届かぬ手紙をゴミと呼べるか

@east_h

本文

 ポストに入らなかった封筒は、優に二桁を超えている。投函したって結局は届くあてのない手紙が一通、今日もまた部屋の片隅の紙袋に放り投げられた。資源ごみにもなりやしないのに。

 現代というのはかつてに比べれば随分と便利になりながら、いくつかの言い訳を食いつぶしている。同じ惑星にいれば地球の裏側とだって会話ができるし、自分がそこに到達するのだって不可能というわけでもない。わたしがおまえに会わない理由は今日も一つくらい減って、明日もきっと減るだろう。


 空は抜けるように青く、空気は纏わりついてうざったい。爽やかな夏の風情を演出するにとどまらない熱気が、シャツの襟から首筋をなぞっていった。

 汗が伝う感覚はどれだけ世界が進んでも変わらない。気付いた夏はもう随分と前のことだ。わたしより暑さに弱かったおまえは、いつだってわたしより先に日陰を探して小走りでどこかへ逃げ去っていった。走っては逆効果になるだろうとは、何度言っても聞き入れてもらえなかったが。

 あの時よりずっと暑くなった夏、どこかのおまえが太陽にやられていないかだけが心配だ。そこまで考えて、他にも心配なことがシャボン玉のように浮かんで弾ける。きちんと飯を食っているか、きちんと寝ているか、きちんと生きて、きちんと生まれているか。

 わたしは比較、あいつと比べて良いのであれば、約束を守る人間だ。待ち合わせ時刻を指定されれば数刻前には現地にいるし、飯を作るときは示された手法に則る。だから今だって、また会おうと言われたのだから、指定されなかった待ち合わせ場所を探して、こんな馬鹿らしい手紙を書いては捨てている。会おうだなんて適当なことをほざいた割りに、いつ、どこでなのかも定めずにいってしまったのは、おまえのほうなのに。もっとも、ほざくと表するには声が細かったから、より正確に思い起こすのであれば漏らすとでもしたほうが事実に近しくなるのかもしれない。いつでも適当なことを言う割に、軽薄な素振りをするくせに、そういったどうでもいい箇所ばかり訂正を求めてくる人間は観測圏内にいないので、多少悪意をもったって構わないだろう。わたしの発言や思考を訂正できない場所にいるほうが悪いのだ。わたしはずっと、正しくずっと、この世で生を受けてからというものずっと、おまえとの約束を果たそうとして手紙を書いては捨てているのに。

 細かい作業を嫌ってわたしに押し付ける割りに、手紙の文化を愛していたおまえのための拙い手紙は、小難しい挨拶だのの形式を捨てて、今やもうただの殴り書きに近くなってしまった。言いたいことは山ほどあるのに、一発殴れば伝わるはずなのに、空振りする手は今日だって夜の空白を微塵も動かしはしない。

 夜を暑いと言うおまえがいないから、気温ばかり上がる夏の夜はどこか冷たい。


 朝は眠いから嫌い、昼は眩しいから嫌い、夜は暗いから嫌い。文句ばかりつけるおまえと会うのは日暮れの時間が多かった。互いに自由の時間はそれほど多くはなく、空が塗り替わるまでの短い時間に伝わる情報量は限られていたせいで、何らかの物事を紙に書いて渡すようにしようと言い出したのはおまえのほうだったか。約束に間に合わないことの多かったおまえだけれど、その手紙だけは毎回忘れずに持ってきていた。少し右上がりの文字はその日の出来事であったり、翌日の予定であったり、あるいは遠い未来の希望の話であったり、わたしには縁遠い内容を綴っていたように思う。わたしといえばその日一日の行動表を渡すばかりであったので、悪いと感じたことがないと言えば嘘になる。だから今回は、今生では少しくらいは面白みのある話を聞かせてやろうと、おまえと会えたら行きたい場所を連ねて、それを希望と呼んでいる。

 待ち合わせの時刻にこそ遅れがちだったおまえだけれど、一度だって約束そのものをなかったことにはしなかった。ごめん! と大きな声で詫びながら、手土産片手に駆けてくる姿を見るたびに、その荷物がなければもう少し早く来れたんじゃないかとか、いちいちそんな土産を持ってくるような関係ではないだろうとか、空気を揺らすことのなかった文句はいくつだって胃の中に落ちていった。あいつの選ぶ土産はいつだって食べたことがないものだったし、どれもが思わず声が出るほどに美味かったのだ。今思えばそれを食わせることでわたしからの文句を封じたかったのかもしれない。案外ずる賢いことを平気でする奴であったので、全くないとも言い切れなかった。

「はやく来い、ばか」

 文句が思わず漏れるのだって、口を塞ぎに来ないおまえが悪い。


 季節を逆行したような空の色は、今にも泣きだしそうなほどに黒に近い。今日もわたしはポストの前に立ち止まって、ついぞ握ったままの封筒を再び鞄にねじ込んだ。

 自分が誰かを待っていると気付いてから、顔もわからぬおまえのために、名前も忘れたおまえのために、幾度も宛てなく日暮れを歩いた。それは雨が降っていたって変わらない習慣で、期待値なんてものはとうの昔にゼロに近いところまで落ちている。それでもゼロになっていないから、こうして無意味な手紙を握って、徘徊じみた時間を過ごしているのだ。馬鹿だと鼻で笑ってくれる相手もいないので、きっと明日も、こうしてわたしはこの道を歩いていく。かつて見ただろう景色と似た場所を探して、おまえもわたしを探しているんじゃないかと、淡い望みを抱いて。

