純恋の手料理

石花うめ

純恋の手料理

 春の穏やかな日差しが大窓から降り注ぎ、土曜日のリビングを温める。


 今日は何の予定もない。一応歯磨きと髭剃りだけを済ませたが、パジャマのままソファーに座ってぼんやりテレビを観ている。


「ふぁ~あ」


 ついさっきまで寝ていて眠気が抜けきっていないせいか、気の抜けた温かさに誘発されて思わずあくびがでた。


「おっきいあくびー」


 僕の隣で、妻の純恋すみれがあくび交じりに言う。

 純恋も僕と同じくさっきまで寝ていた。パジャマのまま、髪は静電気で逆立てたみたいにボサボサだ。僕にくっついている程よく柔らかな二の腕からは、いい意味でやる気の無さを感じる。


 テレビでは昼前のニュースが終わろうとしていて、天気予報と並んで桜の開花情報が発表されている。僕たちの地域は既に満開だ。

「平和だ」

 ポツリとつぶやいてみる。

「そうだねー」

 純恋は、ゆったりとした口調で僕に尋ねた。

「仕事辞めて、落ち着いた?」

「うん。まあまあ」


 去年の冬の日。仕事に行こうとした僕は激しい動悸に見舞われ、玄関で倒れてしまった。

 原因は、適応障害だった。適応障害とは、あるストレス源に対してうつ病のような気分の落ち込みがあらわれること。極度の緊張による動悸や吐き気、口の乾きなどといった身体的な症状も特徴だ。僕にとっては、そのストレス源が仕事だったというわけだ。

 診断結果を聞いたときは驚いた。たしかに、慣れない電話応対や取引先とのやり取りは緊張していたが、それは社会人なら当たり前のことだと思っていた。僕は口下手で、人より物覚えが悪かった。周りの同期や先輩は優秀な人ばかりだったから、その人たちに追いつくためには人一倍の努力をしなきゃいけないと思って、張り切って働いていた。

 ましてや僕の職場はブラックではなく、勤怠管理も徹底した残業の少ないホワイトだった。いかにして仕事の効率を上げるかを、皆が意識して行動しているような環境だった。そのため、新人の僕にいきなり大きな仕事を振られることはなかったし、研修も時間をかけて正しい敬語の使い方から教えられた。


 大学時代から付き合っていた純恋と結婚し、子供を持つことを真剣に考えていた矢先のことだったから、純恋はこの診断結果を聞いて少し動揺していた。しかしすぐに「たまには立ち止まってもいいんじゃない?」と言ってくれたのだ。


 結局僕はそのまま退職し、現在は純恋の収入と僕の傷病手当金とで細々と暮らしている。お互い新卒三年目だから貯金なんてほとんど無く、現在住んでいる築年数の古いボロアパートの1LDKから引っ越すこともできない。それでも嫌な顔一つせず一緒にいてくれる純恋に、僕は頭が上がらない。


「それならよかったー」

 僕の返答を聞いてから一瞬だけ黙っていた純恋は、のんびりと言った。

「そろそろ次の仕事見つけなきゃなぁ」

「いいんじゃない? 別に焦らなくてもさー」

 純恋は優しいから、そういう風に言ってくれる。でも、仕事をしないと何も手に入らない。マイホームも子供も。仕事をしてお金を稼がないと、今以上の幸せにありつくことはできない。純恋もそれは理解しているはずだ。それなのに気遣わせてしまっているのが、男として申し訳ない。

「あ、今『しなきゃ』って言ったー」

「あ、ほんとだ」

「そういう強迫的な考え方は良くないって、精神科の先生も言ってたでしょ?」

「うん。だけど、いつまでも純恋に甘えっぱなしってわけにも……」

 純恋は膝の上にある僕の手を両手で優しく包み込む。夜の寒さから守ってくれる羽毛布団のような温かみのある純恋の手は、男としての情けなさを握り潰そうと固まっていた僕の手を、徐々に徐々にほぐしていく。

