アイの時代

#34

 毎週金曜日は「家族の日」だ。


 普段パトリエで集団生活を営む市民の子が親と共に過ごす花の金曜日。


 授業の終わりを知らせるベルが鳴ったら、その途端に教室を飛び出して、自室に直行。準備万全のポーチを肩にかけ、チークが変じゃないか鏡でチェック。


 わくわくとした気分を抑えきれないまま、大玄関に到着したのは待ち合わせ時間の十五分前。


 大きな柱にもたれかかって、私と同じように浮かれた子どもたちが元気よく玄関から駆け出していく様を眺めながら、彼女を待つ。


「あらミィナ。待たせちゃったね」


 待ち人来たれり。五分前だから全然遅刻じゃないんだけれども。


「ねえ、ナツメは知ってる……」


 彼女の耳に先月私がプレゼントした花柄のイヤリングが光っているのが嬉しくて、あまのじゃくな私はそれを悟られぬよううんちくをひとつ披露することにした。


「昔はね、家族の日はこんなにおおっぴらで明るいものじゃなかったんだよ。親と会う予定のある子どもたちは互いに出くわさないようこっそりと出かけていたし、予定のない子は暇なのがバレないよう自室に閉じこもっていたの」


 大玄関から屋外に出て、運動場を走り回る子どもたちを指さす。


「あんな風に元気に外で遊ぶなんてとんでもないことだったんだよ」


「へえ、どうして」


 素直なナツメは小首をかしげ、尋ねる。


「子どもたちにとって親子愛の多寡は大事なものだったから。家族の日にどれだけ親から可愛がってもらってるかは愛を示す大事な指標だったの。愛が少なければ哀れみを、愛が多すぎれば妬みを招いていたの」


「変な時代だったんだね」


「ナツメはそう思う……」


「だってそうじゃない。ミィナだってさ担任受けがいいけどさ、それでミィナを嫌いになったりなんかしないよ」


「そう、ありがと」


「それを鼻にかけ出したら嫌だけれどね」


 まあミィナはそんな人じゃないからね、とにっこり笑みを浮かべるナツメに、


「気を付けるわ」


 と返しながら、こういうのが今どきの普通の考えなんだろうな、と思う。


 パトリエの正門前まで出て、覆現のマップを開くとちょうど近くに空の小型タクシーが走っていた。


「二人乗りのちっちゃいのだけどいいよね」


「うん。ちょっとでも安い方がいいわ」


 ナツメに確認を取ってコール。それから三〇秒も待たずに、私たちの前にタクシーが滑り込んだ。


 運転席に乗り込もうとすると、覆現が新着メッセージが届いたことを知らせた。


「ごめん、運転席座ってもらっていい」


「別に構わないよ」


 めったに起きない緊急事態に対応するためにクルクル回るハンドルを眺め続ける運転席に座るのは案外疲れるものだから、今日は私が座るつもりだったのだけれどこのメッセージはすぐに返した方がいい。


「もしかしてお母さんから」


 助手席に座ったとたん、宙で手をせわしなく動かし返信メッセージを送る私の様子を見て、ナツメが尋ねる。


「うん。来週はちゃんと会いに来てねって」


 本当はそんな一言じゃ収まりきらないぐらいの長文お気持ちメッセージだったのだけれど、私にも恥というものはある。


「愛されてますねー」


 変に語尾を上げてからかうナツメ。


「でもよく一回家族の日を飛ばすの認めてくれたわね」


「うん。お父さんがガツンと言ってくれて」


「尻に敷かれてるんじゃなかったっけ」


「パパは私の尻にも敷かれてるからさ」


 父はひとりじゃ母にぞっこんで、反対意見のひとつも言えやしないけれど、娘の私が本当に困っているときは、番組で論敵をコテンパンにしてる切れ者の父が現れてくれる。


 まあ、喧嘩するときだけ普段は自律AIで雑務処理に使っている体格のいいヒューマノイドに憑依するのはズルいと思うけれど。


 親の事を考えるのは後にしよう。


 車窓から街を眺めるけれど、街の景色は3Dプリンティング工法で作られた薄ピンク色の卵たちが延々と続くいつものつまらない景色。


 卵型の住宅が似通っているのはまだしも、その大きさもどれもこれも同じぐらいなのだから本当につまらない。


 ひとり暮らしか、せいぜいふたり暮らししか考えていない建物が延々と続く景色を眺めていると、私はいつもこの世界から家族というものは消滅してしまったんじゃないかと疑ってしまう。


