夜は盲目
斎宮爽
夜は盲目
ふと気配を感じて、わたしは目を覚ました。月のない、真っ暗な夜。父さまたちの部屋の行燈も消えるころ。わたしが数えで七つになる年から、闇夜に紛れて「それ」はやってくるようになった。わたしが身体を起こしたのに気づくと、それまでしんと静まり返っていた部屋にずるずると何かを引きずるような音が落ちる。
「いい夜ね」
わたしがすましてそんなことを言うと、それはわたしの隣で落ち着いた。わたしはそのまま身体を横に傾けて、ひんやりと冷たい身体に寄り掛かる。それがなんなのか、なんのためにわたしの元へくるのか、そのことをわたしは知らない。けれどこうやってわたしの元へくるようになってから随分と長く経っているから、もう警戒なんてしなくなっていた。むしろ、わたしにとっては唯一、心を許せる相手といってもいいかもしれない。
「…………」
ややあって掠れるような音がして、くすくすと笑う。それ……とりあえず、彼とでも呼んでおこう。しゅるしゅるという幽かな音で、彼は自分の意思を伝えるのだけれど、その声は本当に小さいから、わたしはよくよく耳をすませなければいけない。彼の言葉を待つときの、闇に溶けそうな沈黙を、わたしはとても好いていた。彼は随分と丁寧に言葉を選ぶから、声が返ってくるまでたっぷりと間がある。
「そうね、母さまは、やや子がいるから」
わたしが生まれたとき、母さまも父さまも、揃って肩を落としたのだと聞いた。わたしの前に生まれたやや子は男で、男は家を継げるから、一族皆に喜ばれた。
けれど、その、見たこともない兄さまは宮参りを済ませる前に神様のもとへ帰ってしまったものだから、皆悲しんで、惜しんで、そして次に生まれたわたしは女だったわけだから、余計に嘆かれた。父さまは食事時以外わたしと居ることは無いし、母さまはわたしを「立派な女」にして、どこか――お金や権力のあるお家へやることばかり考えているようだった。
そんなだから、母さまの胎に新しい子が出来たと分かった途端に、わたしの存在など二人の頭から飛んでしまっていた。わたしの家は少しばかり裕福な商家で、手代やら女中やら番頭やらといった人らが働いていたから、わたしの面倒はそういった人に投げられた。
わたしのことを「お嬢様」と呼ぶ人たちと居るのは悪くはなかったけれど、やっぱり息が詰まった。息が詰まるから、私は部屋に閉じこもって、お琴だとか手習いだとか針仕事だとか、そんなものばかりやっていた。そうやって閉じこもるわたしを、子供らしくないだとかなんだとか言って、厭がる人も多かったけれど。かえってわたしはそれを歓迎するように、与えられたひとりの部屋で過ごした。
そんな環境だったから、毎夜欠かさず訪れる彼はわたしの素敵な話相手だった。言葉は交わさねば意味が無いから、話すことは嫌いじゃないのだ。
「そんなことより、ねえ。あなた、いい加減顏を見せてくれたらいいのに」
以前から、わたしは彼にそうやって強請っていた。けれど彼がそれに応えてくれたことは一度もなくて、これで千と飛んで四十一回目である。彼と話したことや彼が教えてくれたことは、同じことを聞いたり話したりしないよう日記につけているから、間違いない。
「………………」
「怖がったり、しないのに」
「……」
「……はぁい」
誰より長く一緒に居るのに、彼は姿を見せたら怖がられるだとか、本来ならこうして人に触れるのはとても危ないのだとか、しまいには見毒があるだとか言って、指先ひとつですら見せてくれないのだった。しまいには「そんなに見たがるならもう来ない」とまで言い出すので、わたしはどうしたって毎度折れるしかなかった。
だってわたしには、彼に会えない夜ほど怖いものはないのだ。
