不時着したタイムマシン

@t-kuro

第1話

 また兄の夢をみていた。

 ハンドルを握りながらなぜか涙を流している。感情が別の生き物のように支配されていた。

 理由なんてない。いや、何もないことが悲しいのだ。社会に出て、器用に上手く人の思うことを具現化する。いつのまにかその器用さに疲れてしまったのだ。

 子供の頃から親の顔色を見ることが得意だった。会社の上司なんて両親に比べたら随分わかりやすくてすぐに評価を得ることができた。周りに敵もなく皆に認められた。美しい恋人もいて、順風満帆の人生だ。両親とも適度の距離を保てている。


 大丈夫だ。きっとこのままでいい。

 誰もがうらやむ人生のはずなのに当人がこんなにも虚しいなんておかしい。いい車に乗っても、いいスーツを着ても何も感じない。何万円もするディナーを食べても感動ももうしない。むしろ子供の頃、両親に連れて行ってもらった近くの安い定食屋のハンバーグの味が忘れられない。


 その定食屋は母が女将さんとPTAの関係で仲が悪くなり、それから連れて行ってもらえなくなった。本当はまた行きたかったが我慢した。定食屋の子は同級生で仲良しだったが、その子とも口を聞いてはいけないと言われた。友達は進学校にいく子供だけになった。


 ブレーキペダルをゆっくりと踏み込む。向かいから大型トラックが迫って来る。ヘッドライトに照らされた瞬間、ブレーキペダルから足が離れた。赤信号の光に包まれながら、ヤバいと足に力を込めた。車体はそれでも前に進んだ。見ると大型トラックの運転手は半分寝ている。身体が言うことを聞かない。

 だめだ。行っちゃだめだ。

 止めようとする意思に関係なく車は前に進んだ。フロントガラスが蜘蛛の巣みたいに白く広がって同時に全身が吹き出すように熱くなった。

 

 実際にその場にいたわけでもないのに、細やかに兄の最期の瞬間を中園イツキは夢に見ることがあった。まるで自分が体験したかのようにリアルな夢だった。汗をかいていた。

 

 イツキの兄が自殺したのは、イツキが高校二年の冬だった。年が離れていた兄は一流の有名法科大学を卒業し弁護士になった。中園一族の中で一番の出世頭となり一家の自慢だった。

 イツキにとっても兄の存在が自慢だった。会ったことはないが美しい人と結婚の約束もしていたそうだ。いわゆる華々しいエリート人生だ。だが、運転していた車でトラックに突っ込みあっけなく死んでしまった。目撃者によると赤信号で止まっていたのにトラックが来ると急に進みだしたらしい。


 ゆっくりと息を吐き出す。窓の外はまだ薄暗い。もう数分で朝焼けに滲んでいくだろう一等星がひとつ寂しそうに瞬いていた。

 兄の気持ちはわからないでもない。共感するところはある。だが、イツキは自殺なんて大それた選択に迫られたことはない。むしろ兄の自殺からいい会社に入社して兄に負けないくらいばりばり働いてきた。給料も悪くない。それでもまだ兄の夢を見る。もう十年以上経っているというのに。

 もちろん人生において死にたいくらい後悔していることはある。

 大学時代のことだ。その当時付き合っていた人が忘れられなかった。石橋雪奈という誰よりも心の痛みを知っている人だった。向日葵のようによく笑った。

 初めて兄のことや家族の不遇を話せた人だった。雪奈も両親の離婚を経験しており、悲しみを受け止める懐の深さも持ち合わせていた。受け入れてもらえたことで心の拠り所となった。


 兄のことを思い出すと同時に雪奈のことも思い出す。雪奈と別れてからまた兄のことは忘れようと心の底に沈め蓋をした。それからもう誰にも家族の話はしていない。誰かを好きになったこともない。思い出せばいまだに胸が苦しくなる。雪奈と別れたことから目を背けるために環境を変え、自分を変えようとした。

 吐いた大きなため息が震えていて、身体が震えていることがわかる。この夢の後はまるで体が自分のものではないかのようだ。手をグーパーと握り直してみる。汗をかいたせいかやけに肌つやがいい。視線をずらすとあたりの状況の違和感に気が付いた。

