第44話 六花編 5 父と親友と、恋人
「……そんな顔しなさんな六花さん。ハナには別の仕事を持ってきてやったからよ、食いっぱぐれはしねぇさ」
銀一郎氏は背中越しに私に告げると、振り返る事なくシェルターへと向かった。
私にはそんな銀一郎氏の背中を黙って見送る事しか出来ない。
それ以外、私に出来る事など何も無い。
「……」
只、無力感に支配され立ち尽くす私の手に、唐突に何か暖かいものが押し当てられた。
缶コーヒーだった。
「飲みなよ」
組合長が気を利かせてくれたのだ。
「……いただきます」
私は遠慮しなかった。何でもいいから、この体の寒さと心の空虚さを満たしたかったのだ。
(甘い……)
缶コーヒーは不自然な程に甘ったるく、しかし香ばしかった。
凍えた私に、甘く温かいコーヒーが染みる。
「六花よ、甘ったるいコーヒーは嫌いか?」
あまりにもちびちびと
「いえ、そんなことは。むしろ、好きです。ただ、日本にはもうここまで甘い缶コーヒーはありませんから」
「ああ、 日本はついに砂糖まで規制しだしたそうだな。くだらねえ。俺が日本にいた頃も酷かったが、今はそれ以上だな」
組合長はそう吐き捨てた。
私も同感だ。何でもかんでも規制規制と、最近の日本は何かに怯えるようにやたらと制限したがっている。
「……組合長。あなたが日本を出たのは、そういったモノに対する反抗心というか、抵抗感と言ったものが原因では?」
不意に口をついたのは、そんなある意味不躾な質問だった。
「……何でそんな事を訊くんだい?」
「あなたと父はよく似ている。その考え方も反骨精神も、同じだ。しかし父は日本から出ることはなく、あなたはここを選んだ……から、というか、なんというか」
我ながら曖昧な理由だと呆れた。
もとより、はっきりとした理由なんてなかったのだ。ただ、何となく気になって訊いただけなのだが、気分を害してしまっただろうか。
しかし組合長はふふんと笑って、私の杞憂を軽くいなしてくれた。
「そりゃあ幻夜には会社を継いでいくって言うお題目があったからじゃねーか。俺は根なし草みてぇなもんだったからよ、前々からムカつくあの国を飛び出したかったからさ、会社を首になったタイミングでここに来たんだ。それだけだよ」
「会社を、解雇……」
そんな話を組合長がしていたことを思い出した。その時は訊く事は叶わなかったが……。
「六花よ、あんたも日本が嫌いなのかい?」
「嫌いという程では……ただ今現在、橘製作所に漂う閉塞感のようなものを日本そのものに感じているだけです」
「閉塞感か。まるっきり俺の時と同じじゃねぇか」
「組合長の時と?」
「俺が幻夜の野郎をぶん殴って、会社も
組合長は私の正面にあった大きめの瓦礫の上に腰を下ろすと、缶コーヒーを一口含み、静かに口を開いた。
「……訊きたいかい?」
その問いが何を指しているのか、私にはすぐにわかった。
「……私はまだ貴方に勝っていないが、宜しいか?」
その話を訊くには、組合長と試合って私が勝たねばならない、と以前に組合長自身が言っていたが、組合長は真剣な顔で首を横に振った。
「話すべきなのかも知れねぇと思ってな。あんたにとっては受け入れがたい部分もあるかも知れねえ。だが、幻夜の事を考えたらな、これは必要な事なのかも知れねえと俺は思った。だから、敢えて話しておきたいんだよ」
問うようなその視線。それは私の覚悟を計っているのだろう。
それならば、私は正直に答えねばなるまい。
「……静馬さん。どうか話してほしい。それがたとえ私にとって拒絶に値するものであったとしても、あなたが私に必要な事だと考えるのならば是非。……もしかしたら、もう父から訊くことは叶わなくなるかもしれないんだ。だから……っ!」
組合長は確認する様に頷き、過去を紐解く語り部の如く、ゆっくりと語り始めた。
「今から30年前だ。橘は商売敵に嵌められて経営の危機に瀕してたんだ……が、その様子じゃ知らねぇようだな」
私の心の