暫くして、母さまが男児を生んだ。家中大騒ぎで、いつも通り手習いをしていたわたしは新しい漢字のひとつも身につかないまま、半ば引き摺られるようにして「弟さま」へご挨拶賜る運びとなった。父さまは今まで見たことが無いほど満足げな笑みを浮かべて母さまを褒め、「弟さま」に良い名をつけなければならないと、ここらで一番有名な寺へ相談に行った。
「……どうしたの? あなたの弟よ」
上等な産着に包まれた赤いそれは、まるでこの世の全てが自分のものだとでも言いたそうな醜悪な顔をしているように見えた。むくむくとした手足はぶよぶよしていて、あうあうという鳴き声は鳴き方の下手なガマガエルより汚い、酷く耳障りで頭が割れるかと思うくらいで――顔を御覧。と、とどめとばかりに近づけられたその臭いはつんとして嗅げたものではなく、鼻が曲がりそうで、そして。
わたしと目が合ったそれは、一瞬見下すような色を浮かべて、火がついたように泣き出した。
先程まで機嫌よさそうにしていたというのにわたしの寄った途端泣き出したので、母さまは慌ててわたしを突き飛ばした。
「よしよし、大丈夫よ。私の珠の子、怖いものはないわ」
猫なで声でそう言ってから、母さまはわたしに下がるよう告げた。わたしは逃げ出す様に部屋へと駆けて、敷きっぱなしの蒲団にもぐり込んだ。
あの醜悪な生き物によって、わたしは殺されると思った。
性質の悪い病が流行っていると言っていたのは、唯一わたしと仲のいい女中の滝だっただろうか。わたしは体じゅうを駆け巡る痛みに耐えながら、熱い息を吐いた。普段部屋から碌に出もしないから、病なぞ拾いはしないだろうと思っていた。実際はそんな甘い考えは簡単にひっくり返されて、酷い熱に魘されているのだけれど。
わたしが病に罹ったことを知って、父さまは「あれは息子に近づいてないだろうな」とだけ言ったらしい。初めて会ったときに「弟さま」が声も枯れる程泣いたので、母さまから決して近づくことのないようきつく言われていたのを、知っているだろうに。
それでも万一「弟さま」に病がうつったら大事だからと、わたしは離れに追いやられ、医者と女中ひとり以外は誰とも会わないように取り決められた。医者をつけてくれるだけマシだと思ったけれど、これもきっと、早く治すなり死ぬなりして「弟さま」に病の手が伸びぬようにという思いからだろう。あまりに長く症状が続くようなら、家から投げ出されるか、殺されるだろうという予感があった。
「……」
魘されるわたしの枕元へ、見知った気配が降りた。いつもならきちんと聞き取れる彼の声が、熱のせいでぼうっとする頭では、上手く拾えない。
「ごめ……なさい、…………病、なの」
彼に人の病がうつるのかはわからないけれど、酷く汗をかいて、うんうん呻くだけの姿なんて、あまり見られたいものではなかった。病、と言った途端に、ひんやりとしたものが額に触れた。それが心地よくて、いくばくか体の力が抜ける。
「…………」
彼が何かを言ったようだったけれど、聞き取ることは出来なかった。ただ、彼に触られるのは、はじめてだった。
目が覚めるとまだ真っ暗で、けれどもう彼の気配はなくて、そして不思議なことに体が軽かった。試しに起き上がってみれば、体を巡っていた痛みも熱もどこかへ消えてしまったのだとわかる。
それにしたってやけに暗い。今夜は朔の日ではなかったはずなのだけれど、もしかしたら曇っているのだろうか。行燈を点けようと少し手探りしてみたものの、離れの造りをきちんと覚えていないから、こんな闇の中では下手に動かない方がいいと思い直した。
「お嬢様、お体の方は?」
ことりと音がして、後ろから聞き慣れた爽やかな声がした。声の主は、わたしと仲が良いという理由から看病を一手に仰せつかった滝だった。
