雨月の夕日
くそわろたわし
雨音
日曜朝の六時。理由もなくこんな早朝に目覚めてしまった。
いつ以来だろうか。カーテン越しのやけに明るい日差しが、寝起きの目に突き刺さる。
「よいしょっと……」
ベッドから這い出した。梅雨時にしては珍しく、数日ぶりの晴れ間が見られた今日。
外の気温はまだ上がりきってはいないものの、昨夜降った雨の湿気は体感温度を少しだけ高めていた。
暑い。不快さを伴うこの時期の晴れ間が、俺はあまり好きではなかった。
大学進学とともに一人暮らしを始めてから一年と、二ヶ月ほど。実家からそれほど離れていないにも関わらずこの場所で一人暮らしを始めたのは、やってみたいという単純な俺の希望だった。ここへ来て一年を超えた今の時期ともなると、新しい環境への希望なんてものは随分と薄れていて。
梅雨のシーズン真っ只中な今日たまの晴れ間が見えたところで、外へ出ようなどという気は全く起こらなかった。
はずなのに。
こんなところがあっただろうかと、街角の扉を見て思った。
両手に下がったコンビニの袋からは、いくらかの食料と酒が覗いている。
そして今俺は、目の前にある――古びたこの近隣に似つかわしくないほどに美麗な喫茶店の面持ちを見て、困惑していた。
この道はさほど頻繁には通らない、言わば裏道のようなもので――食料の不足に気付いてコンビニへ走った結果、久しぶりに通ったというわけだ。
こんなところに、こんな洒落た店があっただろうか。
扉の窓から中を覗く。人の気配までは確認できず、すりガラスの向こう側に濁った影がいくらか動いているのが確認できる程度だった。
入ってみるべきか。
悩んではみたが、両手に下がった袋を見下ろして。
「……また今度にするか」
店先で小さく呟く。
結局。
自宅に帰った俺はすることのなさに驚いて、記憶に強く残ったあのコーヒーショップに強い興味を覚えて――
おそらく『シエルコーヒー』と読むのだろうその看板を見上げて、やはり記憶にはないことを再確認する。この地味な裏路地に突然こんなものが建っていたらいくらなんでも気付くだろう、と。
頻繁ではないとはいえ数度となく通ったこの道で今まで俺が気付かなかったということは、おそらく――
最後にここを通って以来、つまりこの数週間のうちにできた新しいものだということになる。
洒落たものはさほど好きではないとはいえ、近場にできたこうした店には純粋に興味があった。門をくぐるべきか少しだけ悩んだ結果、決断は早くて。
からんころん。
扉はカフェでよく聞く有り体な音を立てて、その入り口を開いた。
「いらっしゃいませー」
声が聞こえたのは、随分と奥のほうだった。新築らしく真新しい店内は、数週間前に建ったはずという俺の推測が間違っていなかったことを示している。
「何名様ですか?」
奥からエプロンをした少女が、姿を現した。
大学が近いこの街は学生で溢れているから、カウンターの向こうも手前も同じ大学の学生なんてことが珍しくない。この少女もその手の事情だろうと思いつつ――
「お、お客様……?」
「え? ……あ、すいません。一人です」
「一名様ですね。かしこまりました。ご案内いたします」
慣れた手際でテーブルを示すその姿は、昨日今日のアルバイトではないようにも見えるのだが。
「ご注文、お決まりでしたらお呼びください」
少女はそれだけを言い残して去った。
ひとまず――テーブルの脇に立てられたメニューを開いてみる。
どうやらここは普通にコーヒーや紅茶、ケーキや簡単な軽食などを提供する一般的なカフェのようだった。壁に貼られた新店オープンの文字やそこに記されたキャッチコピー、そしてメニューから、そのあたりの判断は簡単についた。
ただ圧倒的な違和感として残るのは。
客が、俺しかいないことだろうか。
メニューを眺める。並ぶ品々はどこのカフェでも見受けられるような一般的なものが大半だったが、中にはこの店オリジナルらしき品も見えた。特に店名から察するにコーヒーが売りらしく、メニュー先頭には大きな写真とともにコーヒーの宣伝が銘打たれている。
何も考えず入店したため、少し悩む。だが結局そのコーヒーに注文を決め、店員呼び出しのボタンを押した。
「はーい」
奥から先ほどの少女の声が聞こえる。
しばらくして、姿が見えた。
「お決まりでしょうか」
「えーっと、この……コーヒーひとつお願いします」
「シエルコーヒーですね。かしこまりました。ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい」
俺の返答を受けて、少女は笑顔のままメニューを下げた。
コーヒーを待つ間、外の景色を眺めていた。
空は雲一つない快晴で、遠くから子供の声が聞こえてくる。古びた街並みはいつもと変わらず、久方ぶりの日の光を浴びて少しだけ輝いていた。
店内に視線を戻すと、相変わらず閑古鳥が鳴いている。天井で回るプロペラが、ゆるやかな風音を立てていた。
「お待たせしました」
コーヒーが出てくるまでの時間は、割と短かった。手際の良さに少し驚きつつ、口に運んだコーヒーの味にまた驚く。客が俺一人という現状に、より一層の違和感を付け足してくれるようなものだった。
新設だからまだ名が広まっていないのだろう。