 僕が手を開くと、指同士が絡んで固く繋がれた。

「頼っていいんだよ。……むしろ頼ってよ。夫婦なんだからさー」

「そうだなぁ」

「あ、頼れないとか思ってるでしょ」

 僕のぼんやりとした返事を聞いて、少し頬を膨らませる。

「なんでも言ってよね。——あ、そうだ、今日の昼ごはんは私が作るよ」

「そっか、もう昼か」

「朝ごはんか昼ごはんか分からないけどねー」

 純恋はふわふわ笑う。

「いいの? 作ってもらっちゃって」

「いいのいいの。いっつも秀平しゅうへいに作ってもらってるから、たまにはねー。何かリクエストはあるかい?」

 純恋は僕からの注文を心待ちにするように、繋がった手をポンポンと上下に揺らす。

「何にしよっかなー」

 純恋が料理を作ってくれるのは久しぶりだ。共働きのときはスーパーの総菜が多かったし、最近はずっと僕が料理担当だった。久しぶりすぎて、何を頼もうか迷ってしまう。


 その時、テレビから愉快な電子音が流れてきた。

 平和を象徴するような、昔から昼によく聞いていた音——4分クッキングだ。

 今日のレシピは「“失敗しない”豚肉の生姜焼き」らしい。


「お、生姜焼きいいな。豚肉ある?」

「あるよー!」

 純恋は食い気味に返事をして立ち上がる。絡んだ手がほどけると、僕が作ってと言う前にキッチンに消えてしまった。


 純恋も僕と同じように、たまに張り切りすぎてしまうことがある。僕と違うのは、だいたいいつも途中で失敗してしまうことだ。僕は何事も不足の無いように、できるだけ完璧に物事をやり遂げようとするのだが、純恋はあまり細かいことを気にしない質で、突き進んでは最終的に大きな失敗をやらかしたりする。

 そういえば大学の卒業論文を書いた時も、詳細や流れをあまり考えずに書き始めて、もうすぐ書き終わろうかというところでデータが揃えられない事態に陥り、結局僕が手伝って提出した、なんてこともあった。

 そしてもう一つ僕と違うのは、失敗しても気にしないことだ。純恋は完璧を目指そうとしない。失敗しても「ま、いっかー」と言ってケロッとしていることが多い。それくらい適当で、社会人として職場でうまくやっているのか疑問に感じることが未だにある。


 純恋は冷凍室に眠っていた豚肉の解凍を始めたらしく、電子レンジの音を背にしてリビングに戻ってきた。またソファーに座り直して、材料紹介が始まったテレビを見つめる。


 テレビでは、恰幅の良いおばさん先生と新人らしいポニーテールの女性助手が、手際よく材料を並べ始めている。豚ロース肉、玉ねぎ、生姜、砂糖、醤油、料理酒、みりん、白だし……。

 最後に、『今回のポイントはこれです』と言ったおばさんが、大さじ2の薄力粉が入った器を調理台の上に置いて、『これさえあれば、誰でも簡単に美味しい生姜焼きを作ることができます』。ポニテ助手は台本を読むように『この薄力粉を豚肉にまとわせて焼くわけですね』と付け加える。


 僕の横では純恋が「ふんふん、なるほどー」と頷いている。


 おばさんは玉ねぎを半分に切り、切断面を下にして薄切りにする。『あまり薄く切りすぎると、食感が無くなるので気を付けましょう』と言っている横から、ポニテ助手が『切り終わった玉ねぎがこちらになります』と新しい器を差し出す。中には、機械で切ったのではないかと思うほどバラつきのない玉ねぎが入っている。

 次はタレづくり。決められた分量の調味料が次々と混ざっていく。薄い黒色のタレが出来上がった。『生姜はチューブのものでも構いませんが、細かく千切りにした生姜を使うと香りよく仕上がります』

 全てが予定通りに、滞りなく進められていく。

 続けてポニテ助手が、少しぎこちない手つきながらも、塩コショウを振った豚ロース肉に薄力粉をまとわせていく。『薄力粉はまんべんなくまぶしましょう』

 その間におばさんは、フライパンに油を引き終わっていた。白くなった豚ロース肉を次々と焼いていく。『あまり焼きすぎると固くなるので気を付けましょう。少し焼き色がつくくらいがいいですね』

 玉ねぎがそこに加わり、タレがかけられて一緒に熱を通され、艶のある黄金の生姜焼きが完成した。薄力粉をまとって焼いたおかげで、とろみがついているのが見ただけで分かる。

『はい、完成です。豚肉と玉ねぎの焼き加減だけ気を付けて、あとは作っておいたタレをかけて焼くだけ。とても簡単で美味しくできます。“失敗しない”生姜焼き、ぜひ一度お試しください』


 とても美味しそう——そう思いながらも、なぜか心のどこかでつまらなさを感じた。なぜそう感じるのか自分でも分からないが、おばさんの手際の良さに違和感を覚える。

 僕はテレビを切った。


 純恋は「よし」と言って立ち上がると、すぐにキッチンに戻った。

 なんとなく純恋の料理に口出ししたくて、キッチンまでついて行ったが、「私一人で作ってみせるから、座って待ってなよー」と言われて追い出された。僕はとりあえずご飯をよそい、箸やコップなどをリビングのテーブルに持って来て、ソファーに座って待つことにした。