余程分かりやすい
「……経営の危機……?」
初耳だった。橘製作所は創立以来、順調すぎるほどの成長を続けてきたというのは、最早社会常識ですらあるほどの「歴史」だったからだ。
「そうだ。あの頃の橘はシュライバーの利権をほぼ独占してたからな、儲けも多かったが敵も多かった。只の商売敵ならいざ知らず、中には
まだ法律も整備されてなかった時代だ。あれやこれやと難癖付けられ、まるで橘製作所がとんでもねぇ不正をしていたように告発されて、会社もそれを否定できなかったんだ。
まだまだ未熟だった法律の曲解と、世論の操作によってそれまでグレーゾーンでセーフだった仕事がいきなりレッドゾーンど真ん中になっちまったんだ」
「それで信用を失い、橘は経営難に陥った……と?」
「そうさ。仕事は減り、取引先からは煙たがられ、人がどんどん辞めていってなぁ」
「それで組合長も……」
「いいや。俺はそんなつまらねぇ事で辞めるつもりは毛頭無かったよ」
確かにそうだ。組合長は辞めたと言ったが、あくまでも
「あと一歩で会社は潰れるところだったが、そこに助け船が現れた。医療シュライバーを管轄する政府機関のお偉いさんだ。
そいつは橘の医療シュライバーに様々な便宜を図ってやるからそれで会社を立て直せ、だなんて甘い言葉で近寄ってきた。
もちろんそいつにも利益があるからそんなことを言ってきたんだが、折しもシュライバーの法整備……特に健康保険適用が本格的に議論されていた頃だ。そいつが言ってた便宜ってのはそれさ。橘のシュライバーを優先的に保険適用に回す……絵に描いたような不正だが、俺達に選択肢は無かったよ」
「では、そんな不正に嫌気が差し、父と反目し合ったと……」
「それも違うよ。俺がムカついたのはそこにあった裏取引さ……」
組合長が言い淀む。
「……」
その逡巡の理由を、私は知っていた。
だから、私はその続きを彼の代わりに語った。
「……その政府の高官は、橘の製品を優先的に保険適用にする代わりに自分の娘を橘に嫁がせる事を条件として提示した。橘を内部から政府の影響下に置こうと考えたから……」
私の言葉に組合長は目を見開き、驚きを隠そうとはしなかった。
「六花、まさか、知って……」
「
「なんてこった……」
組合長はそう呟いて天を仰ぎ、すぐに項垂れた。
「幻夜の野郎、何でもかんでも話しすぎだろ……」
「私もそう思います」
「しかも、その、なんていうか、隠し子の事まで……年頃の娘に聞かせる話じゃねぇだろうがよ」
「全くです。聞かされた時は取り乱して、父の頬を私の平手が何往復もしました」
私が往復ビンタの仕草をすると、組合長は露骨に眉を顰めた。
「ですが、それが橘製作所のためである事は分かっています。それに父も心から悩んで、悩み抜いた末の決断だったと言っていました。そして、その後押しをしてくれた親友がいた事も教えてくれました。真剣に何度も話し合って、話し合って、話し合った末、それでも迷いを捨てきれなかった父に、全力で拳を叩き込む事で最後の一押しをしてくれた親友がいたって……それは、あなただったんですね、組合長」
私が微笑むと、組合長は少し照れたように目を逸らして笑った。その笑みは、どこか自分で自分を笑う様な笑みだった。
「いやぁ、そんな殊勝なモンでもねえよ。俺はけじめをつけただけさ。自分にも幻夜にも、幻夜の恋人にも、その子供にも……俺は代表して一発くれてやったのさ。こっ
組合長は微笑み、腹の傷を摩った。
「……あとは腹が立ってたってのも正直あるわな。なんせ俺達2人はその恋人ってのを巡ってかなりやり合ったからな。そこまでして振り向かせた……いや、俺から奪ったあの
会社の為とはいえ、不正を承知でヤバい橋を渡ってた事も、恋人との将来を無碍にしちまった事も……あいつが先代社長から叩き込まれたとか抜かしてた博愛精神が笑わせらぁってなもんでよぉ。でも、かく言う俺も無関係じゃねえ。だからあれはけじめなんだ。俺にも、幻夜にもな」
