尻神様インザスカイ
尾八原ジュージ
尻神様インザスカイ
「いやぁ〜、
回転イスをギイギイと鳴らしながら、肛門科の医師は突然そう言って笑いだした。ボサボサ頭に丸眼鏡の白衣のおやじが笑うと、いかにもマッドサイエンティストという感じだった。
患者たる俺の方は、なにを褒められたのやら見当がつかない。「何の話ですか?」と尋ねつつ、ああ尻が痛いと思った。
長時間のデスクワークが祟って、外痔核、いわゆるいぼ痔を抱える身になった俺は、およそ二週間前にこの病院のドアを叩いた。初回の診察を受け、「次に来たときに手術しちゃいましょう。そしたらスッキリですから」とマッドサイエンティストめいた医師に診断されたまではまぁ、よかった。しかしそれから診察を重ねること三度、いずれも「手術はやっぱり止めて、薬を試してみましょう」と言われて塗り薬を出され、しかしいぼ痔の方は痛みこそやや和らいだものの一向に治る気配がない。今日こそ「一思いに切っちゃってください」と言おうと決めて病院を訪れたところがこれである。なにが大したもんだって?
「いやね、菊見沼さんのいぼ痔ってこのくらいの大きさで、なかなか立派なものなんですがね」
医師はそう言いながら、親指と人差し指でその大きさを示してみせる。
「これがねぇ、微妙な凹凸があって、不思議と顔に見えるんです」
「はぁ?」
「しかもそれがなんと言いますか、何とも穏やかで神々しくって、たとえるなら仏像を思わせるようないいお顔なんですな。あまりにいい顔なもんで、初診のときにうちの看護師がね、こっそり拝んだそうなんです」
何をしてくれてるのか。だいたいいぼ痔の顔つきなど褒められても、まったく嬉しくないのだが。
「そしたらなんと!」
医師の声がワントーン上がった。「その看護師、その日にずっと付き合っていた恋人からプロポーズを受けたんですよ!」
「はい?」
「それが院内でちょっとした評判になってねぇ、次に来たときに別の看護師が、その次に来たときには受付の者が菊見沼さんの診察中にこっそり来て、拝ませてもらったんですよ」
「ななな何やってんですか!?」
看護師のみならず受付のスタッフまでが俺の肛門を見たという告白に、思わず声が大きくなってしまう。俺が診察台の上でぼーっとしている間に、そんなことになっていたなんて……俺のショックなど顧みず、医者はなおもマイペースに話を続ける。
「そしたら今度は、看護師の方は入院してた母親の手術が奇跡の大成功! 受付の方は道端でストライクゾーンど真ん中のイケメンにぶつかって双方恋に落ちたんです!」
嘘つけよ。
「で、こないだは私が拝ませていただきまして」
「先生も拝んだんですか!?」
「いやぁ、大したもんだ……うふふふ……」
医師にも何か喜ばしいことがあったらしい。それはさておき、
「手術してください」
予定通りそう言うと、医師は「なんと!」と叫んでイスからずり落ちそうになった。
「あの有難いお顔を取ってしまうとおっしゃる!?」
「いや、こうしてる間もずっと尻が痛いんですよ! 日帰り手術でスッキリ治るんじゃなかったんですか!?」
「まぁウェブサイトにはそう書いたし、実際普通はそうですけどね?」と医者はまたぐずぐずし始める。「取ってしまっていいものかなぁ……ありがたい神様かもしれませんよ? 四回も続けば本物だと思うがなぁ」
「いやでも、とにかく痛いんですって!」
「うーん、でもねぇ、万が一本物の神様だとねぇ、むしろ取ってしまったら悪いことになったりして……ねぇ……」
まぁよく考えてみてくださいよ、ということで、結局今日も体よく帰されてしまった。
痛い。痔がこんなに辛いものだとは思わなかった。こうやって歩いていても、飯を食っていても風呂に入っていても、なんなら何もしていなくたって痛い。こんなことなら別の医者にかかればよかった、とも思うのだが、このあたりは肛門科が少ない。この病院のほかには、口コミ評価が「二度と行きません」しかないボロボロのところと、中学の時の同級生が医師をやっているところしかない。知り合いのところにはこう、何となく行きにくいものである。それに病院を変えたところで、そこでもまた尻を拝まれないとは限らない。
しかし気になる。本当にいぼ痔が人の顔に見えるものなのか? それも実に有難い、神様のような顔だというじゃないか。だが、自分で自分の肛門を見るのは難しい。
こういうとき、他人の肛門を文句も言わず確認してくれそうなのは誰か――少し考えて、俺はデリヘルを呼ぶことにした。一人住まいのアパート(そこそこの頻度と金欠のため自宅に呼ぶのが常態化している)に「ご指名ありがとうございま~す!」と愛想よくやってきたデリ嬢、源氏名メロンちゃんにはすでに何度もお世話になっており、彼女なら頼めば俺の尻を見てくれるだろうという確信があった。
