覆われた引き出し一つを引く。
小指の先ほどのシリコンチューブが整列したラックを取り出した。この中の一つが今回の
黒川遼一「GM《マスター》、【知識:生物学】で
GM『補正マイナス50で』
黒川遼一「待ってくれ。俺の【生物学技能】は40しかない、絶対に失敗じゃないか」
――君が迷っている間に
抑揚を落とした澄んだ声が、容赦ない描写をする。この世界では
ただし、彼女の示した状況にどう反応するかは
空間を探り、手に当たった
成功する未来を
黒川遼一「……ここに来る前に
GM「……」
黒川遼一「この手のサンプルは素早く扱う必要があるはずだ。この冷凍庫の近くにそれらしい実験機器がないか【目星】を付けられないか」
GM「その二つの条件に気が付いたなら、目星プラス10でロールしていい」
黒川遼一「よし。【目星】は70もある。80以下でOKだな」
空中に現れた二つの
黒川遼一「危なっ。でも成功だな」
――君は近くの机にちょうどそのラックが入りそうな機器を見つけた。君がラックをセットすると76番が緑色の光を灯した。培養細胞に組み込まれたレポーターが反応したようだ――
黒川遼一「76番のチューブをダミーに入れ替えてから冷凍庫にもどす」
――君がドアを閉めると、ディープフリーザーの温度上昇は穏やかになり、やがて規定値に向かって下がっていく――
…………
――君は地下の通気口から地上に出た。目の前には炎を上げる研究所が見える。モーター音とともに君の側にバンがとまった。運転席には森本教授の姿がある――
黒川遼一「保冷箱のサンプルを教授に渡す」
GM「翌日まで時間を飛ばすよ」
――培養槽から昨夜のサンプルを播種したシャーレが取り出された。君が顕微鏡をのぞくと分裂を始めている培養細胞が見えた。人工アミノ酸による強化型タンパク質を生産する細胞は完全な形で入手された。すぐに君のアカウントに報酬が振り込まれるだろう――
狐面をかぶった少女は淡々とそう説明したあと、その仮面を取ってから、僕に向かって宣言する。
「おめでとう、君は見事にこのキャンペーンをクリアした」
「よし」
ガッツポーズを決めた
ライトグレーのVR会議室。表示されているのは平面画像一枚だけ。さっきまでの
折角の360度の映像空間に、たった一枚の写真だけというのはさみしく見える。だが、TRPGにはこれで十分だ。むしろ余計なものは要らないと言った方がいい。このゲームは
改めて向かいに座る
一目で優れた
そう言えば、彼女が仮面を外したのは初めてだ。これだけのアバターなら見せびらかしたくなると思うんだけど……。
「最後のセッションはどうだったかな?」
「あ、ああ。うん、最高に良かったよ。ここまでキャラに入り込んだのは久しぶりだ」
透明感ある緑色の瞳で僕を見て、長い金髪の少女は小さな口を開いた。マスタリング時とは打って変わった明るい鈴のような声だ。僕は力を込めて答えた。これは正真正銘、まごうことなき本音だ。相手が美少女の姿だからと言って、いや正真正銘の生身の美少女でも、TRPGに嘘や忖度は持ち込まない。
『GM』、ゲームマスターは『ルールブック』に書かれた複雑なルールと大量の設定を理解した上で、さらにシナリオを準備する。そしてゲームが始まれば、複数人のNPCを演じながら複数のプレイヤーに対応する。
傍から見れば映画監督に似ているし、実際にゲーム進行の全権を持ってはいる。ただし
しかも今回のシナリオは彼女の自作で、その内容はとても精巧で高度なものだった。
廃ビルで落ち合った別々の組織に属する五人が共通の目的のために手を組み、秘密の研究所から最新のバイオテクノロジーを奪取するという設定で、プレイヤー同士が潜在的に対立関係という厄介なものだ。シナリオ管理はとんでもなく大変だったはずだ。
「そうだな……特に情報の提示とかシナリオ進行とか、管理面はホント完ぺきだったと思う。描写も簡潔でわかりやすかった。特にクライマックスの研究所は真に迫っていたよね」
「ルート管理とか例外処理は得意だから。研究所は私がいる施設を原型に使ったからだろうね」
「ああ……なるほど?」
彼女のIDに開示されている個人情報を見る。十五歳の女の子が研究所みたいな建物に住んでいる? まあ、普段生活しているスペースなら管理しやすいのは分かるか。
「ただ判定がちょっとシビアすぎかな。判定の度にロールプレイを要求されるのは難易度が高いと思う。ただでさえ専門知識絡みで情報量が多かったからさ」
僕はなるべく否定的に聞こえないように注意して言った。プレイヤー五人でスタートして三回目で残ったのは僕一人だけ。メイン火力が早々に落ちた。前回は自棄になった僕以外の最後の一人、が敵に寝返った。ちなみにそのプレイヤーが持っていた推奨技能が『知識:生物学』だった。
おかげで最後のあの綱渡りのような潜入劇だ。ただでさえ本格的なサスペンスシナリオが、超高難易度になったのだ。思い返しても、我ながらよく全滅エンドにならなかったと思う。
僕の言葉を聞いた少女は、小さく首を傾げた。
「TRPGは脳の想像力を駆使して架空の世界とその世界での行動をシミュレーションする