以前もそうだったが、組合長はどこか楽しそうだ。
青春の頃を思い出し、在りし日に思いを馳せているのだろう。
「……その女性の名は、
私が呟くと、直ぐに甲高い金属音が鳴り響いた。
組合長が、手にしていた缶コーヒーを地面に落としたのだ。
組合長は缶コーヒーを落とした事など気にも留めず、呆然と私を見つめていた。
その様子で私は全てを察した。
間違いないと。
「やはりそうか。あの
私は目を閉じて沈思した。
様々な思いが胸に去来する。組合長の話は私の心にわだかまった謎に裏付けをくれたのだ。これで、全ての点が線で繋がった。
「ろ、六花、なんで
「いえ。以前、悪戯心で父の書斎に忍び込んだ時に古い写真立てを見つけたんです。その写真には若き日の父と同年代の男性と、とても美しい女性が3人で並んで写っていた。男性の胸の名札には『静馬宗一郎』。そして、女性の名札には『暮石千花』と……」
唖然としたままの組合長。何を言えば良いのか、思い当たる言葉が見当たらないと言った様子だった。
「
「六花」
組合長は突然立ち上がって、真剣な眼差しで私を見た。
「……六花、確かに幻夜には千花という恋人がいた。腹ん中にあいつの赤ん坊がいたのも事実だ。だが、幻夜の奴は決してお前の母親を……」
組合長が何を言わんとしているかは分かっている。
私も、それがわかる程度には子供ではない。
「大丈夫です。父と母はどんな事があっても私の父と母です。私は2人に愛されていた自負があります。父も母を愛していました。それは間違いありません。そして母も、父を心から愛していた事でしょう」
「……いた?」
「母は去年亡くなりました」
「……」
どさり。
そんな重たい音とともに、組合長は崩れる様に瓦礫に腰を落とし、目を閉じた。
彼が何を思うのか、私にはわからない。
ただ、彼がこれ以上何も語らなくなってしまう前に、1つだけ訊いておきたい、訊いておかなければならない事があった。
「組合長。千鶴さんは、私の事を……」
組合長は目を閉じたまま、その言葉を繋いだ。
「……知ってる筈だ。千花は死ぬ前に全部話すって言ってたからな。とは言え、俺も確かめたわけじゃねぇし、最期は口も利けない程弱っちまってたからな……」
「千花さんは何かご病気を?」
「あいつも癌だったよ」
「……」
私は言葉を失い、組合長もそのまま沈黙した。
恐らく、2人とも言葉が見当たらなかったのだ。
少なくとも私はそうだ。
いや、もはや言葉など必要なかった、と言った方が正しいだろう。
再び沈黙がその場を支配したが、それは直ぐに破られた。
シェルターの出入り口が開く音がし、銀一郎氏が戻ってきたのだ。
「取り込み中かい?」
銀一郎氏の問いに、私は小さく首を振って応えた。
「……もう話はお済みか?」
思ったより早く戻ってきた様に思われたのでそう問いかけると、銀一郎氏はどこか呆れた様な声色で答えた。
「近頃じゃあ何でもかんでもデータ、データだ。
「はは、確かに。……して、ハナの様子は如何か?」
「思ったより元気だったよ。顔見てきてやんな」
銀一郎氏はそう言うと、気の抜けてしまった様子の組合長に目配せをする様な仕草で「ちょっといいかい?」と低く呟いた。
組合長は我に帰る様にして頷くと、銀一郎氏はすたすたと歩き出してしまった。組合長は後を追う様にして立ち上がったが、直ぐに私に近寄り、小声で言った。
「六花よ、今の話はここだけの話にしたほうがいい。いや、してくれ。頼む」
組合長がそう言う理由は様々だろうが、私は聞き分け良く頷いて応えた。
「わかりました」
それを確認すると、組合長は銀一郎氏の後を追って闇へと消えていった。
私は組合長が落としたままだった缶コーヒーの空き缶を拾い上げ、シェルターへと向かった。
コーヒーで暖まった筈の体は、すっかり冷えきってしまっていた。
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