美人
とんでもない美人と目が合ったんです。
真顔でこっちを見ていました。
俺の周りに誰も居なかったから、俺を見ていたんだと思う。俺の後ろの何かを見ていたのかも知れないけど。
整った顔立ちとか表現すればいいのかな。
とにかく、凄い美人が自分を見てるのかもって思ったら、ドキッとしちゃいますよ。
コテージを借りて、友だちと旅行に来てたんです。
周りが林みたいになってて静かだったから、朝のジョギングに行ったんです。
友だちが起きなくて、ひとりで走ってたんですよね。
老人の早朝散歩とか、犬の散歩とか。
林が広がってるような場所でも、道路にチラホラ人は見かけてました。
コテージの前の道を真っすぐ走ってきたら、周りが遊歩道になってる湖に出たんです。
ここを一周して帰ろうと思って。
それで湖の周りを走り出したんですが、ジョギングするって言って友だちを起こそうとした時に、あいつら寝ぼけてたから。
起きた時に俺がいないと驚くかもしれないし、一応ライン入れとこうと思って。
近くにあったベンチに座って、スマホいじってたんです。
で、なんか視線を感じたんですよね。
人の気配って言うのかな。
ベンチの横の方にでかい木があって、その向こうからひょっこり顔を出してたんです。
とんでもない美人でした。
サラッとした長い黒髪で、青い蝶の
いま思えば、けっこう冷えてたのに浴衣1枚だったんですよね。
裾がヒラヒラして、生足も見えてて。
でも、それが不思議とも思わない状況っていうか。
真顔だった美人が、俺の方を見てニコッて笑ったんです。
バッチリ目が合ってるし、俺を通り越した後ろ側にも誰も居なくて。
その美人は、軽く会釈する感じで、向こうをむいて歩き出したんです。
ついて来いって、言われてる気がしたんですよね。
もちろん、ついて行きました。
浴衣の美人、楽しそうにトコトコ歩きながら、時々振り返ってニコッて笑うんです。
ついて来いって事ですよね?
灰色の帯がシンプルだから、色っぽいお尻の方に目がいっちゃって。
美人の後姿ばっかり見てたから、目の前を意識してなかったんですよね。
急に、看板が目の前に現れたんです。
気付かずに、ぶつかりそうになって。
木の棒にクリアファイルで挟んだ紙を貼り付けた、即席で立てたような看板でした。
A4の紙に大きく印刷された文字で、
『美人に騙されていませんか。足元を見て下さい』
って、書かれていました。
美人って文字で驚きましたけど、普通になんのこっちゃと思ったんです。
でも、自分の足元を見てみたんです。
悲鳴みたいな、変な声が出ちゃいましたよ。
すぐ目の前、沼になってたんです。
黒くて深さはわからないけど、周りは草ぼうぼうで、底なし沼みたいな印象でした。
浴衣美人が俺の前を歩いてた時は、ずっと先まで土の道が続いてたはずなのに。
そして、美人の姿も消えていました。
木も鬱蒼としていて、さっきまでの景色とぜんぜん違ってるんです。
即席で立てられた看板。
美人に誘われて、沼に落ちた奴がいたってことですよね。
ゾッとして、慌てて引き返しました。
通って来たはずの道も無くなってたんですよ。
でも、俺が雑草を踏んで来たっぽい跡が続いてました。それを辿ってきたら、元の湖に戻れたんです。
すぐにコテージに戻って、友だちを叩き起こしました。
友だちと一緒に、もう一度行ってみようかとは思ったんですけどね。
もう一度行って、沼が消えてても怖いし、看板に気付かず沼に落ちるって事もあるかも知れないじゃないですか。
なので、湖にも近付いていません。
美人の正体、生きた人間ではなかったんでしょうけど。
あの看板も、誰が立てた物なのか気になるところです。
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