美味いコーヒーを片手に、店を見渡した。この状況を説明する言葉は、その程度しか出てこない。
「あそこの学生さんなんですか?」
会計のとき、レジでさりげなく少女に問われた。
「このあたりに住んでらっしゃるんですね。近いって羨ましいです」
俺の身分がここらであまりに一般的なものであることがわかったからか、少女は気さくに世間話を繰り出した。そして自分がここから少し離れた場所にある高校の生徒で、通学にいくらか時間がかかることを教えてくれた。
レジを打つ手際も随分と慣れたものだった。釣り銭を確認して俺に手渡すと、レシートを片手に少しだけ声を潜めて、
「実は」
お客さん、ここがオープンして初めてのお客さんなんです。
少女のカミングアウトは、こちらとしてはさほど重要ではなくて。
でも店側としてはきっと今の自分は随分と大きな一人になっているのだろうと、そんなことをぼんやりと思いながら。
「だから父に代わって言っておきますね。『またのご来店をお待ちしております』」
少女の言葉に見送られるようにして店を出た。カランコロンという鐘の音が、背中越しに聞こえてくる。見える空はさっきより少しだけ明るくて、太陽も少しだけ高かった。
翌日。
授業が終わって帰宅した時、あたりは暗雲が立ち込めていた。まだ降られてはいないものの、付けたテレビからは雷雨の襲来を報ずる声が聞こえる。
こんな日に外出する気が起こるはずもない。何をする予定もなく、ベッドに腰を下ろした。
テレビを見る。ニュースは近隣の天気について、随分深刻に報道していた。
明日明後日あたり、雨は振り続けるだろうと。
窓の外は相変わらず薄暗かった。切れ目のない雲が、頭上に広がっている。
こんな日に外出する気が、起こるはずもなかった。
なのに。
「いらっしゃいませー……あっ」
扉を開く。からんころんという音はまた頭上で乾いた音を打ち鳴らし、奥の店員へと俺の来訪を告げた。
「また来て下さったんですね。ありがとうございます」
例の少女は昨日と同じく笑顔で俺を迎えた。扉の外では降り始めた雨が勢いを増し、雨音が少しだけ聞こえてくる。
今日も――いや、こんな天気だから今日はと言うべきか、やはり客は俺一人で。
テーブルへと案内され、メニューを手に取る。
「ご注文お決まりでしたらお呼びください」
決まった言葉を残した少女は、そのまま奥へと下がった。
「じゃあ、今日は――」
大学で昼を取ってからは、何も食べていなかった。何か軽食を取るか、あるいは――
ひとしきり悩んでから、呼び出しボタンに手をかけた。
「コーヒーとモンブランですね。少々お待ちください」
少女はメニューを下げつつそう言って、ぱたぱたと駆けていった。
急ぐ必要などあるはずもないのに。
あたりを見回す。閑散とした店内に、静かなBGMと雨音だけが響いている。空は変わらず黒く、手元に立てた傘がからんと音を立てて床に倒れた。
「お待たせしました」
ケーキとコーヒーをトレーに乗せた少女は、ウェイトレスらしく器用に片手でそれを支えていた。
「今日は学校帰りですか?」
「……ああ、うん。さっき帰ってきたとこで」
「お疲れ様です。雨、大丈夫でしたか?」
少女はテーブルにそれらを移しながら、外の暗雲を眺めていた。雨音は弱まることなく、ガラス窓にはいくつもの雨筋が並んでいる。
「大学から家は近いし、ここに来る途中で降り始めたから――ギリギリ大丈夫だったよ」
「そうなんですか。よかったです」
そう微笑む少女は、とても――
純粋に見えた。
「私もあの大学行けたらなあって、なんとなく思ってるんですよ。家から近くなりますから」
この場所から歩いて数分のところに、俺の大学がある。少女はおそらくそちらを眺めているのだろう。静かな店内に、少女と俺の声だけが響き渡る。
「家はここなの?」
「いえ、ここではないんですが……この近くに。だからお客さんとはご近所さんですね」
客は、相変わらず俺しかいない。
「じゃあ、そのへんで会ってるかもしれないね」
そんな俺の言葉に、少女は。
そうですね、とはにかんだ。
雨は、未だに止む気配を見せない。店を出た俺は傘をさし、自宅への道を進んだ。
山あいにあるこの街はやたらと坂道が多い。降った雨水は、そのまま坂を滑り落ちていく。
時刻は夕方、六時を少し回った頃。
ちらりと携帯を見て、そこに着信の履歴があることを確認した。カフェにいて気付かなかったらしい。
相手は、見るまでもなく想定できた。
あいつが電話をかけてくる時、いつも決まって雨が降っていて。
時刻も、やはり夕方の六時前後だった。
何故かは俺も知らない。聞くほどのことでもなければ、聞くきっかけもなかった。
些細な、どうでもいいこと。
かけ返すべきか悩んで、それでもやはりここは返すべきだろうと思って。
リダイヤルのボタンに、指を伸ばした。
「珍しいね。電話出ないなんて」
「すまん。飲んでた」
「へ? こんな時間から?」
「……酒じゃねえよ」
電話の向こうから響く恋人の声は、いつも通りの元気な様子だった。
付き合い始めて、もう四年ほどになる。進学を機に少しだけ離れて暮らしているが、それでも互いの家までは一本のバスが通っていた。
だから。
「ねー、今から会えたりする?」
