君の心象、想いの形

高藤湯谷

僕の描いた風景

果てのない暗闇の中に、命を宿した星々が瞬く。

遥か彼方に望む天の輝きを受け、少年は歩く。

そこは美しい場所だった。

世界は水に飲まれ、その全てを海底に遺していった。

あまりにも広大で長大な世界には、今や凪いだ水面しかない。

それは空の輝きを映し、また上を歩く者を映しだす。

まるで鏡のような透き通った水には、何もかもが反射される。

それは、人の心さえ。




  ○〜☆〜○




気づけばそこにいた。

僕の真上には煌々と輝く太陽が、微動だにせずただただ眩い光を降り注がせていた。

辺り全体は一面海に囲まれている。そのせいで空と海の境界が曖昧になり、まるでこの景色が無限に続くのではないかという錯覚さえ覚える。

海底を覗き込めば、圧倒的な透明度の海の底に、ビルや車なんかが沈んでいるのが見えた。

そして僕は、どうやらそんな海の上に立っているようだ、と今更自覚する。

でも自覚した瞬間に沈むなんてこともなく、一歩足を前に出してみると、水に足をつける感覚ではなく、歩き慣れた地面を歩くような感覚に近かった。だから僕は、足を動かすたびに生まれる波紋が面白くて、何度もその場で足踏みをしてしまっていた。