「大丈夫みたい、もうすっかり、体が軽いの。それにしても滝、こんな闇夜を、灯も持たずに来たら危ないでしょう? 早く灯を――」
「お嬢様」
わたしの言葉を切って、固い声で、彼女は続けた。
「お嬢様……もう、陽はとっくに出ています」
そこからは早かった。
まずは医者が呼ばれ、わたしのことを診て――もう病は引いていて、うつる心配もないけれど、代わりにお嬢様は病の毒で目が潰れてしまったのでしょう、と言った。そうして父さまの元へその旨が告げられ、わたしは「離れから出ない」ことを条件に、この家で生きて居ることを許された。盲の娘など嫁へは行けない。かといって寺なんかへやるのも体裁が悪い。
だから、生きるために必要なこと全てを保証してもらう代わりに、わたしは一生の自由を捧げる運びになった。父さまがそう判断を下したのだから、逆らうことなど許されない。
父さまにその話を聞きに行き、離れへと戻る途中。滝に手を引いてもらいながらのろのろと歩いていると、「弟さま」の嬉しそうなきゃいきゃいという鳴き声が聞えた。「まあまあご機嫌ね」という嬉しそうな母さまの声に続いて、父さまが満足そうに笑う声も聞こえる。盲になってから、どうにも耳が良くなったように感じていた。
「……楽しそう」
「お嬢様?」
「なんでもないの。……ごめんなさい滝、面倒ばかり」
いいえ、と滝は笑ったけれど――滝はわたしより三つばかり年上で、そろそろ嫁の貰い手を探すような頃だ。気が良くて明るくて、普通ならどこへだって行けるはずなのに。それをこんな、盲の小娘を押し付けられて。
きっと彼女がひとりだけ、可哀相だ。
ずる、と何かを引き摺る音がする。肌に馴染むほど聞き慣れたその音は、以前よりずっと良く聞こえた。音だけで距離感までもわかるものなのだと、わたしは初めて知った。
「こんばんは」
「…………」
「平気、盲になっただけだもの。たいしたことじゃないわ」
もともと彼に会うのは真っ暗な夜闇の中だけだったのだから、なんの変りもなかった。むしろ音を良く拾えるようになっただけ、前よりやりやすくなったとも言えた。わたしの体が、彼に合わせて作り替わったような気さえしてくる。
「そうだ。わたしのこと、心配してくれてありがとう」
魘されるわたしを見舞いに来てくれて、額に触れた――あの冷たさはそのまま、彼の優しさだったのだろうから。あのときのひんやりした感触を思い出しては、ほの暗い甘さが胸を満たした。
「……」
「ふふ、ありがとう」
照れたように言う彼に、頬が緩んだ。優しくされるのは好きだ。嬉しいし、あたたかい。わたしに優しくしてくれるのなんて彼と滝くらいで、それに滝にはどうしても申し訳なさが勝ってしまうから。
だから、彼と居るのはあまりにも心地いいのだ、わたしは。「死んでいるように生きること」を強いられる身となってしまった今。それがどれだけ有り難く、嬉しいか。
――もう彼しか居ないのが、どれだけわたしを喜ばせたか。
「わたしはこの通り、もう何も見る事が叶わないけれど……これでずっと、一緒に居られるんじゃないかな」
彼が夜にしか訪れないのは、彼の姿を見てはいけないからだ。闇に紛れていないと、彼はわたしと会ってはくれない。
「明るくても、見えないの。わたし、あなたを絶対に見ない」
見れない。
「だからずっと、一緒に居られるでしょう?」
「お嬢様、朝餉の時間に……お嬢様?」
滝が離れの障子戸を開けると、そこに少女の姿はなかった。何度も呼びかけても返事はかえらず、離れはシンと静まっていた。
部屋にはめちゃくちゃに乱れた蒲団だけが残され、湿った何かの臭いがした。
夜は盲目 斎宮爽 @Itsuki_Sya
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