突然のこんな頼みが、まかり通るような距離なのだ。
「――家に来いと?」
「……ダメ、かな」
少しだけ甘えたような声を出す、彼女。この声が俺だけのものであることは理解していながら、しかし四年という月日はその価値を少し薄れさせていて。
「そのへん何もないだろ」
「うーん……じゃあ秋月でいいよ。来てよ」
ここからほど近い、大きな繁華街の名前を呟く。
「……それならいい」
「ん、じゃあ七時ね」
「――ああ」
それだけを返し、通話を切った。
携帯をポケットに入れる。傘から落ちる雫の数は、さっきより多い。
ここから秋月までは、バス一本で20分ほど。
七時には、充分に間に合いそうだった。
「おそい」
バスを降りたとき。まず聞いた言葉がこれだった。バス停にまで出向いて俺を迎えた彼女は、相変わらずの世話焼きで。
時刻は、六時四十五分。
「時間は守ってる」
「でもあたしのほうが早かった」
「知らん」
「……早くしないと時間なくなっちゃうよ。明日早いんじゃないの?」
彼女は俺の時間割を完璧に把握している。――まあ、逆も然りなのだが。
「いや、明日は全休になった」
俺の言葉に、彼女は目を丸くして。
「……ずるい」
一言だけ、小さく呟いた。
「火曜はもともと二つしか入れてないからな」
「知ってるよ」
「それで三限が休講」
「……もう一つは?」
俺は少しだけ悩んだ。もともと嘘は苦手な性分だ。大きな嘘も、些細な嘘も。
ややの間を開けて、そして答える。
「出席を取らない」
「ダメなやつじゃん。ちゃんと出ようよ」
「……」
説教じみた口調で話すのは、彼女のいつもの癖だった。
だけど、
「……やっぱだめ」
こうやってすぐに自分の発言を打ち消すのも、彼女のいつもの癖だった。
「もう一つって一限でしょ。出なくていいからそんなの」
少し俯いた彼女の表情は、見えなくても手に取るようにわかった。
このやりとりを、もう何度しただろうか。
「で、どこ行くんだ? というか、なんで急に呼び出したんだ」
「たまには会いたくなるもんなんだよ。いつもんとこでいい?」
このやりとりを。
もう、何度しただろうか。
ここに来るのは何回目だろうと思って、数えるのはすぐに諦めた。
中心市街から少しだけ逸れた場所にある簡単なレストランのようなところで、俺が彼女とここで会うときいつも必ず出向くところだった。
理由は彼女曰く『最初に二人で行った店』だかららしい。
だが四年前、当時まだ高校生だった自分の記憶はもはやなくて。
それより高校時分と同じ店に未だ通い続けているということに、どこか気恥かしさというか――それに似たものを感じていた。
「いつもここ来てるな、俺たち」
俺はハンバーグ、彼女はパスタ。この組み合わせも、いつもと同じ。
「いいじゃん。今更変える理由だってないし」
それもそうだと思いつつ。
「――そろそろ店員に顔覚えられてるだろうな」
そんなことを、呟いて。
ふと。
あの店員の記憶が、頭を掠めた。
「……どうしたの?」
「……あ、すまん」
前を見た。対面に座る彼女の表情はいつもと変わらず、少しだけ手の動きを止めてこちらを覗いていた。
「何考えてたの」
「――明日の」
課題だと嘘を言いかけて、明日は全休になったことを思い出した。
「……いや、すまん。なんでもない」
「怪しい」
「ぼーっとしてただけだ。よくあることだろ」
「――まあ、ね。相変わらずだね」
高校を出てから、彼女とは月に一度程度しか会わなくなった。それでも会うたびに毎回、このセリフを吐かれる。高校を出てたかが一年やそこらで、人間そんなに大きく変わるはずもないと――そう、思うのだけれど。
「おまえも、相変わらずだな」
「えー? そうかな、ちょっと変わったと思うんだけど」
にやりと笑う彼女。
そうして始めて、
彼女が、髪を切っていたことに気づいた。
「――すまん、全く気づかなかった」
「ひどいなあ。結構ばっさりいったんだけど」
――前は、気づいてくれたのにね。
彼女の声は少しだけ小さくなって、俺の胸をちくりと刺した。
「ま、しょうがないよ。最近あんまり会えなくなっちゃったしね」
俺が所属する学科は、学内でも比較的楽なほうだと自覚していた。それでも最近は時間に追われた生活を余儀なくされている。
「――次会えるの、いつになるんだろ」
そんな呟きも、二度三度となく聞いた。
「悪いな」
「まあ、しょうがないよね」
しょうがない。
そういうものなのだ。
食事を終えた俺たちは、またいつものように秋月の駅前を散策していた。雨は止まず、一本の傘に二人で入る。若い男女が大勢いる中で、俺たちはさほど目立つこともなく。
景色に溶け込むように、あたりをうろついた。
目的があるわけでもなくて、
歩くことが目的のように。
「ねえ」
左腕に絡む彼女の体温を感じつつ、その視線に応じた。
「……なんだ」
「明日、空いてるんだよね?」
彼女の声はどこか寂しげで。
どうしてこんな声が出せるのだろうと思うほどに、そこには妖艶な甘さが漂っていた。
何を伝えようとしているのか。
それを読み取れる程度には、付き合いも長くて。
「――ああ」
ただそれだけを、静かに返す。
翌朝、帰路。平日朝のバスは混雑するという理由で、電車を選んだ。