「ナツメはさ、希望妊娠なのそれとも義務妊娠なの」


 かつて社会妊娠と呼びならわされていた、人口動態を保つための親の自発的希望なしで行われる義胎妊娠は、親の不在が子に与える影響を鑑みて廃止になり、いくらかの免税と共に親の役割を果たす大人が強制的に割り当てられる義務妊娠へと発展解消した。


 そして社会妊娠の対義語であった家族妊娠もいまや形骸化してしまった。


 私が産まれるちょっと前、家族妊娠で産まれ、不幸にも様々な障碍に悩まされている子どもたちが親を集団提訴するというセンセーショナルな事件が起きた。


 彼らの主張はこうだ。

 自分たちの親は、妊娠前の遺伝子検査と配偶子治療を受けないという不作為により、私たちに障碍を与えた。これは傷害罪に当たる、と。


 告発者の中には私の父も入っていた。


 この告訴は散々メディアで騒がれた後に不起訴処分となったのだけれども、それでも家族妊娠のただしさを毀損するには十分な衝撃を持っていた。


 遺伝の強要を訴えた告発に引き続いて、家族内で特定の政治宗教的信念を強要された事例、親の希望する職業に就くよう強いられた事例などなど。

 家族妊娠により被害を被ったとする訴えが相次ぎ、それまで善きものとして賛美され続けてきた親子愛の権力性、危うさに多くの人が注目するようになった。


 母胎妊娠や家族妊娠の禁止なんてそれまでは過激思想として一瞥もされなかったような意見が真面目に論議されるようになり、最終的にはパトリエ制度の利用の意志表示のオプトアウト方式の採択という形で落ち着いた。


 いまや、この国で生まれてくる子どもたちは、考慮の価値のある特別な理由がなければパトリエを家として育つことになった。子どもたちは幼少期のほとんどをパトリエで過ごし、親と過ごすのは家族の日だけ。


 もちろんそれでも家族という概念の消滅には程遠く、パトリエの度重なる勧告をはねのけ、強い意志で母胎妊娠や両親の元での子の養育を行う人々もいるのだけれど、かつてのように個人の意志のみで行われる懐妊・育児が善きものとして賛美される時代は終わった。


