第47話 六花編 8 風呂に入る


 逃げる様に千鶴さんの工場を後にした私だったが、目的も何もなく飛び出した訳では無い。


 風呂だ。風呂に入りたかったのだ。


 入りたい。どうしても入りたい。

 いや、入らなくてはならないんだ。

 しかし、私には土地勘が全く無い。

 風呂屋がどこにあるのか、そもそもあるのかどうかすら分からなかった。


 取り敢えず繁華街へと足を向けてみたものの、風呂屋の気配は無い。


 困った。腹も減ってきたし、これは困ったぞ。


 そもそもこの街へ来た時も殆ど勢いで来たものだから、宿やら食事やらは二の次だった。だからハナと初めて会った時も空腹で身動きが取れなくなった訳で……。


 繁華街といった事もあり辺りには数多くの飲食店が立ち並んでいる。

 日本のそれとは違い、かなり不健康そうなメニューを掲げる店が殆どだが、実は私はそういった料理の方が好みだったりする。

(カードや日本円が使えるのか)

 店先の看板には見慣れたカード会社のロゴマークや、日本円、アメリカドル、後は大手の仮想通貨などが使用可能とあった。これには心底安心した。

(この分だと風呂屋の支払いも問題ないな。しかし……)

 とりあえず金銭的な問題はないが、それを使う風呂屋が見当たらない。

 あと、折角なら美味しいもので腹拵えをしたい……。

 私がそんなふうに考え込んでいると、背後から淑やかで慎ましい、鈴の音の様な声が私を呼んだ。

「六花さん?」


 振り返ると、シュライバー管理組合のA子さんがきょとんとした顔で私を眺めていた。

「どうしたんですか? おひとりですか?」


 不意をつかれた格好の私は動揺を隠しきれず、

「や、やあA子さん。この人混みで、よく私だと分かったな」

 なんて、ちぐはぐな返事をしてしまった。

 だが、A子さんは特に気にする様子もなく、

「服装で分かりますよ」

 そう言って、くすくすとおかしそうに笑った。


 確かに、私の格好は周りの人々と比べると浮いていなくもない。

 ……誰も腰に刀を差してはいないしな。

「そ、そうか。ははは、仰る通りだ」

 私の乾いた笑いに何かを察したか、A子さんは再び私に問うた。

「どうしたんですか?」


 真摯な瞳で彼女は問う。

 私とて隠し立てをする様な事は1つもないので、正直に答えようと思った。

「……実は風呂屋を探している。あと、飯屋も」

「お風呂? ああ、千鶴さんの工場での事、組合長から聞きました。お風呂も壊れてしまったんですね」

「ん、まあ、そうなんだ。つまり昨日は風呂に入っていなくてな。だから風呂屋と……」

「ご飯屋さんですね。もうすぐお昼ですもんね」

「御明察」


 既に昼時を回って少々。私の腹は先程からなんとも言えない重低音で唸りを上げていた。

「もしよかったらお昼、ご一緒にどうですか?」

 A子さんはにっこりと女神の様な微笑みを湛え、そんな嬉しい提案をしてくれた。

「え? ……宜しいか?」

「勿論です。私もこれからお昼にしようと思っていたんです」


 何という僥倖だ。渡りに船とはまさにこの事で、私は彼女の申し出に甘えさせて貰うことにした。

 というか、この期に及んで迷っている暇はない。私には時間がないのだ。


 A子さんは実に段取り良く昼食の店に案内してくれた。店は所謂いわゆるカフェというやつで、実に垢抜けた内装が好ましく、日本にはない独特の洒落っ気をそこかしこに感じた。

 A子さんはこの店は行きつけらしく、店員とも顔見知りの様子だった。

 私は彼女の注文したものと同じなんとかランチというものを注文したのだが、これがまたお洒落というかなんというか。


「……六花さん、どうしたんですか?」

 食事が運ばれてきてすぐ、A子さんは私にそんな声をかけた。

 無理もない。私は感涙にむせいでいたのだ。

「いや、こんなに洒落た昼食は生まれて初めてなんでな……」

 私の昼は大体うどんか、おにぎりと簡単なおかずか、和食中心の弁当であった。日本にも洋食がない事は無いのだが、決してお洒落ではない。むしろどこか野暮ったいものばかりである。


「よかった」

 A子さんが声を弾ませた。

「六花さんも女の子なんですね」


 新鮮な響きだった。

 女の子という言葉に、私は鮮やかな衝撃を覚えたのだ。

 それは違和感ではない。不快感でもない。

 むしろ、喜びであった。


「……頂きます」

 私は目の前のお洒落なワンプレートランチに向かって手を合わせ、深く感謝した。

 そして、A子さんにも。


 私とA子さんの昼食は取り止めもない会話の連続で、ある意味では不毛であるのかもしれない。しかし、私にとってはいまだかつてない程、充実した時間だった。


 私の昼食は大体ひとりで、静か過ぎるほど静かに過ぎてゆくのが常だったからだ。


 こんな昼食は、年頃の娘であればごく普通の出来事なのだろう。だが、私のまわりの人間は学友も含めてあまり私に干渉しない。

 大企業の社長令嬢という理由で敬遠……いや、煙たがられているのもあるだろうがそれ以上に、私が他者に干渉するのを躊躇っているからだ。その理由もまた、自らが何者であるかを意識しているからだ。


 私の孤独は、私自身で作り上げた壁の中に居るからこそ感じるのだと、自分でもいやというほど理解していた。



 食事を終え、店を出た私はA子さんに再び礼をした。

「こんなに楽しい昼食は初めてだったかもしれない。A子さん、お誘いいただき、本当にありがとう」

「そんな大袈裟な」


 そう言ってA子さんは胸の前で手を振り、謙遜した。

そのおくゆかしさに彼女への尊敬リスペクトを禁じ得ない。


 さあ、腹拵えは済んだ。

 次のステップに進まねばならぬ。

 私にはどうしてもやらなければならないことがある。楽しい昼食のせいでそれを忘れたわけではない。


 ということで、私はA子さんに別れを告げねばならなかった。


「……では」

「じゃあ」


 私とA子さんの声が重なった。


 僅かな間があったがしかし、次の言葉で瞬時にその穴を埋めた。


「……ここで」

「次は」


 私は首を傾げた。私の「では」と、A子さんの「じゃあ」は同じ意味合いだと思ったが、そうではない様子なのだ。では一体どういう意味なんだ?


 と、私の疑問を察したか、A子さんはおもむろに口を開いた。

「次は、お風呂ですね」


 ……それはそうなんですが。


「風呂屋の場所を、ご存知で?」

 すると彼女はこくんと頷き、少しはにかんだ。

「私もご一緒しても、いいですか?」

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