彼女はいつものように駅まで見送ってくれて、今日の授業は昼からだと嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
大学、大変だね。
そう言う彼女の笑顔には、多少の優越とほどよい労いがこもっていて。
いつもこの笑顔に見送られて、この場所を去る。この心地よさだけは、何年経っても薄れないんじゃないかと――そう思い、そう願いながら。
家に帰った後。次に彼女と会えるのはいつになるだろうかと思いつつ、それより気がかりな何かが胸に突っかかるのを感じていた。
あの、カフェ。
――そろそろ店員に顔覚えられてるだろうな――
レストランでそう言ったとき、脳裏に過った彼女の姿があった。
とはいえ今は平日の朝。高校と両立させていたという彼女の言葉を思い出して、今はきっといないだろうという結論に達して。突如空いた火曜日の一日を、どう過ごそうか迷っていた。
一日寝て過ごすか。
それとも――
バス停で数分を待つ。
彼女と出向いた秋月へ、今日は一人で向かうことにした。
目的はない。ただ手すきとなった一日を埋めるために、今日の過ごし方を思案した結果だ。あの場所は目的など持たずとも、一日程度なら潰せる街であることは――幾度となく同じ経験を経た身としては、理解していた。
雨は、降っていない。
ただ西に広がる曇天は、やがて強い雨を降らすことを示唆していて。
傘を持ってきているかどうかを確認して、折り畳みが鞄に入れっぱなしだったことを思い出して、安心した。
この季節。
傘を手放して外出することは、できそうになかった。
やがてバスが来た。平日の中途半端な午前に乗客は少なく、閑散とした車内に乗り込んで座席につく。20分ほどの間、揺られることになる。薄雲った空に霞んだ外の景色は、あまり見えなかった。
本屋と電気屋、そして地下街に散在する各種の商店を巡り歩き、特になんの目的もなく歩き回るだけで一日はすぐに過ぎた。夕刻が迫りつつある。地下街が発達したここでは雨に打たれることもないのだが、外から地下へ入ってくる人々は皆一様に傘を携えていた。
濡れた地下街のタイルは、足場が悪い。
滑って転ばないように注意しながら、駅のほうへと向かって歩を進めていた。
帰ってから、何をしよう。
平日の全休はこれまで幾度か経験したが、有意義に過ごせたものはそのうちいくらあっただろうか。
そんなことを考えていた矢先だった。
「――あれ?」
駅の入口へ向かう途中の、地下通路。左右は商店が立ち並び、行き交う人々は皆往々に賑やかで。
そんな人々の中に、
どこかで見た顔が、紛れていた。
「――――あれっ?……あ、あの……えーっと」
少女は少しだけ目を泳がせて、
「こ、こんなところで会うなんて……奇遇ですね」
予想外の出来事に驚きながら、それでも笑顔を浮かべていた。
「本当にこのあたりの人だったんだな」
少女はカフェではなく、高校の制服に身を包んでいた。
雨に打たれたのか、その黒い髪は少しだけ湿っているのが見えた。
「はい。高校はここからまだ電車で数十分かかるんですけど……」
「今は、帰り?」
「そうです。帰ってまたお父さんのお手伝いしなきゃいけなくて」
そう言って笑う少女の笑顔は、いつものように純粋で。
「そうなんだ。忙しいんだな――じゃあ部活とかもできないのか」
「いえ、一応……一つだけ入ってはいるんですけど……なんというか、そんなに厳しい部じゃなくて」
紅茶研究会という部活がこの世に存在することを、俺はこの時始めて知った。
「カフェの人っぽいね」
「ええ、よく言われるんです。友達にも『本職だもんね』なんて。もともと紅茶とかコーヒーが好きで、いろんなお店でお手伝いさせて貰ったりしてたものですから」
あの店での手際の良さに、これで説明がついた。
「ところで……お客さんも、今は帰りですか?」
「ああ、うん。ちょっと秋月に出て、今から帰るとこで」
「だったら一緒に帰りませんか? 方向同じですし」
方向もなにも、ご近所さんなんですから。
「ああ……そう、だな」
押されるように彼女と二人、駅へと向かって歩く。秋月から数駅。俺たちの最寄り駅までは十分もかからない。
駅を降りて商店街を抜ける。二つの傘を並べ、他愛のない会話はその間も続いた。
「今日は――大学は、お休みだったんですか?」
「ああ、うん。偶然授業がなくて」
俺の言葉に、少女は少しだけ笑って見せた。
「うらやましいです。高校って絶対に毎日ありますから。大学は自由だっていろんな人たちから聞いて、早く行きたいなあなんてずっと思ってるんです」
「大学――うちをめざしてるんだっけ」
「そう……ですね。難しいってことはわかってるんですけど――」
先生になりたいんですよ。
少女は静かに、そう呟いた。
「……なるほど、な」
教育系の学部を目指しているのだと、目の前の少女は楽しげに語っていた。
大通りで信号を待つ。僅かな沈黙は、降りしきる雨の音に掻き消されるように。
「――なあ」
俺は、隣に立つ少女へと声をかけた。
「え?」
「明日も」
明日も、行っていいかな。
ちらりと。
脳裏に、あいつの横顔が過った。
ああ、そうか。
きっと、
そういうことなのかもしれない。
「ええ……もちろん。お待ちしております」