「さあ。聞いたことないや。どっちでもよくない」


 かなりセンシティブな問いだったと思ったのに、ナツメの反応はあっさり。


「親は親、子は子でしょ」


「親があっても、子が育つってやつね」


「逆じゃないの」


「そう言った作家がいたのよ。坂口安吾よ」


 私の衒学的なひけらかしにナツメは興味なさげにふーん、と相槌を打って、ミィナは物知りなんだね、といつもと変わらない感想をぼんやりと呟いた。


 ナツメの実家は、街はずれにあるパトリエからさらに郊外。大昔に住宅事情がひっ迫していた頃に山肌を削って造られた住宅街にあった。


 街中のコピーアンドペーストしたような卵の群れとは違って、この住宅街の建物はバリエーションが多彩だった。

 ひとり暮らし用の小さな卵もあれば、それよりも大きなダチョウの卵もあるし、昔ながらのツーバイフォー工法で造られた角々とした家もある。


 タクシーは、そんな昔のアニメに出てきそうな角ばった赤い屋根の家の前に停車し、私たちを吐き出す。


 勝手知ったる我が家とばかりに、ナツメが玄関まで小走りで駆け寄り、勢いよくドアを開けようとするけれど開かない。


「ああ、ミィナがいるからか」


 家族として登録されている人物以外が近くにいるから、ドアの開錠には屋内にいる人物の承認が必要だ。


「カエデー。開けてー」


 覆現で母親を呼び出すナツメ。


 玄関が開くと、そこにはナツメの二〇年後の予想図そのものみたいな、可愛い丸顔の女性が立っていた。


「ミィナさん。お久しぶり」


 カエデに促され、家の中へと入る。


「じゃあ、相談終わったら一緒に遊ぼうね」


 靴を脱ぎ散らかし、一足先に家に上がったナツメがそう言い残してリビングへと姿を消す。


「もうあの子は」


 ナツメが脱ぎ散らかした靴を文句を言いながらカエデが整頓し、


「おばあちゃんなら書斎にいるわ」


 と書斎まで案内してくれる。


「大きな家ですね」


 よその家庭にお邪魔するのは初めてだったけれど、私の実家よりもナツメの実家はずいぶんと広かった。


「ん。たしかに今どきは、こんな三世代住宅は少ないわよね」


 今どきの子には珍しいわよね、とぼやくカエデの様子を見て、ナツメは興味も持たなかったけれど希望妊娠なんだろうなと確信する。


「じゃあ、ごゆっくり」


 書斎の重厚な扉を開いて、カエデが中に入るよういざなう。


「失礼します」


 自分でナツメに頼んだ相談だったけれど、いざ彼女に会うとなると怖気ついてしまう。


 恐る恐る書斎の中へと足を踏み入れると、壁一面の本棚に囲まれて、机に座るナツメの祖母、ノゾミがいた。


 街の図書館でしか見たことのないぐらい分厚い紙の本を書見台に立てかけ、金縁の老眼鏡から真剣なまなざしを見せる彼女の美しさに私は思わず見とれてしまった。


「あら、いらっしゃい。ごめんなさいね、今片付けるから」


 不躾にも無言で自分を眺める子どもの存在に気付いた彼女は、机の上に無造作に置かれた本の山を慌てながら片付ける。


「すごいたくさんの本ですね」


「私の父、ナツメから見たらひいおじいちゃんね、は研究者でね。ほら、この本もそうよ」


 本の山を平行移動させながら、書見台に置かれた本の背表紙を見せるノゾミ。そこには住吉ミチルの名があった。


「なにか書かれているんですか」


「私たちの活動をまとめておこうと思ってね」


「ナチュラル・フェミニズム運動の、ですか」


 私の疑問に彼女は老眼鏡を外し、恥ずかしそうに、


「もしかして調べてきたの」


 と尋ねた。


「はい。リアル・ディベートの討論とか。すごく興味深かったです」


「いや、生意気な小娘だったでしょ」


 本心からの言葉だったのに、彼女はかつての恥を暴露されたように顔を火照らせ、手で仰ぐ。


「ノゾミさんが危惧してた通り、家族は変質してしまいました。貴方のように世帯を共にする人々も珍しくなって、このまま家族というものは消滅してしまうのでしょうか」


 ああ、天気の話とか、もっとありきたりな話題から話を始めるつもりだったのに、思想家然とした彼女の様を前に、小難しい話をいきなり始めてしまった。


 彼女は気を取り直すように顔を揉んで真面目な表情を作ってから、私の質問に答える。


「家族はね。ふたつの要素に分けられると思うの」


「ふたつ、ですか」


「親子愛と恋愛。親と子の間に育まれる愛情と肉欲を伴う愛情。愛の縦の糸と横の糸が重なり合って家族という織物が織られる」


 父の告発によって変化したのは親子の在り方だ。


「親子愛は変わっても恋愛の在り方は変わらない、ってことですか」


 私が尋ねると、彼女はこらえきれないようにふふっと笑った。


「いやごめんね。昔、似たような話をあの人としたと思って」


「あの人」


「小娘だったんでしょうね。いくら男の人に声を掛けられたって上手くなるのは振り方だけで、中身の方を見抜く力なんてこれっぽっちも育ってなかった」


 昔、悪い男に引っ掛かったって話だろうか。


 過去の失敗話だろうに、指を組んで語る彼女の声色はなんだか楽しそうで、その薬指にもみじの意匠が入った指輪がきらりと輝くのが見えた。


「かつて性淘汰が遺伝子の選別に大事な役割を果たしていた時代、恋愛はとても重要なものだった。男にとっても女にとっても。妻の貞節に無頓着な男性は種違いの我が子を育てる羽目になって遺伝的に淘汰されただろうし、夫の忠誠に無関心な女性は自分と我が子を庇護してくれない浮気男に騙される羽目になった。淘汰されぬよう十五万年もの長きにわたって選別を受け続けて、嫉妬深く、束縛的な愛の形が作られていった」


 私たちは愛を神聖にして不可侵なもの、なにものにも束縛されず、いつまでも朽ちることのない誠の愛、真実の愛があるに違いないと願うけれども、結局愛も他すべての感情と同じく進化の必要上から発生した情動に過ぎない。


「今は違う。性愛は遺伝子の選別の必須条件ではなくなった。義務妊娠ではより社会貢献性の高い人間に割り当てが配分される仕組みが構築されているし、希望妊娠もそれほど露骨じゃないけれども一定以上の社会貢献性がなければ諸々の補助制度へのアクセスを絶たれている」


