第7話

 翌日の夕方、明美に呼び出された。昼間の授業があったらしく、二人は午後五時に大学近くの喫茶店で待ち合わせした。

 外は容赦なく雨が降り注いでいる。店に入ると明美はいちばん奥の席に座り、たばこを吹かしていた。店舗面積が狭く、この辺りで唯一の喫煙可能な飲食店だ。当然のことだが店は喫煙者のたまり場と化し、ここでつく煙の匂いに達弘はいつも辟易している。


 明美のほうに近づくと、彼女はいまさらのように顔を上げ、達弘と目が合った。挨拶を交わすとすぐに視線を落とし、明美はコーヒーを啜る。店で焙煎した自慢の逸品らしいが、モノの良し悪しを達弘は吟味することができない。席につくと彼は、店員を呼んでココアを注文した。

 喫茶店に呼び出された理由を達弘は知らない。あまりに急な話で、用事を確認する暇がなかったからだ。


 察しは一応ついている。無表情でたばこを吹かす明美だが、そこには苛立ちの片鱗が見え隠れしていた。喫煙者がたばこを吸う理由は二つある。一つはどこまでも落ち込んでしまいそうなとき、気持ちを引き上げるため。もう一つは物事が思いどおりにいかず、イライラが募るとき。明美の場合、後者の理由で吸うときが多い。現にいまも、気持ちを落ち着かせようとしているのが手に取るようにわかる。


「きょうはひどい豪雨だったな。朝から動いてたから大変だったよ」

 隣の席に傘をかけ立て、達弘は苦々しげに笑った。そのぎこちない表情を見て、たばこに集中していた明美もようやく彼のほうに意識を向けはじめる。

「何があった? 元気ないじゃん」と達弘は聞いた。


 明美の浮き沈みは激しく、テンションの高いときは漫画のキャラクターみたいに大騒ぎだが、気持ちが滅入ると取りつく島もないほど不機嫌になる。様子は電話口で掴んでいたものの、腹を立てているのか、それとも悲しんでいるのか、表向きわかりづらい。

「セキュリティの問題だって」と明美は唐突に答えた。伏し目がちな顔だが、語気は驚くほど強かった。

「相沢大臣の講演会だけど、大学の事務局に止められちゃった。警備員を置くとか、しかるべき措置を講じないかぎり開催は中止だって。そんな予算ないし、部員が警備する線で交渉したんだけど、それだとダメってにべもない感じだった。大臣の側はオーケーを出してくれたのに納得いかないよ。たくさんの人が見に来てくれるのに、お披露目にもなりやしない」


 最後のひと言にはとりわけ強い力がこもっていた。明美が講演会に固執する理由を考えれば、その謎はたちどころに解る。

 達弘は豊富な言い回しから慰めの言葉を探し、片腕を抱きしめた。

「イベントは中止になってもさ、先輩がたへのアピールには十分じゃないか。事務を仕切っていた明美のことは部員ならだれでも知ってるし、お前の力量は認めている。同じ考えの先輩はたくさんいるはずだよ」

 雨で熱気が冷めたわりに店のクーラーは効き過ぎている。達弘はココアを運んできた店員にエアコンの温度を上げて欲しいと伝えた。

 店員が打てば響く態度で引き下がったとき、焦れた様子で明美はいった。


「達弘、考え甘すぎだよ。そんなんじゃ外資なんて絶対勤まらない。あそこは結果がすべてなの、準備は完璧でも成果を残せないと意味がない世界なの。中止になった時点で講演会は失敗。大学職員の方と話し合って代わりにインタビューを収録させて貰う方向で調整するけど、負け戦も良いとこだよ。無様すぎてインタビュアーとかわたしできない。達弘、代わりにやってくれる?」

「え、おれが」

 唐突な要求に息をのんだ。明美は真顔で追いかける。

「そうだよ。講演会のお題目が財政健全化だったから、同じテーマでお話を聞かせて貰うの。いまの日本にとってもっとも重要な課題でしょ。この間、石井議員が殺されたのも増税推進派だったことが原因だといわれているし、ついにこの国は戦前と同じようなテロの起こる社会になっちゃったんだよ。達弘、愛国者だって交流アプリに書いてたじゃない。愛国者なら勇気をもって財政健全化をなし遂げるべき局面でしょ」


 火の消えた吸い殻を捨てた明美が、新たなたばこに火をつける。彼女の話は、唐突であることを除けば、達弘にとって望むべくもない提案だった。インタビューをするのは対面だろうし、大臣に付き添う警護も席を外す可能性が高い。会話ができる距離でおこなうため、襲うのはそう難しくない。明美が役目を押し付ける格好だが、達弘が愛国をなしうるうえで絶好のパスであることは間違いない。