「……我ながら、子供っぽいことを……」


これでも僕は学生。誰にも見られていないとはいえ、変な行動は慎むべきだろう。

本当に誰もいないのかな?というのも確認するため、改めて全方位をぐるりと見回す。

そしてわかることは、やはりこんな場所には誰もいなくて、どこへ進もうと海しかなさそうだ、ということだけだった。

すごく寂しい世界だと思うけど、だからこそこんなにも綺麗な場所なんだ、とも思う。

だからこの景色が見られたことを幸せだと思いつつ、僕はあてもなく歩き始める。

観光、と言えたら、とても楽しそうだったんだけど。


しばらく歩いて、僕はようやく何かを見つけた。


「わぁ……島だ……」


僕が見つけたのは、一つの大きな島だった。

沈んだ部分を見るに、ここはとても高い山だったことが窺える。

あまりの高さに、その頂点だけは海に沈まず、島のようになっているみたいだ。

現実的にはあり得ない景色だけど、山頂であり島の部分には、南国系の木々が生い茂っている。

背丈の違う草に覆われた島は、この海に沈んだ世界で唯一の陸地なのかもしれない。

だから僕は、強い興味を引かれて、その島に足を踏み入れた。

最初こそ草だらけで歩きにくいように感じる場所だったけど、次第に気にしなくなって、今では木漏れ日に目を細める余裕すら出てきた。

暖かくて、弱い日差しが心地良い。

とても安らかな気持ちで歩いていくと、森の中でも一際目立つ場所に出た。


「……ステージ?」


そこだけポッカリと穴が空いたように、視界を遮る木々がなくなっていた。

円形に開けた場所は草に覆われ、その中央にはあまり高さのない真っ平らな石が置いてあった。

僕はそれを、何かの演劇のステージだと思った。

近づいてみたい気持ちもあるけど、あんなに平らにされた石は、誰かが管理しているとしか思えない。

でも少し気になって、一歩足を踏み出そうとしたところで、僕じゃない誰かの足音が聞こえた。

柔らかい草を踏む音が響くと、たんっと軽やかにジャンプして、そのステージの中央に誰かが立った。


「おお……」


軽やかな身のこなしと、その靡く綺麗な銀髪に、僕は思わず感嘆の声をあげていた。

それから、失礼かもしれないけど、ここで初めて見た人の姿に、僕は思わず見入っていた。

身長は百四十センチもないくらいで、爽やかな風に靡く、長い銀髪が特徴的だった。

閉じられた目元は楽しげに緩み、その小さな口元に右手を添えている。まるでマイクでも持っているような仕草だと思った。

シルクのワンピースは純白で、髪と一緒に裾もゆらゆらと揺れている。

小さな口ですぅっと息を吸い込むと、拡声器などなしにその歌声を響かせる。


「〜〜〜〜〜♪」


その声は風鈴のように澄んで、高く、心地の良い音色を奏でる。

初めはその声量に驚いてしまったけど、目を閉じて耳を傾けると、とても綺麗な情景が目に浮かぶようだ。

その場に立っているのが辛くなって、木に寄りかかった感覚さえ曖昧で、ただひたすら心の中に思い起こされる風景に目を向けていた。

それは、とても楽しい景色だった。

大切な人たちに囲まれて、幸せの中で生活して、ずっとずっとこんな暮らしが続いてほしいと思う、誰もが憧れる人生。

これはもしかしたら、あの女の子の見てきた物なのかもしれない。

歌には心を動かす力があるというが、心を伝える力さえ持っているのではないかと、この時僕は思った。

それくらい綺麗で、美しく、力強く、それが自分の最良だと訴えるほどの熱量が、彼女の歌声には込められていた。

ずっと聞いていたい、この歌の中で朽ちたい、そう思えるような素晴らしい歌でも、終わりの時はやってくる。

少女の声が聞こえなくなったのを合図に、僕は目を開く。

陽だまりのステージには、自分の歌の余韻に浸る、純白の少女が佇んでいた。

邪魔したら悪いと思いつつ、僕は彼女に盛大な拍手を送る。


「!?」


僕の存在に気づいていなかったらしい少女は、全身を跳ねさせて驚きを表現する。

確かに木陰にいたから分かりにくかったと思うけど、そんなに驚かなくても、と思ってから、そんなことを考えることが失礼だったと気づく。

彼女の深いブルーの瞳は、眩い光を宿していながら、僕のことを捉えていなかった。

合わない焦点は別の場所を見つめており、拍手の音が聞こえたから振り返ったと、そう言っているようだった。


「急に、音を鳴らしてごめん。びっくりさせちゃったよね」


僕が声をかけると、やっぱり音を頼りに僕の方に顔を向けて、少女はふるふると首を横に振った。


「謝らなくても、いい。でも、びっくりした……」

「あはは……ごめんね」


暗闇の中でいきなり声をかけられたら、どんなに驚くことだろう。

僕は会話ができることに安堵しつつ、少女の様子を窺う。

御伽噺の歌姫のような少女は、そのサファイアのような瞳を伏せて、何かを考えているようだった。

それから何かを言おうと口を開いて、また少し迷ってから、やっと言葉を紡ぎ始める。


「あなたは、どこから来たの?どうしてここに?」

「……わからない。気づいたらここにいたんだ。君は、ここに住んでいるの?」


僕の質問に、少女は緩く頷いた。


「そっか。ここは良いところ?」


不便じゃない?とか、食べ物はどうするの?なんて無粋なことは聞かない。

そもそもここは、普通の場所じゃないから。


「良いところ。私しかいない、私だけの世界。だから、不思議。あなたが来れたこと」

「それは僕も同じ気持ちだよ」


全くどうして、こんな何もない場所にいるのやら。

だけど後悔、じゃないけど、嫌だとは思わない。


「よかったら、君の名前を教えてくれない?」

「私?私は……ゆめ」

「夢?」

「違う。そういう名前。結ぶに愛って書いて結愛(ゆめ)」


とても、可愛らしい名前だと思った。

それと一緒に、どこかでそんな名前を目にして聞いたことがある気がした。

でもどこだっけ?


