第49話 六花編 10 風呂が終われば
浴場を出た私は何とも不思議な感覚のまま、脱衣所で濡れた体をタオルで拭いていた。
今の私の心中に危惧していたような不安や迷いは無い。
万全の態勢と表現して差し支えのない
ただ、思考だけは纏まらない。
それだけが想定外というか、誤算だった。
色々なことが浮かんでは消え、また浮かんで、消えていく。
常に思考を平静に整える事を旨とするこの私が……。
しかもだ。しかも、そんな霞の中に居るような思考の中で常に考えているのは、何故かハナの事だった。
千鶴さんの家で起きた彼との諍いが、私の心の中でビデオ再生をするように繰り返されるのだ。
彼は自分たちのシュライバーが、私の思うシュライバーと同一であると主張した。
理想や思想を抜きにして、シュライバーはあくまで道具に過ぎないと彼は断じたのだ。
当然、私にはそんな考えは受け入れらない。だから否定したのだが、今は少しだけ思うところがある。
A子さんがいうように、それが善であれ悪であれ、シュライバーで生きる希望を見出せる人間が大勢いるのは事実だ。
それはこの街で生きる人達をこの目で見て、肌で感じた純粋な感情である。
そしてその善悪も結局は人が決めることであり、決めた善悪すらも受取手によって再び善悪の秤にかけられる。
その結果もまた、コインの表裏のように簡単に覆ってしまうだろう。
……この街の空気に感化されたのか。
いまの私にとって、橘製作所は世界一のシュライバー製造の拠点とは思えなかった。
私は私の理想……つまり橘製作所の理念こそが、理想のみがシュライバーとして認められるシュライバーだと考えていた。
だがそれは、やはり橘製作所の理想だ。
世界企業としての自負だ。
それはそれ程の自信の表れであり、それに見合う責任を負う事を意味している。
では、私はどうだ?
私にはそれ程の自信をもって生み出せるモノがあるか?
人様に差し出せる何かがあるだろうか。
同時に、それらがあったとしてその全てに責任を負うことが出来るだろうか。
私は自分を橘製作所そのものと勘違いしていたのかもしれない。
であれば、それは単なる驕りであろう。
髪を乾かして身支度を整えていると、A子さんが瓶のコーヒー牛乳を2本もって近づいて来る。
「さっきはごめんなさい」
彼女はそう言って、2本のうちの片方を私に差し出した。
「お詫びに、どうぞ」
「……詫びなど」
私は差し出された瓶に向かって遠慮するように手をかざしたが、A子さんはその手に瓶を近づけて、自分の手を添えるようにしてそっと瓶を私に手渡した。
「心を乱してしまうようなことを言って、すみませんでした」
その時、私はどんな顔をしていただろう。
驚き……それ以外の感情は無かった。
「これから会うんでしょう? 紅蜂って人に」
「……なぜ、あなたが紅蜂の事を?」
「六花さんに何があったか、組合長から聞きました。だからあなたを街で見かけた時から、感じていました。お風呂屋さんを探していると聞いて、確信しました。あなたは、戦うんでしょう? 紅蜂という人と、自分の未来を懸けて。だからその前に、せめてお風呂に入って身を清めたかった。私にはお侍さんの作法はわかりませんが、気持ちはわかります。だから、あなたはお風呂に入りたかった。違いますか?」
「……」
言葉も無かった。
A子さんは全てを見通していたのだ。
「そこまでするなんて、余程の事です。そんな大事な事の前に、あんな話をするべきでは無かったかもしれません。だから、ごめんなさいって……」
A子さんの声が徐々に小さくなっていく。同時に、声が湿り気を帯びていく。
「でも、知っておいて欲しかったんです。私みたいな弱い人間でも、シュライバーのお陰で今は幸せに……それがせめて、あなたの励みになれば……六花さんに戦わないでなんて言えない。むしろ戦って、勝ち取って欲しい。あなたの未来を……私たち、シュライバーを必要としている人たちの為にも……」
A子さんはポロポロとその大きな瞳から、大きな雫を落として言った。
「……死なないでください。そしてまた、お昼ご飯を一緒にたべましょう? ねえ、六花さん……」
「……」
私はA子さんの肩を抱き、詰まりそうな声を押し出すようにして言った。
「勿論だとも。そして、風呂にも入ろう。今日のように」
私が微笑むと、A子さんも精一杯の笑顔で応えてくれた。
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