 実際のところ、授業を休んだ彼は昼間に家族と会ってきた。達弘の実家はお茶の販売でひと財産築いた富農で、地元では名士として知られる一族だった。西野が見せた惨めな弱気がきっかけとなり、犯行後は面会に来ることも難しいだろうから、死ぬまでにひと目見ておきたいと達弘は考えたのだ。そうすれば親孝行を果たしたことになるし、心をすっきりさせておくことができる。


 在来線を乗り継ぎ、最寄り駅からはタクシーを使った。本家筋にあたる達弘の親は豪奢な建物に住んでおり、突然顔を出した息子を歓迎した。工場のチェックは済ませた後らしく、店のほうも人に任せてある。二人は自宅でくつろいでいた。


 母親は達弘の帰省を喜び、昼飯前だと知ると急いでうな重を注文した。父親はリビングで新聞を広げ、株のニュースをラジオで聞いていた。彼は達弘が子どもの頃から株取引に熱心で、むろん理由は資産運用だ。銀行の人間に任せるくらいなら自分でやる。そう一念発起した父親はいまでは名うての相場師だ。

「お前、きょうは泊まっていくのか?」とイヤホンをしながら父親が聞いてきた。達弘は首を横に振り「すぐ帰るけど、地元の空気が吸いたくてさ」と嘘を吐いた。


 ちなみに警察に西野が捕まったというニュースはまだ流れてこない。死線をさまよう母親と無事会うことができたのだろうか。昨日出た結論では、少なくとも病院へは顔を出したはずだ。その様子を目の当たりにしたせいで、ひょっとすると自分も後悔をするかもしれないと達弘は考え、取り急ぎ実家に向かった。しかしいざ母屋の敷居を跨ぐとこみ上げる哀愁みたいなものは皆無で、相変わらずな両親に胸を打つような感慨もない。


 彼が相沢大臣を殺せば、財政健全化という目標は要石を失い、潜在的な反発が与党内からもあがるだろう。何より国家の主権者たる国民が、誤った政策の当事者が謀殺される様を目撃し、本当に正しいのは犯人の側だと見なしてくれるはずだ。達弘はそう確信する自分を再確認して安堵の息を吐いた。

「それじゃお店のほうに行ってくるわね。うなぎが来たら食べなさい」

 リビングにいい放って達弘の母親はドアの向こうに消えた。彼女は何の相談もなく息子が帰ってきたから出迎えたに過ぎず、基本的に日中はお茶の店舗にいる。部屋に残されたのはソファとパソコンデスクを往復する父親で、株の値動きに集中しているため会話は弾まない。


 しかし数分経った頃、風向きが急に変わった。

「タツ、ちょっと話がある。そこ座りなさい」

 耳にしたイヤホンを外し、ラジオを流すための携帯をテーブルに置いて、達弘の父親はソファの上にあぐらをかく。ただでさえ背の高い父親の立っ端が増し、達弘はいわれるままに指示された場所に座った。膝を揃えて女みたいな座り方をしている。


「じつはこのところお母さんの具合が変でな。すぐ物忘れするし、言葉が出てこないし、同じことばかり話すし、以前にはなかったことが続くんだ。主治医に紹介して貰った病院を受診してきた。結果は軽度の認知症とのことだった。お母さんはまだ、そのことを知らない」


 父親は薄く目を開けて達弘のことを直視していた。達弘は動揺し、こわばった顔で唾をのみ込んだ。正確には、のみ込むふりをした。


 彼の拙い知識によると、認知症は治る病気ではない。十年前後かけてゆっくり進行し、最後は食事さえ受けつけなくなり死に到る。その間、周囲の人間に迷惑をかけまくり、介護疲れで患者を殺す人までいる病気だ。


 達弘はこれから人を殺し、おそらく二度とシャバに出られない身となる。せめてもの義理で、家族に顔を見せに来た。そこでショックなことを聞かされ、言葉を失った。両親はまだ若く、病気になるイメージは少しもなかった。


 達弘がもし普通の人間なら、介護の当事者になる父親を慮り、症状が軽度なうちに母親と過ごす時間を大事にしよう、そんなふうに考えたはずだ。不穏な影の差した家族に爆弾を落とすような真似は慎まねばならない。相沢大臣の殺害など論外という結論になる。健康は徐々に損なわれ、二度と以前の母親には戻らない。達弘とて認知症に関する知識はあったから、何が最善かを理解している。