「あなたは?」


結愛の質問で、僕は現実に引き戻される。


「僕?僕の名前は……忘れちゃったなぁ……」


嘘じゃないよ。名前なんてもうしばらく名乗ってないから、忘れてしまった。

結愛は、僕に同情するように悲しそうな顔をする。


「忘れるのは、とても悲しい。忘れられるのは、もっと寂しい」

「……僕は平気だよ。一人でも、寂しくなんかない」

「……嘘。強がりは、弱い心の裏返し」


……手痛い言葉だ。確かに、一人でいいなんて強がりだろう。

でも、仕方なかった。僕を認めてくれる人なんて、いないんだから。


「なら、私が」

「え?」

「私が、あなたを認める。このままでいいって、ここにいてもいいって、認めてあげる」


とても、温かい言葉だった。

それだけで僕は救われたような気持ちになる。

結愛から伸ばされた手を、僕は両手で包み込んだ。


「ありがとう。すごく、嬉しいよ」


僕の手を初めて見るもののように触っていた結愛は、見えていないはずなのに、僕を方を真っ直ぐ見つめて、可愛らしい笑顔で微笑みかける。


「ふふ、じゃあ、良いもの見せてあげる」

「良いもの?」


結愛は大きく頷くと、僕の手を引っ張って走り出す。

とても小さな手なのに、すごく強い力を感じた。


「ここは……?」


結愛に連れられてきた場所は、島の中の、洞窟のような場所だった。

陽の光の届かない、暗く冷たい場所。


「ここは、私のお家」

「この洞窟に住んでるの?」

「うん。後で説明するね」


ゴツゴツとした岩肌に囲まれて、どこか閉塞感のある空間だった。

入り口からは階段のようになった硬い地面が続いていて、結愛はそんな中を迷いのない歩みで進んでいく。

正直、手を繋がれている僕の方が怖かった。

転んでも結愛だけは守ろうと思いながら、段の低い階段を下っていく。

二階分くらい降りたところだろうか。階段が途切れて、広い空間が訪れる。

洞窟をくり抜いたような中には、岩を削って作ったような色と材質の椅子やテーブル、ソファのような長椅子まで存在していた。

何より目立つのは、観葉植物のように飾られた葉っぱが、光源として光っていることだ。

あれがあるお陰で、僕は少し視界を確保することができた。


「好きなところに座って……♪」


少し弾んだ声で、結愛が座るように促してくる。

僕は硬くて冷たい椅子を引いて、そこに腰をかける。

結愛も対面に座ってくると、宝石のように洞窟の中でも輝く瞳で僕の顔を見つめてくる。


「な、何かついてるかな……」

「あ、ごめん、なさい。やっと、あなたの顔を見れたから」

「?」


恥ずかしそうに、申し訳なさそうにする結愛の瞳を見ると、しっかりと目が合った。

たまたま視線がぶつかったんじゃない。結愛がはっきりと僕を見ようという意思を感じられる目の合い方だった。


「自己紹介の、続き?私は、光の中では生活できない」

「それって……」

「わからないけど、明るすぎたらダメ」


病気か何かかと思ったけど、あんまりそういう言葉は使わない方がいい気がした。


「だから、ここへ来たかった。あなたを、一目見たかった」

「……結愛が望むなら、僕は何度でもここへ来るよ」

「それはダメ!」


急に強い言葉で反論されて、僕は思わず黙り込む。

結愛も自分の行動にびっくりしているみたいで、口元を押さえて慌てていた。


「違う、違うの……あなたが嫌いなんじゃない。でも、ここへは、二度と来てはダメ」

「……よくわからないけど、結愛がそう言うなら」


僕にはわからない、ここで生活している結愛だからわかる苦労のようなものがあるのだろう。

話題を変えるように、僕は結愛に質問をする。


「ここが、結愛が言ってた良いもの?」

「ううん。それは、もっと奥にある。私の、大切な物」

「……見せてくれるの?」

「……どうしよっかな……♪」


悪戯好きの女の子のように、口の端を少し持ち上げて笑う。

その笑顔は、とても楽しそうで、きっと遊びたいんだと思った。


「見たかったら、あなたのお話をして?」

「僕の?」


僕の話ってなんだろう。

そう思ってると、結愛がおねだりするように身を乗り出してくる。


「あなたが見てきた物。あなたが暮らした場所。なんでもいい。小さな思い出でも、きっとそれは、あなたの宝物」

「……あぁ、いいよ。じゃあお話しようか」


僕の中にある思い出は、とても数少ない。

だけど、だからこそ、一つ一つが輝いて、大切な物だ。

もしかして、結愛の良いものも大切な思い出なのかな?