戸惑いつつもにっこりと笑う少女の顔は、いつにもなく明るくて。
脳裏を過った横顔は、少し暗く見えた。
「コーヒーとモンブランですね、少々お待ちください」
からからと回るプロペラの音が、頭上から聞こえていた。外は相変わらずの雨。遅くなった学校帰りに立ち寄ったここでは、いつものように少女が給仕をしていた。
夏至を過ぎてまだ僅か、日は随分と長い。六時半を少し回ったあたりの今でも、外にはほの薄い明るさが満ちていた。
雨粒の音が聞こえる。
「お待たせしました。今日は少し遅かったですね」
コーヒーとケーキを机に並べつつ、少女はそう言った。
「ああ、うん。ちょっと最後の授業が長引いちゃって――まあ、よくあることだよ」
「そうだったんですね。ご苦労様です。うちの姉もよくそんなこと言ってました。今日最後だからって調子乗んじゃねーって、いつも」
少女は姉の言葉をそのまま口にする。少女らしからぬ言葉使いに、少しだけ驚かされる。
「お姉さん、いたんだ」
「はい。あれ、言ってませんでしたっけ。ここの近くにある専門学校に通ってるんです。保育士になるんだって」
「姉が保育士で、妹が教師、か……でも学校もここの仕事もあったら、勉強大変じゃないか?」
「うっ……よ、よくわかりましたね……そうなんですよ……時間を言い訳にするのは嫌いなんですけど、やっぱり勉強は大変で。部活も入ってはいますけど……ここが半ば部活みたいなものですし」
「ああ、紅茶研究会」
「……よく覚えてますね」
驚いた表情の彼女は、笑顔にも増して愛らしく。
「そういえば今何年生だっけ」
「あ、えっと……今は二年です。そっか、全然自己紹介もできてないんですね。ごめんなさい。店員って立場だとどうしてもあまりお話できないんです」
「それは構わないんだけど、今は大丈夫なの? 結構話し込んじゃってるけど」
「あ、今は……」
そう言って周囲を見回した。
相変わらずと言うべきなのか、そこには俺以外誰もおらず。
「今は、大丈夫みたいですね」
「そう、ならいいんだけど。いや、よくないのかな」
「いいんですよ」
少女は俺の向かいの席に触れて。
「ここ、いいですか?」
またいつもの笑顔で、言った。
「……ああ、うん。どうぞ」
「ありがとうございます」
そうして席に着く。向かい合って、特に何をするでもなく、ただ話を続けた。
時間は穏やかに流れていた。手元にあるコーヒーはそのほとんどがなくなり、ケーキも少し崩れながら半分ほどがなくなっていた。
「勉強、しなきゃですね……」
「そうだな。俺も他人事じゃない」
「やっぱり大変ですか? 勉強」
「まあ、な……とはいえなんだかんだ言って大学は高校より暇だよ。進学すれば勉強以外のことにも、手を回せるかもしれない」
ここの仕事にもね。
俺の言葉に、少女ははにかんで返した。
「私、ここ大好きなんです。できればずっと続けてたいなって思ってて――その話を聞いて安心しました。今より忙しくなっちゃったらどうしようって不安だったんですよ」
「まあここもアルバイトみたいなもんだろうし、バイトならほとんどの人がやってるから」
「そうなんですか……それに、家からも近くなりますしね。高校、遠いんです。もううんざりしてきました」
「まだ二年生なのに?」
「はい」
そう言って、笑う。
「……冗談です。勉強ができて友達がいて部活もできて、いい環境だと思ってますよ」
「そうか、良かった。高校を楽しめないと大学でも後悔しかねないからな」
「やっぱりそういうものですか……お兄さんは、どうでしたか?」
「――俺?」
自分は、どうだっただろう。
勉強はできた。友達もいたし、部活もやっていた。
そして。
恋人も、いた。
「……まあ、楽しめた方なんじゃないかな」
「そうなんですか。よかったじゃないですか。いいなあ、私も見習わなきゃです」
少女はそう呟くと、静かに頬杖をついた。何かを憂う表情を掌に載せて、雨音の絶えない窓に視線を遣る。
「……いや、俺より見習える人はたくさんいるよ」
「でもあの大学の人で知り合いなのはお兄さんだけなんですよ。このカフェがもうちょっと有名になって、いろんなお客さんが来てくれるようになって――そしたらもう少し、増えるかもしれませんけど……」
少女は目線を移し、相変わらず空っぽな店内を見渡して。
「いつになることやら、ですから」
「お客、来ないの?」
「全くです。まあ、まだオープンから日も浅いので名が広まってないだけなのかもしれませんが……でも最初からここは私の父の思いつきで始めただけなので、焦らずのんびりやっていこうってことになってますけど」
そう呟く少女は、厨房の裏手を指さした。こちらからは見えないその奥に、人の気配がある。
「思いつき……?」
「はい。父がいきなりカフェやりたいって言い出して、私も姉も紅茶とかコーヒーの知識があったからやろうってことになって。姉の進学と引っ越しをきっかけに、勢いでオープンすることにしたんです。完全な身内操業ですけど――」
少女は机に置かれたメニューを手に取り、そして開く。そのメニューに載る数々の写真は、少女の姉が撮影したものだと嬉しげに語った。
「父は毎日楽しそうですし、私も楽しいですし。いざとなったら姉が助けてくれるので。ただ少し、立地を間違えたかなって気もしますけどね」