 にもかかわらず、彼は無情な選択をとった。口先では父親の心労をねぎらい、自分が力になれないことを申し訳がないと謝った。実際、達弘の実家は金ならあるため、介護の心配はないと父親は断言した。そのうえであと何年健康を保てるかわからない以上、母親に幸福な時間を過ごして貰いたいといった。具体的には、以前から行きたがっていた旅行に連れて行きたいと父親は話した。お前も同行してくれと彼は達弘に頼み込んだ。


 その程度のことで親孝行ができるなら喜んでついていくと彼は応えた。とはいえそれも口先にほかならなかった。きょう帰省した目的は、収監される前の自分を両親に見せることにあって、それは無事達成した。大臣を殺したあとは家族の支えなど欲しくないし、正しいことをしたのだから胸を張って生きて欲しいと手紙を書く予定だった。そこまで義理を果たせば、達弘がやり残したことは何もない。少なくとも家族に配慮することはゼロだ。


 じつの話、彼は同じことを明美に対しても実行する腹づもりでいた。家族との別れを済ませたように、明美との関係にも区切りをつける。大臣が暗殺されたら警護はもとより、大学側の監督責任、周囲の加担が問われる。そんなとき犯人の恋人というのはどういう立場か、達弘は見逃していない。事件で受けるショックは大きく、止められる立場にいたと考えるなど、犯人が背負うべき責任の一端を抱え込んでしまうに違いない。


 まだ熱いココアを冷ましながら、意識を目の前の明美に移していく。明美は講演会が中止になった衝撃から立ち直れておらず、沈鬱な顔をして押し黙っている。代わりに提案されたインタビューを達弘に依頼し、その答えを待っている状況だ。

「おれでよければ聞き手になるよ。大臣とサシで話せるなんて役得だし」

 少し悩んだ様子を見せて快諾すると、苛立ちから解放された明美は半泣きでいう。

「本当に良いの? ありがとう助かる」


 明美はたばこを灰皿に置き、顔の前で両手を合わせている。心から感謝しているようには見えなかったが、感謝されないよりはましだった。

 達弘はコーヒーカップを傾け、事態を達観する。大臣の聞き役を引き受けた時点で彼の運命は決まった。当初の予定どおり、大臣に引導を渡す。

 依頼を片づけた明美は見るからに落ち着きを浮かべ、口許は笑っている。しかし彼女の話はまだ終わりではなかった。


「用事ばかりで申し訳ないけど、ついでにもう一個、話があるの」

「なに?」と達弘は応えた。重要なやり取りはもう済んでいるため、蛇足に向き合うような構えだ。けれども彼は思い知ることになる。明美が呼び出した理由はむしろ【ついで】のほうにあったのだと。


「わたしさ、妊娠したみたい」と彼女は切り出した。達弘は当然、目が点になる。

「どういうこと?」と彼は問いを重ねた。駆け引きを忘れた声だった。

「いったとおりだよ。体調が変だから調べてみたの、そしたら妊娠してるって。産婦人科で診て貰ったやつだから確実な話ね。検査ミスとかじゃないから」


 一つ聞けば十答えるような明美だが、達弘はまだ衝撃から立ち直っていない。妊娠とは子どもができたという意味で、彼が父親になったことを意味する。しかしそんな重荷を背負う気などいまの彼にはない。

「産む気じゃないよな。おれは反対だぞ」

 自覚はまったくないが、達弘は怖いほど険しい顔になった。憮然とした面持ちで、はらわたは煮えくり返っている。

 とはいえ明美のほうにも覚悟のようなものがあったらしく、達弘が睨み返しても平然としていった。


「中絶はしたくないの。せっかく授かった命を消すのは殺人だし、少なくともわたしはそう思ってる」

 明美はたばこを手に取り、眉をしかめて吸い込んだ。吐き出す紫煙の量が、彼女の決意を物語っている。

「でも達弘は安心して良いから。無理に結婚して欲しいとは思ってないし、出産に反対なら独力で育てるから」

「独りで育てるのは無理だろ。就職どころじゃない」


 そう、達弘のいうとおりだ。子どもが生まれる頃には社会に出なければならない。とうてい新人が抱え込めるタスクの量ではなくなるだろうし、託児制度も一般には不十分だ。しかし決意のほどは目を見張るほど強く、明美は一歩も退かない態度を見せた。これに対し、気持ちの面で負けている達弘は切れの良い反論ができない。