「僕が、まだ結愛くらいだった時、家族で旅行に行ったんだ。僕には妹がいて、家族四人の旅だった。ここほどじゃないけれど、とても綺麗な海があってね。みんなで泳いだんだよ。でも妹は海がしょっぱいって、すぐに逃げ出しちゃってさ。でも夜には一緒に星を眺めたりもしたんだ。その時の星空は、すごく綺麗だったんだ」


あぁそうだ。僕には、家族がいたんだ。

だけど、今は独りぼっちで、ここには結愛しかいない。

あれ?僕は……いつから一人だったんだろう。


「ど、どうしたの?」

「え?」

「泣いて、る?」

「え……あれ、本当だ……」


ちゃんと話せてたはずなのに、気づいたら涙が溢れていた。

おかしいな、ちゃんと、楽しい記憶だったはずなのに。

悲しい結末なんてなかったはずなのに。


「私が、聞いたから……!」

「それは違うよ。大丈夫。すごく楽しかった思い出だから。思い出して、また嬉しくなっただけだから」


声が震えないようにするのに必死だった。

結愛は心配してくれるけど、その泣きそうな顔を見ると、僕はもっと悲しくなってくる。

結愛には、ずっと笑っていてほしかった。

だから僕は、頑張って笑顔を作る。


「それより、他にも面白い話がいっぱいあるんだ。聞いてくれる?」


僕が取り繕った笑顔でそう言うと、結愛は渋々と言った調子で頷いてくれた。

まだ心配してくれる結愛に、僕は色々な話をした。

こんな時があった、こんな人がいた、こんな物語が面白かった。

そのどれもが幼い頃のことで、ほとんどが妹についてのことなのは許してほしい。

そんな面白いかもわからない僕の体験談を話すだけで、結愛は楽しそうに笑って、驚いて、一喜一憂してくれた。

久しぶりに話を聞いてくれる人ができたから、僕はつい楽しくなって長いこと話し込んでしまった。


「ごめん、僕ばっかり喋ってて」

「ふふ、気にしないで。聞いているだけで、楽しかったってわかる」


だから私も楽しい、と結愛は言ってくれた。

そんな笑顔が眩しくて、僕には勿体無くて、また涙が溢れそうになった。

だけどそれは堪えて、僕も無理やり笑顔を作る。

少しだけ笑い合うと、結愛は立ち上がって、僕に手を差し伸べてくる。


「じゃあ、約束通り見せてあげる。私の宝物」

「結愛の宝物か。なんだろな」


また暗い道が続くため、結愛は僕の手を引いてくれた。

まだ小さな手の温かさは、妹の物によく似ていた。

螺旋状になった階段を下って、辿り着いた場所は、一種の水族館だった。

洞窟の壁がそこだけはガラスのようになっていて、外の景色、つまり海中が望めるようになっている。


「わぁ……綺麗だね……!これが結愛の宝物?」

「そう。揺れる光と泳ぐ魚。誰もいないこの世界だから見れる」


結愛の言うとおり、なんの不純物もないような海の中に、空から降り注ぐ光が浸透して、グラデーションのような揺らぎを生み出している。

熱帯魚みたいなカラフルで小さい魚の群れが、そんな光の海の中を悠々と泳いでいた。

この辺り一体は人の生活圏ではなかったようで、剥き出しの岩肌や海藻なんかがそのままになっている。

確かにこれは、人が手を入れてできる物ではないと思う。


「そういえば、この世界の海はどうして上を歩けるの?」

「それはきっと、太陽が出ているから。太陽があるときは、世界は変化しない」


逆に言えば、夜になればこの島を出ることはできなくなる、ということか。


「こっちへ来て?」


結愛が可愛く首を傾げ、また僕の腕を引っ張っていく。

海が見られる場所の反対側には、洞窟の壁一面に壁画のような物が描かれていた。

端の方には僕たちが今いる島があって、それ以外は全てが海を表す青色に染められている。

壁画の中央は真円を描くように薄く線が入っていて、区切られた中の上部には太陽が大きく描かれている。

太陽が照らす下には海だけが広がり、その上を寂しげに歩く少年が一人。

