ミジカイダン

扇子

　何がどう変だという説明もできないのですが、何かがおかしい、という経験があります。

　まだ猛暑が続いていた頃、久々に電車に乗りました。

　ぎゅうぎゅうと言うほどでもありませんが、座席は埋まっていて吊り革を持って立っている人も結構いるくらいの混み具合でした。

　コロナ過でもあったので、吊り革に掴まるのもちょっと気になって。

　あんまり揺れるようなら掴もうかなと思いつつ、ドアから少し奥へ入った辺りに立っていたんです。

　私の隣では、横に大きい汗だくの中年男性が、吊り革に掴まっていました。

　クールビズが許されない職場なのか、スーツにネクタイもきっちりで、見るからに暑そうでした。

　その男性が背負っていたリュックサックを下ろしたので、上着を脱ぐのかと思ったら扇子を取り出したんです。

　すぐにバタバタ扇ぎだしました。

　水墨画風のトンボが描かれた、男性用の扇子でした。

　ちょうど、扇いだ風が男性越しに、私の方に流れてきたんですよね。

　このご時世、マスクしているとは言えですよ。

　失礼にはなっちゃいますけど、汗だくのオジサンを扇いだ風が流れてくるって、ちょっと嫌じゃないですか。

　でも視界に入っちゃってるでしょうから移動するのも、あからさまだしなと思っていたんです。

　その扇子なのか男性なのか、ずっとお線香のにおいがしていました。

　汗臭いよりずっと良いですけど、気になって気になって。

　まだ降りる駅ではないんですが、次の駅で降りる人たちに紛れて移動しようかなって思ったんです。

　でも、その扇子の男性がドアの方を向いて、次の駅で降りそうな様子でした。

　行っちゃってくれるなら良かったと思っていたら、男性は扇子をパチッと閉じて、足元にポンと落としたんです。

　わざと捨てたように見えたんですよね。

　落としましたよって、声をかけるべきなのか迷っている内に、扉が開いて。

　横に大きいわりに、スーッと降りて行ってしまったんです。

　あといくつかの駅を過ぎたら終点なので、清掃員さんが落とし物として拾ってくれるかなと思う事にしたんです。

　でも、その駅で乗って来た中年女性が私の隣に来て、落ちていた扇子を拾ってしまいました。そして、そのままバタバタ扇ぎ始めたんですよ。

　このご時世でも、落ちている物を平気で使っちゃう人もいるのかと驚きました。

　今度は、お線香のにおいはしませんでした。

　その女性よりも私の方が先に電車を降りてしまったので、扇子がどうなったのかはわかりません。

　いま思えばですが、横に大きな汗だくの男性が降りて行くとき、周囲に立っていた人たちは避けるでもなく目を向けるでもなく。

　やけにスーッと進んで行ったなと思ったんです。

　暑さのせいで、周囲が普通じゃないと思う行動をとる人が多い……とはいえ、そういう事だけではないような気がしました。

　気のせいや偶然と言ってしまえば、それまでなのですけどね。