はたして事情を聞いたメロンちゃんは、快く俺の頼みを引き受けてくれた。
「いじってほしいって話じゃないのね?」
「むしろ今いじられたら死んじゃう」
「わかったわかった。ついでに薬も塗ってあげようか」
優しい。涙が出そうになった。
というわけで俺はズボンとパンツを脱ぎ、ベッドの上に仰向けに転がって膝を抱えた。胎児のような姿勢である。見られているかと思うとやけにスースーするな……などと考えていたら、「わお」とメロンちゃんが声をあげた。
「すごい、本当に顔に見えるよ! うん、確かに拝みたくなる顔してる」
「おいおい、まさか拝まないだろうな」
「でも本当にそういう顔なんだって……ああ、なんか涙出てきた。感動する。ええと、死んだあたしの息子にひと目会わせてください」
「だから拝むなって!」
俺は胎児のような姿勢をやめて、ベッドの上に起き上がった。その時である。
突然部屋の真ん中に、パジャマを着た小さな男の子が現れた。
「ヒエッ」
とっさのことで変な声をあげるのが精いっぱいだった。どこから出てきた? まさか幽霊――? そのとき、「わあぁあぁぁ」とメロンちゃんが大声をあげて、男の子に抱きついた。
「かーくん! かーくんだよね!」
そう呼びかけながら、彼女は男の子を抱きしめる。
「ママ、ぼくもう胸苦しくないよ」
「よかったぁ。よかったねぇ」
俺が啞然としているうちに男の子の姿は徐々に薄れ、微かな光と共に消えてしまった。メロンちゃんは床にへたり込み、大粒の涙を流して息子の名前を呼んでいる。とりあえずそっとしておくと、しばらくして彼女は顔をあげ、涙をぬぐった。さっぱりとした顔をしていた。
「あの……大丈夫……?」
呼びかけたとたん、メロンちゃんはぴょこんと跳ね上がって床に正座し、俺に向かって何度も頭を下げ始めた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
そう言いながらあべこべに俺に金を払おうとする。なんとかそれをバッグに納めさせ、まだ時間が余っていたが今日はもう帰ってもらうことにした。その過程で話を聞いたところ、何でも彼女、幼い息子の病気を治療するために多額の借金を背負い、息子の死後もそれを返すために昼夜働いているらしい。その痛切なエピソードには思わずもらい泣きしそうになったが、心を鬼にしてお引き取り願った。メロンちゃんは何度もお辞儀をしながら帰っていった。玄関の鍵を閉めた後で薬を塗ってもらい忘れたことに気づいたが、もう遅い。
さて、事態は振り出しに戻った。どうやって肛門を確認すべきだろうか。
少し考えた上で、スマートフォンのカメラを起動し、セルフタイマーを使って尻を撮影することにした。位置と角度を調整し、タイマーを起動したあと任意の位置で胎児のポーズを撮る。ピロン、と音が鳴った。
「おお、撮れ……いや、微妙だな」
確かに肛門は写っている。見たくない姿の自分がそれなりの画素数で画面の上に現れてはいるし、ここが患部らしい、というところもぎりぎりわかる。だが、それが人の顔に見えるかと言われるとさっぱりである。肛門科の医師やスタッフたち、メロンちゃんまでが拝んだものなのだから、さぞしっかり顔に見えるのだろうと思ったが、これでは納得がいかない。何度かやり直したが、結局めぼしいものは撮れなかった。無駄に自分の見たくない姿を見ただけだった。
ベッドの上にひっくり返って、肛門科の医師やメロンちゃんの顔を思い出す。ああ、彼女に写真も撮ってもらえばよかったなと考えた。大体いぼ痔が人の顔に見えるって何なんだ。それも有難い神様みたいな顔で、拝めば願い事が叶うなんて猶更何なんだ。大体俺に何の得もないではないか。見られないんだから。
試しに胸の上で手を組み、「尻の痛みが消えますように」と祈ってみた。何の変化もなかった。「恋人がほしいです」と祈ってもみた。突然部屋の中に美女が現れ……などということもなかった。
ぜひとも自分のいぼ痔がどうなっているのか確認したい。だができない。誰かの手を借りようにも、まず「肛門の写真を撮ってほしいんだけど」と頼める相手がいるだろうか? 俺は自分を取り巻く人間関係をふり返った。離れて暮らす両親にも、可愛がってくれた祖父母にも、学生時代からずっと仲のいい友人たちにも、なかなか頼めそうになかった。そう思ってみると些か寂しいような気もする。俺には肛門を見せてもいい相手がいないのだ――。
(やっぱりこういうときは、彼女とか嫁さんだよなぁ)
などということを考える。そういえば会社の同期が痔を発症したとき、奥さんに薬を塗ってもらったと話していた覚えがある。やはりこういうときに頼れるのは、そういう関係の相手ではないだろうか。