円の真ん中に一本線を引いたように壁画は切り替わり、下側になる方の絵は少しだけくすんで見えた。

上側と対照になるように太陽があった位置には満月が浮かび、星に照らされた海の上には、楽しげな少女が一人。


「今は、あなたのための世界。これを回せば、世界は夜に変わる」

「じゃあ、この男の子は、僕?」


太陽に照らされて、一人寂しく歩く少年。

確かに、ここへ来た時の僕に似ている。


「当たり。あなたは、こんな顔してた?」

「……してたかもしれない」


一人っきりで楽でいい、そう思いながら、誰かの心を求めていた。

一人でいいから、僕の隣にいてほしい。そんな願いだ。


「でも、もう僕は寂しくないよ」

「本当?」

「うん。結愛が話を聞いてくれたからね」


僕がそう言うと、結愛はニコッと嬉しそうに笑う。それが可愛らしくて、僕もつられて笑ってしまう。

結愛から壁画に視線を戻すと、不思議なことに、絵の中の少年も笑っていた。


「よかった。笑ってくれて」


結愛はまるで、大切な物を宝箱から取り出すような表情で、薄暗がりに浮かぶ壁画を眺めていた。

その瞳は真っ直ぐ僕を表しているという少年を見据えていて、ちょっとだけ気恥ずかしかった。


「夜になれば、結愛も外で景色が見られるの?」


恥ずかしさを誤魔化すように、僕は結愛に質問する。

壁画から視線を外した結愛は、少しだけ寂しそうに頷いた。

その表情の意味が僕にはわからなかったけど、その後の言葉で結愛がとても優しい子だということがわかった。


「私の目は、明るいところでは何も見えない。でもそれは、他の人は明るい日の下で過ごせると言うこと。なら、私はそれでいい。明るい方が、誰だっていい」


それは、自分を犠牲にした考え方。

理屈はわかるけど、僕は絶対に認めたくない。

確かに人は明るい昼間に活動をするけれど、夜になったら動けないわけじゃないんだから。


「夜になっても、この絵の中は星に満ちてる。なら、きっとすごく綺麗な世界が待ってると思わない?」


なんだか物凄く恥ずかしいことを言った気がするけど、実際思ったことだから仕方ない。

結愛は僕の顔と壁画の夜の絵を交互に見ると、迷いながらもゆっくり頷いた。


「それじゃあ、夜にする」


結愛が壁画をなぞると、円盤が海を中心に百八十度回転する。

さっきまで太陽があった位置には、真っ白い満月が浮かび、僕らしき少年がいたところには、結愛らしき少女が立っていた。

月と星の下を歩く少女が、絵の上部にやってくる。


「外、行く?」

「うん。行ってみよう」


螺旋階段に戻る途中、ガラスの奥に見える光は、月明かりの弱々しい物に変わっていた。


空が変わると、世界はまた違った景色を見せる。

月に照らされる森は、不気味な静けさと穏やかな空気を作り出す。


「結愛もこの景色が見える?」

「うん。あなたの少し不安そうな顔が見える」

「……」


なんて返しをするんだ。

僕がむすっとした顔を作ると、結愛は楽しげに笑う。

それが可愛らしくて、僕もつい頬が緩んでしまう。

結愛はそんな僕の手を引っ張って、鳥の鳴き声一つしない森の中を歩いていく。

朝、というか太陽が顔を出している時も歩いたけど、その時とは全く違う印象があって、すごく新鮮味があった。


「少しだけ気になる」

「ん?」

「日が出ている時の景色。私は、壁画でしか見たことがない」


そうか。強い光の中だと目が見えない結愛は、太陽が出ている明るい景色を見たことがないんだ。

どうにか見せてあげたいけど、僕には絵の才能なんてないからな……。


「良い方法が、あればよかったんだけど」

「あるよ」

「え?」

「あなたの記憶を、伝える方法」


言葉にするのかと思ったけど、違うみたい。

結愛は、自分も立った石のステージを指差していた。


「もしかして、歌?」

「そう。歌なら、伝えられる。あなたの気持ちも、見た景色も」


