あのさ「可奈」って呼んでいいか?

「あのさ。可奈かなって呼んでいいか?」


 腫れぼった目を見開くおさげ髪の少女。

 ついさっき、俺にコクってきた地味子じみこだ。


「いや、その……地味子じみこって呼ぶのは、さすがに、さ」


 コイツをイジめてた連中と同じ呼び名は、なんか嫌だ。

 カバンを背負い、夕焼けの中を歩きながら、考えてた。


「いきなり、名前で呼ぶのは慣れなくてさ。俺だけの呼び名っつーことで」


 字見あざみ可奈子かなこは帰国子女だった。

 幼い頃、外国で育ったからだろう。

 人をファーストネームで呼ぶ習慣に慣れている。

 だから、コイツは俺を平気で「青葉あおばくん」と呼ぶんだ。


「――可奈かなでいいよ。青葉あおばくん」


 手を握られた。

 お互いに頬が赤く染まっている。

 夕焼けのせいだけじゃなかった。


 可奈かなの自宅は駅から少し歩いた、閑静な住宅地にあった。

 駅前商店街の花屋の上にあるおれとは、方向が少し違う。

 俺は毎日、学校の帰りに遠回りをすることになった。

 いじめられっ子がやべー奴と「恋人つなぎ」をして下校する。

 そう見せつけてるうちは、誰も可奈かなに手を出すわけないから。


 ***


 ここ数年、天気がおかしくねぇか。

 雨が多かったり、カンカン照りになったり、極端すぎるんだ。

 その日は、夕方から雨の天気予報。

 梅雨が早めに終わり、あんなにきれいだった色とりどりのアジサイがしおれ始めたと思ったら、どしゃ降りのゲリラ豪雨ときた。


「どうしよう……傘、無くしちゃった」


 傘立ての前で打ちひしがれた、可奈かなの肩を抱いた。

 長い傘はパクられる。俺は二年前から知っている。

 だから、俺は鞄のなかに折り畳み傘を持っていた。


「じゃあ、相合傘でもして帰ろうか?」

「……いいの?」

「入れてやンよ」


 その傘は大きすぎもなく、小さすぎもない。

 傘屋に行って選んだ、こだわりの品だった。


「でも、ふたり入るには小さいんだよな」

青葉あおばくん、肩濡れてるよ」

「いいんだ。俺、身体は丈夫なんだから」


 右手で持った傘の柄を可奈かなのほうに寄せる。

 必然的に、俺の左半身はずぶぬれになった。

 可奈かなの家についた頃には、右半身にも半分雨水がしみ込んでた。


「シャワー、浴びていって」

「いいよ、ウチで浴びるし」

「ダメっ。風邪ひいちゃう」


 ずぶぬれになった俺の腕を取り、可奈かなが玄関へ引きずり込んだ。


(外見のわりに、押しが強いな)

「待ってて。タオル持ってくる」


 靴を脱ぎ、綺麗にそろえて、可奈かなは廊下を駆けていった。


(けっこう立派なおうちだ)


 商店街の花屋の二階で育った彼とは、まるで違った世界。

 花瓶に一本の花が差してある。ウチの店でも取り扱っている品種。


「お待たせ。これで身体拭いて」


 可奈かながタオルを何個か持ってきた。

 全身を拭いてから、家に上がらせてもらった。

 濡れた靴下がフローリングの床に足跡を刻む。


「いいの、後で拭いておくから」

「わりぃ」

「服は脱衣所のかごに入れておいて。洗濯しちゃうから」

「別にそこまでしなくても」

「うちの洗濯機、乾燥まで全部やってくれるから楽なの」


 脱衣所に案内されて、戸を閉めた。

 ドラム式洗濯乾燥機とやらが鎮座している。

 ウチのボロい洗濯機とは似ても似つかない。

 制服も下着も全部脱いで、浴室へと入った。

 シャワーを気持ちよく浴びてる最中に、耳慣れないチャイムがした。


『ピロリロリン♪ お風呂が沸きました』

「ウソだろぉぉぉぉッ!」


 勝手に沸く風呂なんてあンのかよ!

 可奈かなの家で見たモノすべてが、俺にはあまりにも新鮮だった。


 俺が風呂につかっている間、可奈かなが洗濯機を回していたらしい。

 ずぶぬれのワイシャツとズボン。Tシャツ、トランクスに靴下。

 籠の中に放り込んだぜんぶが、あの中でぐるぐる回っている。


「パパのバスタオルとガウン、置いてあるから。それ使って」


 脱衣所の扉一枚を隔てて、可奈かなが言う。 

 娘ができたての彼氏を連れ込んで、ソイツがガウンを使ってると知ったら。

 コイツの父親は、いったいどんな気持ちになるんだろう。

 思いっきり、ぶン殴られるんだろうか。それはご勘弁願いたい。


「いいのかよ。おやっさんにバレたら、俺だってさすがにかばえないぞ」

「――気にしないで。今は、いないんだもん」


 まずいことを聞いた。

 そんな気がして、胸がズキッと痛んだ。

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