 かつて孔雀の尾のように煌びやかで遺伝子淘汰の鋭利な大鎌となっていた愛は性淘汰という役目を奪われ、レムナントと化した。


「不必要になった愛は消え去ってしまう、と」


 私の言葉を、彼女はゆっくりと首を横に振って否定した。


「今日明日にそうなるわけじゃないわ。私たちのDNAにだって、何の役割も持たないジャンクDNAが混ざりこんでいる。不要なモノがすぐに壊されるわけじゃない」


 トマソンよ、と彼女が付け加える。


 かつて何かの目的に要されていたけれど、周囲の改築などでその目的を失い、ただ存在するだけになった無用の長物。


 朽ちた廃墟にぽつんと佇むドア。

 虚空に向かって伸びる階段。


 意味もなく、今すぐ消滅したって、なにも困らないけれども、だからこそ美しき超芸術。


「見ようを変えれば、性淘汰や人口再生産なんてつまらない役割から解き放たれて、多様性のある恋愛の時代がくるのかもしれないわ」


 本当にそんな時代がくるのだろうか。一〇年後の自分の姿すら想像できない私には到底思い描くこともできない夢物語だ。


「じゃあ親子愛の方はどうなるんですか」


「かつてよりは薄いものになってはいるんでしょうね。もはや私たちは我が子の生存に全責任を負う義務を失ったのだから」


「なくなりはしない、と」


 私が念押しする様に問うと、彼女は安楽椅子に深く背を預け、吟ずるように言葉を紡いだ。


「中世の頃まではね、子どもという概念は存在しなかったんだって。高すぎる乳幼児死亡率によって、子どもは死んでしまっても仕方のない儚い存在としか見なされていなかったし、幼児期を過ぎれば小さな大人として丁稚奉公に出されていた。近代化によって乳幼児死亡率が低下し、長い教育期間が求められるようになるにつれ、保護、愛情、教育の対象としての子どもが誕生した。現代でもこの傾向は続いているのだから子どもは依然として親の愛の対象になると私は思っているわ」


「でも今の子どもたちはみんな義胎で生まれています」


「かつて出産が命の危険を伴っていた時代だって嬰児殺しは平気で行われていたわ」


「それに私たちはみな幼少期のほとんどをパトリエで暮らしています」


「パトリエは結局学校が肥大したものよ。家族の代わりにはなり得ないわ」


 そう言われたらそのような気もするけれど、母が考える未来像とは全く違う考えだ。

 しばらく黙り込んで考えていると、ノゾミは私の顔をじっと見つめて遠慮がちにそっと口を開いた。


「ミィナさんが聞きたいのは、もっと具体的な話なんじゃないの」


 年の功というものは恐ろしい。

 内心を見抜かれ、私は驚きを隠せなかった。


「どんなことでも聞いてちょうだい。怒ったりなんかしないから」


 彼女に促され、恐る恐る口を開く。


「えっと、自分で子どもを産んだのって本当ですか」


 そう。この質問こそ私が本当に尋ねたかったこと。


 ナツメから私のおばあちゃんは出産したんだ、って聞いて彼女に会わせてほしいと頼み込んだのだ。


 けれども自分がどう産んだかなんてあまりにプライベートな話だ。


 思い切って尋ねてしまったけれど、怒声が返ってきたらどうしよう。


「ええ、本当よ」


 目を瞑り返答をじっと身を固くして待ったけれど、ノゾミの答えはあっさりと、拍子抜けするものだった。


「えっと、私も親から産まれたんです。珍しいと思うんですけれど。で、自分で産んだ人に言うのも悪いんですけれど」


「気にしないわ」


「なんとなく居心地が悪いんです。粘っこいというか、気持ちが悪いっていうか」


 この言い方じゃ片手落ちだ。私は一度口を閉じて、考えを整理してから再び話し出す。


「もちろんお母さんが私のことを愛してくれているのは分かるんです。お父さんも」


 家族の日は欠かさないし、週末みんなでどこかに旅行に行くことも、みんなで色んな記念日を祝うことだって。


「お母さんはたまに、『未来には愛なんて消えてなくなってしまう』って言うんです。私たちは自由の煌めきに耐えられない。永遠の愛の誓いも親子の血の繋がりも、煩わしい束縛に成り下がってしまうって」