難しいことを言うなぁ。

結愛の歌はとても綺麗だったけど、僕は特別上手じゃない。

でも僕のそんな悩みなんて気にせず、結愛は僕の背中を押してどんどん進んでいく。

ステージの前に着くと、結愛は自分は観客だと言うように草の上に腰を下ろす。


「可笑しくても笑わないでよ?」

「大丈夫。あなたの声は、歌に向いているから」


そんなことがわかるのだろうか。わかるんだろうな。

なんてたって結愛は小さな歌姫だ。

僕は覚悟を決めて、厚みもそんなにない石のステージの上に立つ。

歌なんてもうしばらく歌ったこともないのに、何故だかここに立つと自分も結愛みたいに歌える気がしてくる。

息を吸い込めば、結愛に伝えたい風景が脳裏に浮かぶ。

参考にするリズムも曲も何もなしに、僕はただ思いつくままに歌う。

それは、感情の叫びにも近かった。

結愛にちゃんと届いているだろうか。なんて不安が湧き上がるけど、そんな暗い物よりも自分を表現することが楽しくて、途中からはほとんど自分のために歌っていた。


「……とても綺麗。あなたが見てきた物は、何も間違ってない」


たった一人で、結愛は何百人もいるんじゃないかと錯覚するような、盛大な拍手を送ってくれる。

それが僕は照れ臭くて、目の前にいる結愛がとても愛おしくなる。

でもこの感情は、僕を認めてくれたからというだけで来る物じゃない。


「……ありがとう。ねえ結愛、一つ質問を」


言いかけた僕の口を、結愛はあまりに華奢な人差し指で塞いでくる。


「訊かないで。まだ確信できないなら、もっと良いものを見せてあげる。だから、ね?お兄ちゃん」


結愛の、僕の呼び方が変わる。

それはとても懐かしい響き。親戚だとか近所の子とか、そんな離れた関係の人には絶対に出せない響き。

何も言えない僕の腕を、結愛は小さな体で頑張って引っ張っていく。

振り解こうと思えば簡単にできたはずだった。でも、僕にはこの力に抗うことができなかった。


「見て。あの日の景色。私は、この風景が一番好き。お兄ちゃんは、どう?」


森を抜けて、僕らは浜辺に立っていた。

ここの世界とは違う、記憶の世界から引っ張られてきた島や岩なんかが海から顔を覗かせている。

昇りかけた月は海を優しく照らし、遥か彼方の星々の瞬きが海に彩りを与える。

波打つ水面に揺れる光は、とても幻想的な光景だった。


「……ああ。僕も好きだよ。何より、結愛がいる景色だからね」


隣に手を繋いで並ぶ結愛を見ると、過去一番の笑顔を浮かべる。

その輝きは、どんな星の瞬きにも劣らない。


「私は、あなたの先を歩いてる」


結愛は僕より数歩前に出て、寄っては引く波に足をつける。


「だけどそれは、悲しいだけじゃない」


さらに踏み出した一歩は、海の上に波紋を作り、動きを与えられた海をまた固定させる。


「私は、まだここにいる。だから、あなたが立ち止まるのは違う」


振り返った結愛は、とても幼くあどけない顔に、現実を知った少女のような表情を作る。


「だから聞いて。最後の歌を。私が愛して、紡げなかった最後の歌」


結愛は海を歩きながら、その唇を震わせる。

まるで、それで終わってしまうかのように。その別れを惜しむように。


「……うん。聞かせて。結愛の大好きな歌を」


視界がぼやける。

目の前にいるはずの結愛が、ずっと遠くに感じられる。

嫌だった。せっかく再会できたのに。

また君と離れ離れになるのは。嫌だ。

だけど、もう目を背けることはできない。

君がそこまで言うのなら。


「……〜〜♪」


どこか寂しげで、それでも喜びに満ち溢れた歌。

結愛の表情も、どこか暗く陰を落としているように見えてしまう。

僕はまた目を閉じて、瞼の裏の情景に思いを馳せる。

そこには、とても儚く、今にも消えてしまいそうな少女が、月夜を背に映っていた。

少女に手を伸ばせども、届くことはない。