入り組んだ裏路地が多いこの街で、カフェはまさにその裏路地に建っていた。隠れ家的なカフェ、とでも言うべき立地にあるここは、確かに名が広まるまでしばらくかかりそうだった。
「まあ、俺も友人とかに宣伝してみるよ。コーヒーうまいし」
「え、え? あ、ありがとうございます……嬉しいです」
会話は弾んだ。
お互いの学校のこと、勉強のこと、ここのカフェのこと、紅茶やコーヒーのこと。
時間が、穏やかに流れていく。
気づけば外は薄闇に包まれていた。
雨音は、未だ止まず。
窓ガラスに打ち付ける雫は、いくつもの筋を伝って窓を流れ落ちていた。
雨は、降り続いていた。
雨は止んでいた。しかし薄雲は晴れる様子もなく、太陽はその影に姿を潜めたままだった。
休日の朝、まだ七時にもなっていない。休日に早起きする妙な癖は、ここ最近から抜けなくなっていた。
自宅の窓から外を眺め、手中の携帯電話を握り締める。
「――どしたの?」
案の定、だった。あいつが早起きであることも、随分前から変わっていない。
「暇になった」
「……え?」
「会えるか」
電話越しにでも、彼女の驚いた表情が判った。
「ついこないだ会ったとこだけど……」
「あの日はそっちの突然の誘いだったからな。仕返しだ」
冗談めいた言葉に、彼女は少し笑って。
「ん、いいよ。どこにする?」
何度も繰り返したこの会話。予測できた返答の先に、用意しておいた答えを出す。
「優妃丘(ゆうひがおか)、行かないか」
「――どうしたの?」
彼女は怪訝な声色で、俺の言葉に返す。これも予想はできていた。
「何がだ」
「おかしいよ、なんか。そんな恋人じみたこと」
もう、随分してないのに。
「だからだろ」
「え?」
「行きたいんだ。何をするってわけでもないけど、あの――恋人の聖地に、二人で」
目を点にする彼女が、電話の向こうに見えた気がした。
「……いい、よ。うん。いいよ。行こう。観覧車も乗ってみたい」
三年ぶりくらいかな。久しぶり、だよね。
少し笑い声を混じらせて、それでもどこか寂しげに、彼女は呟いた。
「ああ。それじゃあ九時に秋月だ」
「りょーかい。今日くらいはいい服着ていかなきゃだね」
こうして、通話は切れた。
――どうして、俺は唐突に。
こんなことをしたのだろうか。
少しだけ前の記憶を、慎重に遡った。
「お兄さんって、彼女さんいらっしゃるんですよね」
話の切り出しはあまりにも唐突で、口に含んでいたコーヒーを目の前の少女に吹きかけるところだった。
「――は?」
そしてやっと出せた声が、この素っ頓狂っぷりだ。
「……なんで知ってるんだ」
「だって……それ」
そう言って少女が指差したのは、テーブルの脇に置かれた俺の携帯。
「裏に写真が貼ってましたよ。バレバレです」
言われてようやく思い出した。携帯を手に取って、ひっくり返す。古びてかすれた写真が、一枚だけ貼ってあった。
「目ざといな」
「だって毎日、いつもそこに置いてたじゃないですか」
最初に店を見つけてから今日に至るまで、おおよそ二週間。俺は毎日欠かさずここに来ていた。それでもこれまで、俺以外の客と会った事は一度もなくて。
「そりゃ見つけますよ。お兄さん、あんまり女っ気なさそうだからびっくりしちゃいましたけど」
「――そうか、悪かったな」
「でもその写真、随分古いですね……」
写真を見た。そこには制服でぎこちない笑顔を浮かべる俺と、彼女の姿がある。
いつ撮ったのかすら、思い出せそうになかった。
「あれ、制服……?」
「ああ。高校の時の写真だよ」
「え、じゃ、じゃあ……ご、ごめんなさい! そんなによく見てなかったのでつい今の彼女さんかと……」
少女はなぜか慌てていた。そしてその理由も、簡単に察しがついて。
「――いや、それでいいんだ」
「え?」
「今の彼女で間違いないよ。未練たらたらで貼ってあるわけじゃない」
「あ、そ、そうなんですか……って、じゃあ高校からずっと同じ人と?」
「ああ、そうなるな。一年のときから――もう四年以上になるのか」
指折り数える、ふりだけした。
「すごいですね……私は彼氏とかいたことないのでわからないんですけど、周りの友人とか見てると長くて一年とか、そんなのばかりなのに」
「高校生の恋愛なんてそれが普通なんじゃないかな。俺たちはなんというか……」
なんというか。
なんなのだろう。
言われて初めて気が付いた、この違和感。
俺は、あいつと。
「……お兄さん?」
「ん、ああ、すまん」
「なんというか、なんなんですか?」
なんなのだろう。黙り込んだ俺を見て、少女は気を遣ったのか。
「――でも、いいですよね。そんなに長くお互いを思えるって」
「いい……のかな。よくわからん。まあ数ヶ月とかで別れちゃうよりは、いいのかもしれんが」
「彼女のこと、好きなんですか? 今も」
「そりゃあ」
もちろん、と言いかけて、口をつぐんだ。
そしてちょっと悩んで、おもむろに口をついて出た瑣末な疑問。
「好きって、なんなんだろう」
ほんの少しだけ、胸につっかかる何かを感じて。
「へ?」
「いや、すまん。なんでもない」
少しの沈黙を挟んで、そして。
「好きってのは、相手がいないと辛いとかそういう感情なんじゃないですか?」
「……聞こえてるなら聞き返すなよ」