俺はもう一度「恋人がほしいです」と祈った。できれば優しい人がいい。文句ひとつ言わずに俺の肛門を確認してくれる人が。
やっぱり何も起こらなかったが、今日はなくても明日は何か起こるかもしれない。そう考えることにして、その日はさっさと寝た。薬は塗ったが、相変わらず尻は痛んだ。
翌日、早朝にも関わらず何度もインターホンを押されて目が覚めた。
おそらく宅急便だろう。眠い眼をこすりながら「今開けます!」と返事をし、サンダルをつっかけて玄関に出た。
宅急便ではなかった。見知らぬ老若男女がアパートの廊下に詰め掛けていた。
「尻神様! 尻神様だ!」
そう叫ぶ人々をよく見ると、中にあの肛門科の看護師や、デリ嬢のメロンちゃんが紛れているではないか。
「尻神様、ぜひ拝ませてくださいませ」
「いやいやいや無理無理無理無理無理。ちょっとメロンちゃん! どうなってんの!?」
叫びながら手を振ると、メロンちゃんは「SNSに書いたらバズッちゃいました!」と言って微笑んだ。そんな投稿を真に受ける人間がこんなにいたとは驚きだが、悠長なことを言っている場合ではない。
人混みの中から肛門科の看護師が現れ、俺の手をとった。
「尻神様は尊い神様です。わたしたちだけではなく、もっと多くの方々を救うべきです」
「いやそれ尻を見せろってことでしょ!?」
抵抗したが、看護師もメロンちゃんも「そこをなんとか」と譲らない。
彼女たちの目は、いずれもキラキラと輝いている。思うに彼女たちは善人なのだ。自分たちだけが霊験あらたかな尻神様を独占しようとするのではなく、より多くの人を助けたいと考えたのだ。それはいい。でもよくない。こうしている間にも数の暴力に負けた俺は、いつの間にかアパートから引っ張り出され、善男善女に神輿のように担ぎ上げられてどこかに運ばれていく。まずい。このままでは最もプライベートな部分が衆目に曝されてしまう。無理。ほんと無理。
上空からキィーンという空を切り裂くような音が近づいてきたのは、その時だった。あっと言う間に俺の体は浮き上がり、人々の手を離れて上空へと舞い上がった。
「わははははは! 間一髪!」
俺の体を抱えて高笑いしているのは、なんとあの肛門科の医師である。いや、医師のように見える何かだ。顔はあのマッドサイエンティストめいたおやじのままだが、体の大きさは約二倍になり、おまけに硬い金属に全身を覆われている。背中には飛行機のような翼が生え、エンジンらしき異音が彼の体を通して俺にも響いた。
「実は菊見沼さんの肛門を拝んだ日、悲願であった改造手術の実験体に選ばれたのですよ! 手術は成功し、私は最強のアンドロイドになった。わははは、実にいい気分だ!」
嘘だろ。さすがに嘘と言ってくれ。しかし現に俺は空を飛んでいる。医師の高笑いが青空に響く。
ヘリコプターの音が近づいてきた。振り向くといつの間にか近くに迫ったヘリと、その中でライフルを構える男の姿が目に入った。これは死ぬ、と思ったのもつかの間、医師の脇腹からミサイルが飛び出し、あっという間にヘリコプターを撃墜した。
「大変なことになりましたね。もはやあんたの尻を狙っているのは善良な一般市民だけではない。ヤクザだのマフィアだのテロリストだのの類が押し寄せているのですよ。しかしだ、うははははは!」
医師は笑いながら、反対側から迫っていた別のヘリコプターも一撃で落としてしまった。呆然と口を開けている俺に顔を近づけ、
「私はあんたのためなら世界中を敵に回しても恐くない。何があっても闘い抜いてみせる!」
そう言いながら飛んできた銃弾を腕で弾き、鮮やかに方向転換してスピードを上げた。
おそらくこのあまりに異常な事態のせいで混乱していたせいだろう、俺は不覚にもポーッとなった。だっているか普通? 自分のためにすべてを敵に回しても構わないと誓ってくれる相手なんて。仮にいたとして、そう簡単に巡り会えるものだろうか? しかも彼には、遠慮なく肛門を見せることができるのだ。
これって「運命のひと」ってやつではないだろうか……と、なんだか急にこのマッドサイエンティストおやじが格好良く見えてきてしまった。いや絶対違う今全然冷静じゃないし仮に格好良く見えたとしてそれは吊り橋効果だし第一こいつが求めているのは俺じゃなくて俺のいぼ痔だと喚く理性を押し込めて、気がつくと俺の両手は彼の白衣を握り締めていた。
「行こうか、世界の果てまで」
医師は言った。俺はうなずいた。尻は痛いままだった。
尻神様インザスカイ 尾八原ジュージ @zi-yon
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