それでも必死に声をかけて、やっと振り向いてもらえたのに、そこに浮かんだ表情は、驚愕と、悲しみ。

僕は喜んでほしかったのに、失いたくなかったのに、君は一人を選び、そして目を閉じた。

僕にとっては耐え難い悲しみで、僕も一人になろうとするくらい苦しんだ。

だけど、そんな悲しい物語には、続きがあった。

僕には知ることのできなかった、結愛の気持ち。

あの日、あの時、真っ先に思ったことは、『見捨てないでいてくれた』。

でも自分が求めては、必要のない苦しみを与えることになる。

だから、どんなに苦しくても、寂しくても、結愛は全てを拒絶した。

他でもない、僕のために。


流れる涙もそのままに、僕はまた拍手を送る。

そんな僕を見て、結愛も少しだけ寂しそうな顔をしていた。


「泣かないで。これは、歌だから」

「……うん。でも、歌っている結愛が一番悲しそうだった」

「……」


結愛は少し黙ってしまうが、すぐに顔をあげると、気持ちを切り替えるように笑顔を作る。


「私は、幸せでした。何不自由ない生活を送り、あなたのような兄がいてくれて」


結愛の言葉に、僕も無理やり笑顔を作る。

そうじゃないと、結愛が安心できないから。


「私はもうあなたの隣にはいられないけれど、どうか泣かないでください。私は、ここからあなたを見守っています」


結愛の姿がぼやける。

それはどうやら、僕の体が形を保てなくなっていたからみたい。

ここは、もう僕とは違う世界にいる結愛の世界だ。本来、僕は来てはいけない存在だったのかもしれない。

だけど、僕は結愛に近づくと、その小さな体を抱き寄せた。

結愛はびっくりしていたみたいだけど、すぐに僕の肩に手を置く。

そして、弱々しい力で、僕を引き離した。


「ずっと、一緒にいたかった」

「うん」

「でも、それじゃダメだから」

「……うん」


僕の体が、結愛の傍から離れていく。

どうやら僕は、空に浮いているらしい。

それでも最後まで、掴んだ手は離さない。

この手も解けてしまう前に、僕は一つお願いをする。

結愛には迷惑かもしれないけど、ここで言えなかったら、きっと一生後悔することになる。そんな気がした。


「ありがとう、結愛。どうか僕の最期まで、ここから見ていてほしい」


僕の我が儘に、結愛は小さく頷いた。

それから大きく腕を振ると、別れの挨拶を告げてくる。


「さようなら、お兄ちゃん。私の分まで、楽しんでね」

「もちろん。それじゃあ、またね。結愛」


僕の言葉に、結愛はひどく驚いた顔をする。

そんな顔しないでよ。君と離れるのは、とても寂しいんだから。


「……あなたは、それを望むの?」

「もう一度結愛に会えたら、僕はそれ以上に嬉しいことはないよ」

「……そう。なら……またいつか」


結愛は心から嬉しそうに笑った。

叶うはずのない夢が叶ったと言うように。

僕は、その顔を一生忘れないと誓う。

ここであったことも、君がいたことも、僕が救われたことも、全部。忘れない。

遠のいて行く結愛の顔は、晴れ渡る青空のように輝いて、希望に満ちていた。




      ☆〜★〜☆




そこは満点の星に照らされた世界。

たった一人の少女の住まう、永遠に変わらぬはずの世界。

だがそこに変化があった。それは少女の兄だった。

既に動かない暗闇の世界に、正しい光を満たす者。

星の一つに変わろうとする少年の姿を、少女はずっと眺めていた。


「ありがとう。お兄ちゃん。私は、私の心は、ずっと」


その先の言葉を紡ぐより、胸の前で手を組んで祈りを捧げた。

そっちの方が、より伝わりやすいと思ったから。

少女の思いは、願いは、とても小さな波紋となって広がる。

それがいつの日か、少年の心を救うこともあるだろう。

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