「ごめんなさい。でも、あまりにもお兄さんらしくない質問だったもので――まあ、恋愛経験の乏しい私個人の意見ですけど」
「相手がいないと辛い、か」
窓の外を見た。空は薄暗く、窓ガラスには水滴が浮かんでいる。雨が降り続けて、もう何日が経つのだろうと――そんなことを、ふと思う。
「辛い……のかな、俺は」
「……寂しいこと言わないでください。最後に会ったのはいつなんですか?」
「先週の火曜だ」
「そのとき、会えて嬉しいとか離れるとき悲しいとか、思いました?」
「うーん……」
会った時間もそんな長くはなかったこと、以前と変わらぬ会い方をして、新鮮味にも乏しかったこと。
このあたりを説明すると。
「じゃあ、ゆっくり長い時間二人で、いつもと違う会い方をしてみましょう」
「……あいつはそういうガラじゃないような気もするんだけどなあ……」
そう言いつつ、この言葉に自信を乗せることはできそうもなかった。
年月を経ても、他人の心はわかるはずもなく。
「まあそう言わず、ですよ」
「……そういうものなのかな」
いつにも増して目を輝かせる少女を前にして、断る言葉は出てこなくて。
それに――
胸に引っかかるような、違和感。
脳裏に過る彼女の顔が、少しだけ霞むのを感じて。
「……そういうもの、なのか」
独り言のように、呟いた。
「急に降っちゃったね」
予想はできたはずなのに、二人とも傘は持っていなかった。霞む空と濁った空気は、美しいはずの街並みをどこか淀んだものに変えている。
「まあ……季節が、季節だからな。悪かったよ、急に――」
急に呼び出して。
そう言おうとして、ふと口を噤んだ。
そうだ。急に。
これまで何度もあった、急な呼び出しだ。
「……歩こっか」
彼女が呟くように言った。聞き馴染んだ声に、俺も静かに返す。
「……そう、だな」
雨音にかき消されているのか、世界がずいぶんと静かに思えた。雫は容赦なく降り注ぎ、肩を、手を、濡らしていった。
人通り、車通り、そのどちらもが穏やかに雨を弾く。
地に打ち付けられる雨粒の全てが、この場所の音を上書きしてゆく。
ああ、そうだった。
あの時も。
この場所で、初めて彼女と会ったあの時も。
天気は、崩れていた。
あの時。
二人で入った傘の下で、彼女は随分と――残念がっていたのを覚えている。
「あのさ」
「――うん?」
少し歩いた先、人通りの少ない小さな橋の上にたどり着いた。欄干から外を覗くと目の前には海辺が見える。天気のせいか、いつもの喧噪は――ここにはなかった。
彼女が隣で俯いている。目を遣る必要も感じられないほどに、視界の片隅に映る情景はあまりにも馴染み深くて。
雨が、静かな海に打ち付ける。
波はなく、凪いだ風が雨粒を少し揺らした。
「きっとね、わかってたんだ」
何の話か、彼女は語らなかった。ただ間に漂う沈黙だけが、この場にある音の全てだった。
「――時間は流れるし、人の心は移っていく。私は昔を悔いたことはないけど、それでも」
四年。
この時間は互いが思考を――心を巡らせるには、あまりにも長すぎたのだろうか。
この景色を。
彼女は、何色に見ているのだろう。
「――そうだな」
俺は、ただ。
一言、こう返した。
きっとここに必要な言葉が――そう多くないことを、随分と前から知っていたのだ。
「……謝るつもりはないし、謝られるつもりもないよ。どっちも悪くはないんだし、まあ――強いて言うなら時間が一番の悪者かな、なんて」
少しだけ、彼女が微笑んだのを感じた。視界の隅に移る彼女の横顔は、あの時見たそれとは随分と違って。
悲しみや哀愁といった使い古された言葉では言い表せないほどの何かを、頬を流れる雨粒に溶かしていた。
「長いようで短いようで、妙な時間だったよ。私はあんたを恨む気持ちも、感謝する気持ちも、幸せを願う気持ちも、それからいっそ不幸に落ちろって気持ちも、その全部を感じてる」
彼女の視線が、海の上を泳ぐ。俺も、風に煽られる波間をただ見つめていた。
「ただね」
彼女の声は少し掠れていた。それなのにどこか強くて、そして。
「そんな心の全部がないまぜで、今はとっても不思議な感情なんだ」
彼女がこちらを向いた。降りしきる雨は彼女の頬を濡らし、そして滴ってゆく。
俺は静かに、彼女の言葉を待っていた。
「だから――」
雨は降り止まず。
空は、随分と白かった。
霞んだ空気は穏やかに頬を撫で、やがて舞い上がって消えてゆく。
そして浮かぶ、たった一つの感情。
悲しみ、後悔、不満、怨恨。
そういった全てをかき消すように、心の中を埋めていく感情。
俺は、今、とても――
寂しい。
日は暮れかけていた。連絡先が一つ減った携帯を片手に、俺は近くの公園にいた。
夕暮れの空は残酷なほどに美しく、昨日あれほど降りしきった雨が嘘のように晴れ渡っている。
時というのは残酷だ。そして人の心は思っていたより随分と弱く、脆いらしい。うつろな頭でそんなことを思いながら、空を見上げた。
雨は、降りそうにない。
赤く染まった空は雲のひとつすら浮かべることなく、澄み渡った空気を遠くへ流していく。
綺麗だなと、そう思った。こうやって空を見上げたのなんていつ以来だろうと、そんなことを考えながら。
自分の心が、いつになく静かなことに気づく。