「シミュレーション? ああ、いや確かにその通りだよ。うん、ロールプレイ重視派としては歓迎なんだけどね……」
僕はいったんうなずいた。
キャラクターは駒ではない。『その世界』の『自分』だ。脳の想像力をフルに活用するゲームである意味はそこにこそある。
プレイヤーキャラがすべて別々の組織に属する導入だったから、あの裏切り《PvP》も考えられない展開ではなかった。実際、GMは裏切りを認めた。そしてその後のマスタリングも、僕にも彼にもフェアだった。裏切ったプレイヤーも最後はノリノリだったし、僕としてもシナリオ上のクライマックスより彼との戦いが一番盛り上がったくらいだ。
ギリギリの状況で、決められたルールと無限の可能性の中で、最善の未来を探求する。脳みそがフル回転するあの感じ。あの時僕たち三人は間違いなく一つの
本音を言えば、彼女のマスタリングは僕にとっては理想に近かった。ただ、一つのプレイスタイルだけを想定しているような危うさを感じた。それがもったいないと感じてしまうのだ。
「そうだな、最初にロストした賞金稼ぎのキャラがいただろ」
「数値を重視していたプレイヤーのキャラクターだね。コンピュータRPGに適したスタイルに見えたけど?」
「確かにそういう捉え方はできる。でもさ……」
あのプレイヤーはいわゆるデータマンチ。ルールや設定を駆使して、とにかく強いキャラクターやプレイを目指す。時にやりすぎて顰蹙を買うことはあるスタイルだが、あのプレイヤーの場合はちゃんとキャラクター背景にのっとっての創意と工夫が見られた。
「だからあのスタイルも君が言った……ええっと「脳の創造力を駆使して」「架空の世界」で自分を「シミュレーション」した結果、と言えないかい?」
僕がキャラクターシートの記録を表示して説明すると、彼女は少し考えてから。「なるほど。確かに彼のプレイヤーとしての潜在能力を評価しそこなったかもしれないね」と素直に頷いた。
「他には?」
「ええっと、他には……。いや、それ以外には文句のつけようがないというか……。そうだな……。街中とかちょっとおかしな判定があったかな。ほら、無人バスが街の中心部に通じてないとか。シナリオ上の都合があったのかって思ったけど」
「それは純粋に設定ミスだね。バスに乗ったことがないし、ここ六年ほどベッドから出たことなかったから。デジタルツイン上で予行演習はしたけど限界があったようだね」
屈託のない言葉で重い事実が告げられた。つまり、さっき彼女のいった研究所のような施設って……。
「もしかして入院中、とか」
「入院……。おおむねそのイメージであってる。実は今の君との会話もすべてBMI越しなんだ」
BMI、脳波キーボードとかか? でも、やり取りは全然ラグとかなかったような。なるほど、そういう境遇なら、TRPGはある意味理想的な娯楽と言えるかもしれない。
「ええっと、最初言ったように僕個人としてはとても楽しめたよ。次のシナリオがあったらぜひ参加したいくらいだ」
「残念だけどここを利用するのは今回が最後になりそうなんだ」
「それって……」
「実は今新しい『ルールブック』を作ってるんだ」
「ルールブックを作っている、もしかして自作システムってこと!?」
一瞬、最悪の想像をした僕は彼女の言葉に食いついた。
「うん。頭の中に本来の自分とは別のもう一つの
「なんだそれ、すごく面白そうなんだけど!!」
「ベータ版まで出来たんだよ。ただ、これ以上の開発にはテストプレイヤーが必要と判断していてね」
蠱惑的な
「君にテストプレイヤーをお願いしたいんだ。ただ――」
「喜んで協力させてもらうよ!!」
「えっ、あ、うん。でも、もうちょっと条件を聞いた方がいいと思うけど。例えば報酬とか……」
「報酬? ははっ、何を大げさな」
「でも、秘密を守ってもらう必要がある。それにテストシナリオの想定では二日ほど拘束する必要があるんだよ」
なるほど確かに本格的なテストだ。いや、彼女の才能を考えれば将来はプロのゲームアーティストでもおかしくないか。でも僕にとってTRPGは純然たる趣味だ。
しかも、そのオリジナルのルールブックが、極端にロールプレイ重視の尖ったコンセプトだという。頼み込んででも参加したいくらいだ。
「二日ね。自慢じゃないけど大学生にしては暇なんだ。二日でも三日でも大丈夫だ」
「でもね……リスクとか……。ああ、そろそろ巡回の時間だね。そうだ、じゃあまずはルールブックの試作版を輸送する。それを読んでもらってから改めて話をしよう」
「輸送? 了解。楽しみにしているよ」
僕の勢いに面食らっていた少女だが、何かに気が付いたように視線を壁の向こうに動かした。そして、僕の答えを聞くと、素早く狐の面をかぶりなおすと、VR空間から瞬時に消えた。
最後あわただしかったな。もしかしたら、診察の時間なのかもしれない。
一人空虚な空間に残った僕は、降ってわいたような幸運をしばし噛みしめた後、現実にもどった。
後から考えると、僕はこの時もう少し考慮すべきだったのだろう。彼女は一度もその『ルールブック』がTRPGのものだとは言わなかったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます