第48話 六花編 9 今度こそ風呂に入る
A子さんはこの街を熟知しているようで、雑踏の中をスイスイと泳ぐようにして目的地へと私を
目的地とは当然、風呂屋だ。
「ここです」
A子さんが立ち止まったのはまさしく風呂屋という風情の、日本風の建物の前だった。
「おお、これは……!」
その風呂屋は私が想像していた通りの佇まいだった。
古びた
この時代まで、しかもこの街でよくぞ生き残ったと褒め称えたくなるその銭湯こそ、私が求めていた理想の風呂屋そのものであった。
女湯の暖簾を潜るとそこはまさに銭湯。
古ぼけた脱衣籠や洗面台はノスタルジックでさえあった。
「素晴らしい銭湯だ。このような名店、よくご存じで」
私は適当な脱衣籠を選び、その隣にA子さんも並んだ。
「たまに来るんです。千鶴さんやうどんちゃんもここの常連なんですよ。この古臭さが良いって」
「ほう、この街の女性は違いが分かるのだな。私もここが気に入ったよ」
入浴する前にいう台詞ではないかもしれないが、気に入ったものはしょうがない。きっと浴場も期待を裏切るまいて。
「……どうした、A子さん」
A子さんはまだ服を脱ぐことすらせず、何かを躊躇うように視線を泳がせていた。
私は既に全裸だ。まさか……。
「なんだA子さん。もしかして、裸を見られるのが恥ずかしいのか?」
A子さんは見た目通りのお淑やかな性格で、きっと出会って間もない私に素肌を見せるのが恥ずかしいのだろう。
「いえ、そういう訳では……」
「なあに気にするな。と言うか、私なんかよりずっとスタイルが良さそうじゃないか。私など、ほら」
私は自分の胸をバンバン叩いて見せた。残念ながら、たわわに揺れるほども無い胸がか弱く揺れる程度にその存在を主張している。
A子さんは逡巡する様な間を置き、口を開いた。
「……少し、引くかもしれませんよ」
「ひく?」
……少々意味がわかりかねた。
引くほど
「よ、よくわからんが、私は一向に構わんよ」
「じゃあ、失礼します……」
するりと、衣擦れの音と共に露わになる彼女の素肌を見て絶句した。
A子さんの素肌には大小無数の傷跡が刻まれていたのだ。
「……さ、行きましょう」
A子さんは身体を隠すというより、その傷跡を隠す様にバスタオルを体に巻き、脱衣所を後にした。
しかし、隠しきれない腕の傷跡が痛々しい。私は現実感を失ったまま、彼女の後を追う様に浴場に向かった。
浴場は期待通りの銭湯然とした佇まいで、タイルで彩られた大きな富士山の図柄も見事の一言に尽きた。
だが、私の関心……というより心は、A子さんに向いている。
そして彼女も、それに気づいている。
A子さんのスタイルは予想通り、文句のない大人の女性のそれであった。
そんな女性の肌に似つかわしくないにも程があるあの傷跡はなんだ?
一体、彼女の身に何が……。
私と向かい合う様に湯船に浸かるA子さん。それがわざとである事は、この広い浴場に居るのが私達2人きりである事が如実に物語っている。
浴場に入ってからというもの、私の視線が彼女を中心に泳いでいる事は私よりもA子さんの方がよくわかっていたはずだ。
「なぜ……?」
この疑問を装飾する言葉も考えたが、彼女の行為に対しては不要だと判断してそう問うた。
行為とは、わざと私に体を見せつけてくる事だ。
それは彼女が、その行為を彼女自身の意思で行なっている行動であると感じていたからだ。
「……私ね、以前付き合っていた男性から暴力を受けていたんです」
A子さんはその細い指先で、傷跡をなぞる様にして言う。
「ドメスティック・バイオレンスです。DVってやつですよ。この傷は全部、その人から受けた暴力の跡です」
言葉も無い。
もしや、と嫌な予感はしていたが、的中して欲しくなかった。
「殴られたり、蹴られたり。でも、その後で優しくされたり……私が他人に依存しちゃう性格もいけなかったんだと思います。こんなになるまで、別れられなかった」
A子さんは不意に顎を上げ、喉元を私に向けた。
そこには痛々しいとしか表現できない傷跡があった。
「ここの傷が原因で、声が出なくなったんです」
彼女が以前、声を失った原因を曖昧にした理由が分かった。
とても言えまい。むしろ、思い出したくもないだろう。
私が何も言えないでいると、A子さんはふっと微笑んで、私の問いかけに改めて答えた。
「どうしてこんな事をあなたに教えるか、ですよね。……六花さんには、知っておいて欲しかったからです」
「知る……?」
「シュライバーに救われている人がどんな人であれ、みんな平等に救われている事をです。この街の良い人も悪い人も、不幸な人もかわいそうな人も、そうでない人も……使い方はどうあれ、シュライバーのおかげで生きていられるという事を。
それは六花さんの理想とはかけ離れた使い方かもしれません。否定したくなる様な使い方かもしれません。でも、シュライバーのおかげで、こんな無茶苦茶な街でも私たちは生きていけるんです。私もこのシュライバーのおかげで管理組合の事務の仕事につけたんですから」
そう言って、A子さんは自分の喉に埋め込まれた声帯機能のシュライバーを愛でる様に撫でた。
私は彼女の言葉を反芻することしか出来なかったが、心の中で何かが氷解していく様な感覚を感じていた。
それはまるで風呂のお湯が私の凍えた心を暖めてくれている様な、そんな心地よい感覚だった。
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