不思議なものだと、改めて感じた。愛や恋心なんてものは空虚で、失えばそれは憎悪や怨恨にすり替わるとばかり思っていた。
だからそこに残るのは悲しみで、
それを乗り越えることが、恋の克服なのだと。
俺は、随分と浅はかだったらしい。
後悔とはまた大きく違う奇妙な感覚が、心を支配してゆくのを感じていた。
ああ、そうか。
俺はきっと、
過ぎた時間を、追っている。
心に空いた穴は思っていたよりも小さく、それでいて酷く思っていた形から遠かった。公園のベンチから立ち上がった時、日はずいぶんと沈んでいた。
さっきまで紅に染まっていたはずの空は青白く、星のいくつかも見え始めている。
そう決めていたわけではないけれど。
俺には、向かう先があった。
「いらっしゃ……あ、お兄さん。今日もありがとうございます」
客は、俺ひとりだった。あまりに見慣れたこの景色に、少しだけ笑いそうになってしまった。
「昨日は珍しく来られませんでしたね。少し寂しいなって思っちゃいましたよ」
そう呟く彼女の目を、見ることはできなくて。
足早に着いたいつもの席に、彼女はメニューを置いた。
「ありがとう。いつものセットで――お願いできるかな」
「はい、コーヒーとモンブランですね。少々お待ちください」
そう言い残して、彼女は去った。
窓の外を眺める。日は暮れて闇が覆い、それでも空気はどこか静謐で。
遠くに見える街灯の光が、霞の中にぼんやりと浮かんでいる。
星は、もう見えなかった。
「お待たせしました。コーヒーとモンブランです」
かたりと置かれたそれらを見て、俺は少しだけ手を止めた。
何故か、今これに手を出すことへ――罪の意識を感じていた。
「……どうか、しましたか?」
「――ああ、ごめん。なんでもないよ」
そう言ってコーヒーを口に運んだ。それはいつもよりずっと苦くて、味気ないものに感じた。
その様子を眺めていたらしい、少女が。
「……めずらしいですね、お砂糖なしって」
そう言われて初めて、俺はいつもの習慣のいくつかを忘れ去っていたことに気づかされた。
「えっと……そうだな、うん。そうだった」
そう呟いて、俺は机のスティックシュガーへ手を伸ばした。
「――何か、あったんですか?」
彼女のこの言葉に。
何か言外の意図を感じてしまったのは、俺の思い上がりだったのだろうか。
「いや――いや、なんでもないよ」
「でも明らかに様子が変ですよ。だって――」
そもそも普段、こんな遅くに来ないですもん。
少女のその言葉を聞いて、俺はようやく――この場所から見る夜景が初めてであったことを思い出した。
「そうだな、ああ……そう、だったな」
言い淀み、というのはこういうことを言うんだろうか。そんなくだらない考えが、頭を過った。
俺は、何を成しに。
ここへ、足を運んだのだろう。
少し前まで思い描いていたある種の未来は、昨夜の雨にいくらか溶かされて。
今の手元にはもう、幾分も残っていなかった。
そうだ、雨だ。
あの雨音が、雨粒が、雫が、そして。
雨と見紛うような、あの涙が。
俺の心にあった、何かとても――大きなものを、流していった。
「大したことじゃないんだ。だけど少し、悲しい――いや、違うな、なんというか」
コーヒーの水面が、静かに波打つ。
「そうだな、なんというか――」
言葉が失われていくのを感じた。この心を言い表すには、言葉というものはあまりにも弱くて。
俺は黙って、手にした携帯を裏返した。
「――そう、ですか。そうでしたか。昨日、ずいぶんと酷い天気でしたね」
彼女は目を伏せ、ただそれだけを呟くように。
「あんまり雨の中外にいると身体を壊しますよ。気を付けてくださいね」
彼女の言葉は、静かだった。天井を回るファンの音が、嫌に耳に響く。
「――お兄さん」
少女がこちらを向いた。その華奢な手は、カフェの丸いトレーを強く握りしめている。
「……どうしたんだ」
妙に力強い言葉に、少しだけ怖気づきながら。
俺は、その顔を見つめ返した。
「あの――」
きっと、次がありますよ。
彼女の淡い笑顔は、まるで絵に描いたかのように鮮やかで。
同時に俺の心をどこか――抉るように掠めていくのを感じた。
いつも聞こえていた雨音が、今日は聞こえてくることもなく。
静寂が、次の俺の言葉を待ち続けているように。
「――そうだと、いいな」
そう答える俺を、目の前の少女はどこか悲しげな瞳で見つめている。
その悲しみは、どこから来るのだろう。
哀れみか、同情か、それとも何か――
人の心なんてものは、いつだってわかりそうにない。
店を出た俺を待ち受けていたのは、暗闇と薄雲った空だった。月明りのひとつもない夜空を見上げて、ついた溜息が白く濁っていることに気づく。
時節に見合わず、随分と冷え込んでいた。
歩き出す足取りは、それでも何か重いものを置いてきたように軽くて。
出がけに店員の少女から聞いた言葉が、脳裏を静かに過っていった。
「その時は」
星の一つでも見えてくれればよかったと――そんなことを、思いながら。
「お二人でいらしてくれると、嬉しいです」
雨月の夕日 くそわろたわし @kusowarotawashi
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