「一方的過ぎるよ。そもそも避妊はしっかりしていたはずだ。本当におれの子どもなのか?」

「わたしが浮気したっていうの?」

「そんなこといってない。妊娠する道理がないって話さ」

 互いの口調が段々きつくなっていくなか、明美は声のトーンを一段階上げた。

「達弘のアレ、小さいからときどきコンドーム外れるじゃん。だからたぶん、そのとき入っちゃったんだと思う」


 どう見ても責任転嫁で、その言いぐさも耳を疑うほどひどい。セックスの最中に外れることは確かにあったが、むき出しのペニスを入れるほど達弘は無神経ではなかった。

「ふざけるのもいい加減にしろ。こっちは戸惑ってるのに責任擦り付けるなよ。おれのペニスが小さいから妊娠しても仕方ないってか?」

「そこまでいってない。でもほかに原因思いあたらないし」

「原因究明は二の次だろ。おれは出産に反対だ。明美の負担になるし、考えが浅過ぎる」

「考えなしに産むわけじゃないよ。親も支援してくれるし、環境は整えるから大丈夫だって」

「親を頼る気か? そういう考えが浅いんだよ」


 激しく言葉をぶつけ合うも、声量は抑えていたから、周囲の視線は集まってこない。客層は大人が多かった。皆、読書や雑談に勤しんでいる。

 そんな周りの空気感を察したのか、達弘は口をへの字に結んだ。明美もたばこを灰皿に押しつけ、口論を冷ますようなことを述べた。


「どうしてそんなに嫌がるの? 達弘には迷惑かけないっていってるじゃん」

 諭すような口ぶりだが、あらためて考えると達弘の怒りと抵抗感には根拠がなかった。あるのかもしれないが、自覚するには到っていない。望まぬ妊娠という失態が許せず、自分に腹が立ったのか。それも違う気がした。


 達弘はココアを飲みながら少しずつ冷静になった。責任は明美がとるらしい。だとするなら父親としての責任からは自由ではないか。

 自由。そこまで考えを進めて達弘は気づいた。彼の中心にある思考にだ。

 自分はこれから人殺しを犯し、咎人になる。そんな父親を持った子どもはさぞ不幸だろう。ゆえに子どもは中絶すべきと考えたわけではなかった。明美が責任をもって育てるというのだから、子どもは幸せになる権利があるし、実現する確率も高いだろう。


 ではなぜ彼は出産に反対したのか。身勝手な話だが、達弘は自分がいなくなる世界に何も残したくなかったのだ。子どもが彼にとって大事な存在でもそうでなくても、この世界をゼロにしておきたかった。自分の痕跡をなくし、体ひとつで大臣殺しをなし遂げ、収監されたかった。最初から明美に未練はない。唯一心残りだった家族には義理をはたし、思い残すことはない。


 そのはずだったのに、どんな偶然か子どもができたというではないか。きれいに掃除した部屋を汚されたらどんな人間でも腹を立てるだろう。特に達弘は潔癖なところがある。彼の努力に泥を塗った明美、だから腹を立てた。そこまで理解を進め、ようやく達弘は自分の気持ちに気がついた。


「おれはこの世界に大事なものを残したくないんだ。中絶してくれないか。頼むよ、明美」

 自分の思いどおりにならない物事を達弘は嫌う。たんに嫌うだけでなく、壊したくなる。人間が相手なら殺したくなってしまう。特に弱くて儚いものを。

「そんなに子どもが嫌いなの?」と明美は涙を浮かべていった。達弘があまりに頑固なため、張りつめた感情が決壊しつつあるのだ。強気で出産を押し通したものの、本当は認めて貰いたかったに違いない。産まれてくる子どものために二人の心を一つにしたい。そんな願いがあったように見える。


「同じことをいわせるな。子どもが大事だと思うからこそ、この世界に残したくない」

 もう一度抵抗をくり返すと、明美は手で顔を覆い、本格的に泣き出してしまった。その声にようやく周囲の目が達弘たちを向く。明美はその視線を敏感にかんじとったのか、バッグを手に席を立って、お手洗いに歩いていった。あとに取り残された達弘は、給仕の女性を呼んだ。気力を使い果たして腹が減ったのだ。


「サンドイッチ下さい」と彼はいった。給仕は一礼して厨房のほうへそそくさと向かった。残したココアを飲みほし、達弘は思う。明美は決して翻意はしないだろうと。子どものことを第一に考えるなら、人殺しは起こしてはならない。