 温い空気はじゅうぶんすぎるほど水分を含んでいる。あと一滴くらい増えたって変わらないだろう。


 その日はやはりインクをぶちまけたような青空に、刷毛で塗ったような白い雲が浮かんだ暑い日だった。今日もわたしはポストの前で、封筒を握りしめていた。宛先もわからないこんな出来損ないを、どうにもならない紙切れを破棄することすらできずに、じりじりと太陽に笑われている。数週間後に流星群を見に行きたいと書いたそれは、星の降る当日になったってわたしの部屋で居心地悪そうに眠っているのだ。

 かつてだってわたしは一回もおまえをどこかへ誘えなかった。朝も昼も夜も嫌いなおまえを引き留められる自信がなくて、断られたら手紙すら渡せなくなるのではないかと危惧していたのだ。誘うこともできなくなるなんて思いもしていなかったから、それがこんな後悔の形をしてわたしの足を掴んでくるとは思ってもいなかった。おまえが残した約束は、呪いと同じ輪郭でわたしの腕を引いている。おまえと会うためだけの今生は、宛先のない手紙と同じく出来損ないだ。おまえさえいれば完成するはずなのに、肝心のおまえはどこにいるのかもわかりやしない。


 柔らかく風が吹いて、塗りつけられた雲はどこかへ消えていた。眩しい日差しが照り付けて、思わず目を庇って手を翳す。ああ、わたしも眩しい昼は嫌いだ。目を閉じてしまえば朧げな輪郭を探してしまうから。

「ほら、やっぱり眩しいのは良くないんだよ。見えないものを見てしまうし、本当に見たいものほど覆い隠して見えなくなってしまう」

「……は?」

「はは、ごめんね。待たせたよね」

 理解が追いつくまでに、再び風が雲を運んで、痛いほどの日差しが遮られていく。熱気にやられてみた幻覚は、存外の質量を持って変わらず目の前にあった。なんで、なんで忘れてたんだ。顔だって、声だって、ちっとも変わっていないのに。

「いや、わたしだってね、待たせたくて待たせたわけではないんだよ。そもそもきみのことを思い出したのだってそんなに前のことじゃないし。きみもわたしのことを覚えている確率なんて、今でいう天文学的確率ってやつだろう?」

「……俺はずっとあんたを待ってた、ずっと」

「言ってくれるね。熱烈じゃないか、もしかして口説いてる?」

 そうやってわたしを、俺を揶揄うようにして笑うのだって同じだ。ひょいと俺が握っていた封筒へ手を伸ばす。どうせわたしへの手紙だろう? と適当なことをいってベリベリ封を開けていくのを、ただ呆然と眺めていた。

「へえ、きみ流星群とか見たいのかい。可愛いところあるじゃないか。いいよ、行こうよ」

「へ」

「なんだいそんな、今更おばけでも見たような顔になって。ふふ、まあ一度死んでるし、おばけだった時期もあるだろうから、そんな間違っちゃいないけど」

「あんた、夜とか、嫌なんじゃなかったの」

「うん、嫌いだよ? でも他でもないきみが行きたいって言うならよろこんでご一緒するさ。なんてたって、ずっと待っててくれた、みたいだしね」

「馬鹿だって言えばいい。最期にあんたが言ったから、俺は待ってたのに」

「ああ拗ねないでよ、ごめんって。今度ケーキでも食べに行こう? 美味しいアフタヌーンティーを知っているんだ」

「行く」

「ほら、こんなところで立ち話も具合が悪くなりそうだからさ、どこか日陰に入ろうよ。こんな所で突っ立ってるくらいだからどうせ暇なんだろ?」

 人のこと待たせておいてその言いぐさはないだろうとか、ケーキで黙らせようとするなとか、もしかして今生でも身体が弱いのかとか、文句は色々あったのだけれど、ほんの数センチ触れた指先があまりに熱いから、そのほかの言葉ごと、どこかへ飛んで消えてしまった。思わずその手を引き寄せて、ぎゅうと握る。こら、痛いってば、と眉を顰めるのを無視して、もう一度ちからを込めた。もう二度と、目の前から消えないように。


「はやく行こうよ、走って!」

「走る方が暑くなるだろ!」

「いいんだよ、早く早く!」


 ほら、やっぱり走ったほうがあついのだ。

 それにもう暇なんかじゃない。言いたかったことは全部、手紙に書いて取ってある。雨が降っても星が降ってもあんたを離さない理由が、俺の部屋の片隅に眠っているのだ。

 朝も昼も夜も、あんたの隣に置いてくれ。そればかりは手紙に書いていないから、ついぞ伝えることはないだろう。

 雲間から差した光がふたりぶんの影をコンクリートに落としている。見上げた空の眩しさを言い訳にして、繋いだ手を離すことはしなかった。

 ひとりで過ごすには冷たく、ふたりで過ごすには暑い季節だ。

 熱気を抱いた風が俺たちの背中を押していく。触れた手の熱さに慣れるのは、もう少し先のことになりそうだった。

 

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