 初めて彼女にそう言われたのは、私の六歳の誕生日。


 パスタとピザが食べ放題のバイキングにみんなで行って、サプライズの誕生日ケーキをお腹いっぱい食べて、幸せいっぱいの帰り道。


 暗い夜道を、ふたりに両手を繋がれてブラブラとブランコしながら歩いていると、彼女が不意にそうつぶやいたのだ。


 なんでこんな幸せな日に、この人はこんなことを言うのだろうと私は不思議に思って、


「じゃあなんでこの人は私にこんなに良くしてくれるんだろう、なんで私を産んだんだろうって思うと、なんだか不安に思えてきて」


 ノゾミは私の途切れ途切れの説明をじっと黙って聞き込んで、それからゆっくりと口を開いた。


「貴方のお母さんは、愛がふとした瞬間に消えてしまうことが恐ろしいんじゃないのかな」


「恐ろしい」


「はるか未来でなくたって、いつだって愛は刹那的なものよ。愛以外の他すべての情動と一緒で。神に誓おうと、家と家のしがらみがあっても、かすがいとなる子どもがいたって。だれしもが愛の永続を願うのに、何かの拍子に蜃気楼のように消えてしまう」


「ノゾミさんも、愛が消えてしまうって怖い時があるんですか」


 尋ねると、彼女は微笑を漏らし、


「愛とは配慮、責任、尊重、知である」


 と言った。


「誰の言葉ですか」


「エーリッヒ・フロム。昔、初めて付き合った人と破局した後に読んでね。すごいしっくり来たから今でも覚えているの」


 過去の大失敗を振り返るノゾミの苦々しい笑みは、彼女がその失恋で負った傷の広さを示すようだった。


「私にとっては責任を負うってのが一番大事だったの。愛は責任だと思っていた。だから、愛する人の子を自分の身体で責任を持って産むことが、愛だと思っていた」


「そうではない……」


「それだけじゃなかった」


 はっきりと、大きな声で、ノゾミは言う。


「あれをしたから、これをしたら、確かな愛が手に入る。そんなことはなかった。朽ちない愛の証を求めれば求めるほど、目の前の現実から壊れれていく。若かったと言えばそれまでのことだけれども」


 確信を持って過去を総括する彼女の姿は、その傷の上に再生した皮膚の分厚さを物語るようだった。


「貴方のお母さんも同じなんじゃないかな。今の幸せ、今の愛がこれからも続くか不安で、だから未来にはすべて消えてしまうって、あの葡萄は酸っぱい葡萄だって強がろうとしている」


 毎日送られてくるしつこいメッセージのやりとり。実家でゆっくりする私を見つめるまなざし。誕生日ごとに送られてくるメッセージムービー。


「そうかもしれません」


 暖かくも湿っぽい母の愛情の数々を思い起こし、その通りなのかもしれないと思った。


「だからね、今度、お母さんがそんな不安を口にしたら、こう言い返してやればいいの。『でも今、私は愛しているよ』ってね」


 愛に悩む私にそう説く彼女の姿はまるで吟遊詩人。


 諸行無常の響きあり、と愛を語る琵琶法師。


 刹那の愛を永遠に語り継ぐ、桂冠詩人。


 彼女の言葉を頭の中で反芻して、余韻に浸っていると私の耳元が震えた。


「ナツメからのメッセージ、かな」


「ええ。早くおやつ食べようって」


 友達の実家に泊まるなんて初めての体験で、彼女はずいぶん楽しみにしてくれていた。


 もちろん私も楽しみだ。


「じゃあ私もご一緒させていただきましょう」


 ノゾミは安楽椅子から立ち上がり、背伸びをする。


「もしよかったら今度はご両親と一緒においでね」


 彼女の誘いに、ええ、と肯定の言葉を返し、そういえばまだ聞いてなかったことがあったと思い至る。


「ノゾミさんは、子どもを産んで幸せでしたか」


 これまで私の心中なんてまったくお見通しだった彼女が、まるでそんな質問されたのは人生で初よ、と言わんばかりの驚きの表情を見せた。


 初めての恋に溺れる少女のような恥じらいと幾多の破局を経た淑女のような渋い悲しみが入り交じった、はにかみと共に、彼女は答えた。


「とても幸せよ」

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新世界まであと何歩 はにかみいちご @hanikami_ichigo

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