 そんなことくらい、達弘にもわかっていた。しかし彼は愛国者だ。家族の幸福よりも国家の安寧、個人の幸せよりも全体の幸せに喜びを感じる人間だ。それでもどこかで悪いと思ったのだろう。明美が戻るのを待ちながら、達弘は目頭を抑え、嗚咽を漏らした。泣いているのだ。彼の涙を靖国以外の場で目にしたことはない。ハンカチは携帯しておらず、やむなくおしぼりで涙を拭った。それ以上感情的になると、自分の使命を愛国に捧げる決意が鈍ってしまいそうに映る。まだ見ぬ子どもの存在感に達弘は負けつつあった。撤退を食い止めるには、微力ながらわたしが働きかける以外、方法はないように見えた。


 わたしはたえず達弘のそばにおり、彼の挙動を見守っていた。はじめて訪れた靖国に感動で震えた達弘を、祭神である我々は心から敬し、いつの日か国に貢献する人物と見込んで英霊を憑依させた。そのとき選ばれた魂のひとつがこのわたしにほかならない。


 達弘の心を推し測り、彼の半生と現代社会のイロハを学んだ浮遊する霊魂という立場をやめ、意を決し地上に降り立った。カーキ色の軍装をしているわたしの姿は達弘以外のだれにも見えることはない。裏を返せば、わたしを達弘は視認した。靖国で邂逅している。そうした理解に到ったかどうかは定かではない。兵士はだれもが同じような格好をしているからだ。


「だれなんだよ、あんた?」と達弘は疑問を発した。しかし靖国でのやり取りを思い出して貰えればわかるとおり、わたしたち英霊は人間と会話をすることができない。本来なら姿が見えない人間の話を聞き取って、心の澱みをきれいにしてやることが存在意義だ。達弘もそのことを思い出したのか、わたしの存在に固執するのをやめ、むせび泣きながらこういう。


「こんなことになるなんて、思ってもいなかった。後腐れなく使命を果たす気が、足枷にとらわれて心が痛い。罪人を親に持った子どもほど不幸なやつはいない。明美を翻意させるにはどうしたら良いだろう? おれは決して間違っていないよな? どうすればそのことを理解して貰える?」


 会話ができないのを忘れたか、それとも思いが溢れてしまったのか、達弘は疑問を畳みかけ、ぐずぐずと泣きじゃくる。わたしは言葉を発せられないが、かろうじて身ぶりを使うことはできた。唇を引き結んだまま、瞳を見つめ、彼に対して頷き返す。達弘は間違っていない。そう伝えたつもりだ。明美と意見はぶつかっているが、目標を一致させる必要はない。彼がなそうとする愛国の重みを掴んでいればこそ、決然たる態度をとった。


 石井議員の死ですら、社会に動揺を引き起こした。コロナ禍で悪化した財政を増税で賄い、諸外国が財政支出を増やすなか、日本は真逆の方角に向かっている。しかしその首謀者である相沢大臣が殺されたら、財政破綻を脅し文句に国家財政を歪めてきた連中は黙り込むだろう。そんな未来を達弘はたぐり寄せるはめとなった。子どものことは忘れろ。そんな執念を込めてもう一度頷き返した。

「ありがとう、気持ちが吹っ切れたよ」


 そういった彼はおしぼりを几帳面に畳み、テーブルの片隅に置いた。落涙で濡れた部分を、その端っこで丹念に拭く。

「靖国以外の場所にもいたんだな」という達弘。それは独り言にも問いかけにも感じられたが、わたしは黙って頷いた。気にとめたのはべつのことだ。


 気持ちが吹っ切れたというものの、どちらに振れたのか判然としていない。愛国を貫くか、子どもを選びとるか。達弘の表情を見るかぎり、どちらとも受けとれる。しかしわたしは疑問を差し挟めない。人間の運命に表立って干渉できないのだ。やがて給仕がサンドイッチを運んできて、きれいに飾られた皿を達弘の前に置いた。ベーコン、レタス、トマトが挟んであり、見た目もじつに美しい。


「いただきます」と彼はいい、切れ端を一つ摘んだ。わたしはその晴れやかな表情から、達弘の真意を掴み取る。言葉は発せられないが、そのことを苦に感じなかった。

 後ろを振り返ると、明美が戻ってきた。入れ替わりに席を立ち、達弘を俯瞰する位置に戻った。最低限の役目は果たせた、とわたしは思った。数人の客がこちらを見ている。その視線は何も捉えてはいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スクールボーイ・アサシン 影山ろここ @Lelouch_0424

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る