 待つこと約15分。


 純恋は「お待たせー」と言いながら、生姜焼きが乗った皿を両手に持ってリビングに戻ってきた。目の前のテーブルにそれらが置かれる。


 それを見た僕は、微笑まずにはいられなかった。さっきの料理番組でやっていた生姜焼きとは、見た目からして全く違うのだ。まず、色が真っ黒。玉ねぎはしなびていて原型は無く、何枚かの薄い豚ロース肉は、くっついて大きな一枚肉になっている。

 なんとも純恋らしい料理だ。


「ちょっと失敗しちゃったー」純恋はいつもの口調で、全く反省してなさそうに謝る。

「薄力粉と間違えて、片栗粉使っちゃったかも」

「いいよ、気にしないから」

 純恋は照れ臭そうに頭を掻きながら、僕の隣に座った。笑顔で手を合わせて「いただきまーす」と言う。

 僕も手を合わせてから、黒く固まった一枚肉を皿から拾い上げた。箸で持つには少し重い。

 思い切り噛むと、甘辛く焦げた味が口の中に広がった。思っていたより味が濃い。肉も固い。でも、なんだか僕の好きな味がするし、純恋の手で作られたことがたしかに分かる。


 純恋は隣で生姜焼きを頬張りながら、ゲラゲラ笑っている。

「まずいなー。秀平、これ、残したかったら残していいからねー」

「いや、全部食べるよ」

「美味しくないでしょ?」

「めっちゃ美味しい」

 ぽかぽかと、身も心も温まっていく。

「一つ聞いてもいい?」

 かなり大きめに切られた生姜を奥歯のあたりでじゃりじゃりと噛みながら、僕は尋ねる。

「どうしたのー」

「純恋は、さっきの料理番組と同じ方法で、この生姜焼きを作ろうとしたの?」

「そう、最初はねー。でも白だしが無かったから代わりにめんつゆ使ったし、秀平が魚好きだから、かつお節も一緒に入れてみたんだよー」


 僕は笑った。純恋があの料理番組に出ていたら、間違いなくおばさん先生に怒られていただろう。「“失敗しない”はずの生姜焼きを作って、どうしてここまで違うものになるんだ」って言われそう。でも、僕が好きな海鮮の風味がする生姜焼きは、思いやりを感じられてとても美味しい。濃くて優しい味は、僕を肯定してくれているみたいだ。

 この生姜焼きは、純恋にしか作れない。純恋が作るからこそ価値があるのだと思った。


「もしかして、ご不満?」

「ううん。美味しいから、また作ってほしいなって思って」

「よかった。今度はもうちょっと上手につくるからねー」


 気持ちは嬉しいけど、このままでもいいのにと思った。上手に作る必要は無い。純恋の味が感じられればそれでいい。それが美味しい。


 固い生姜焼きを口いっぱいに頬張りながら、さっきの料理番組に対して自分がなぜ違和感を抱いたのか分かった気がした。

 さっきの料理番組は、全てが予定調和だった。台本の通りに番組が進んで、だいたい味の予想できる料理が作られる。なんとなくそれが味気ないと思ったのだ。失敗しないためにああしろこうしろという指示が、その味気なさを助長していた。

 それは僕が社会人として育ってきた環境によく似ていると思った。

 相手に失礼が無いように正しく敬語を使え、名刺は相手から読めるように両手で渡せ、飲み会の席の上座下座は決まっていて、ノルマは月何件で……。

 何事も完璧にできないといけない——だったら、そんなもの最初から人間じゃなくて機械でいいじゃないか。そしてもし、決められたレシピ通り何事も完璧にできたとして、その自分に人間味というものは残っているのだろうか。

 僕は何事も完璧にしようとしすぎて、人間らしさみたいなものを失くしかけていたのかもしれない。

 失敗しない人間なんて何も面白くない。失敗こそが人のだ。


 久しぶりに純恋の料理を食べて、大事なことを思い出した気がする。

「ありがとう」

 僕の言葉は思ったより改まった重さになってしまって、純恋は「どうしたー?」と尋ねながら少し首を傾げた。

「あ、いや。……そうだ、この後、桜でも見に行くのはどう?」

「いいね、桜」


 純恋は僕の顔を見て、にっこり微笑んだ。

 純恋の前歯の隙間にはしっかりと、豚ロース肉のすじが挟まっている。

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