「ん?」

 混乱と同時に怒鳴り声が天井を響きわたる。

「イツキ。あんた遅刻するよ」

 いつかの母の声が響きわたり、憂鬱な朝を思い出させた。薄暗くて見えないがシャツと黒い服のワンセットがイスにかけられたままある。なぜか実家で朝を迎えていた。

 扉を開けた母が機嫌悪そうに言った。

「起きてるじゃない。はやく着替えなさい」

「か、母さん?ここは実家か」

 朝が弱い低血圧人間なら皆わかるだろう。時間のない朝にいらだつ母親と、めまいのする頭との対決。母は狼狽し、頭を抱えた。

「イツキ。あんたまた訳の分からないことを言い出して……」

「俺ずっと仕事忙しくて全然実家に帰れてなかった訳だけど」

 母がものすごい剣幕をしたのでわけもわからぬまま目の前にあったパンツとシャツに着替え、ジャケットと鞄を掴み、家を飛び出した。混乱したまま事態は止まらない。振り返り玄関を見ても確かにイツキの実家だった。何年振りだろう。大嫌いだった大阪の故郷にいた。きしむ門を抜ける。冷たい渇いた風が頬をすり抜けた。身震いをして母が用意していたのだろうこのやけに汗臭い上着の袖を通す。

 家から歩いて二分のバス停が見えた。

 よくここから高校に通っていた。崩れかけのフェンスや、手入れのされていない鉢植えはいまだに変わらずある。雨に打たれた誰も座らないボロボロのソファもそのままだ。幼いころからあって、一体誰が捨てたのかもう何年もそこに居座っている。その周りをうろついていると懐かしい車両が流れ込んできた。

「君、はやく乗って」

 バスの運転手が半ば強引にイツキを乗せる。上から目線の態度に少しイラついた。まあいい。とりあえずガラガラの席に着くと薄暗い車両の中スマホを探した。どうやら忘れてきてしまったらしい。

「はあーこんな時に限って」

 もう実家には何年も帰ってきていない筈だ。なぜ大阪の実家で眠っていたのか。

「つかれてんのかなー。働きすぎだな」

 昨日の記憶も思い出せぬままバスはイツキの母校の前に着いた。いつのまにか学生で車内はごった返しておりぞろぞろと気怠そうに生徒たちが降りていく。

「君も!はやく降りて。何してるの」

 運転手が苛立ってがなり立てた。視線はイツキを捉えている。

「俺に言ってます?」

「そうだよ。ほら。定期券ちゃんと見せて」

 サイドブレーキをかけた運転手が目の前に立ち、イツキは戸惑った。

「定期券だよ。忘れたの?」

「ああ。定期ね」

 定期は鞄の外ポケットにあった。

「あれ。ピッてするところどこ?」

「はい?」

「いや、ICカードの」

「こんな田舎で何わけのわからないこと言ってるの君。いいから、定期をみせて。はいはい。ご乗車ありがとうございました」

 やけに焦るイツキを周りの高校生やバスの運転手が白い目で見る。その視線が痛い。


 イツキの通う高校は兄と同じで大阪の有名進学校だった。朝の登校時間も朝勉という決まりで、ほかの学校よりも随分早い。イツキにとって大嫌いだったこの高校は思い出したくもない過去だった。

 見上げると丘の上にある部室棟がみえた。

「あれはなつかしいなー」

 部室にだけは自然と足が向いた。溢れ出すような甘酸っぱを懐かしさと呼ぶのだろうか。職員に見つかっても卒業生であるし大丈夫だろう。周りの高校生たちに続き歩いてみることにした。意外にも怪しまれることはなかった。運動場の奥まで進んだ。

 部室の扉が半開きとなっている。イツキが所属していたこのソフトテニス部はかなり規律が緩く練習もほぼ自由参加だった。

 この当時、面川という唯一の親友と思えた後輩がいた。その彼とももう何年も会っていない。

 ドアノブに手をかけ、中を覗いた。

「え、そんなバカな」

 まるで時が止まっているようだ。この部室は、イツキの青春時代そのままだった。

 二〇〇八年十一月winterとカレンダーには書かれていた。固まっていると後ろから声をかけられた。

「イツキ先輩なにやってんすか?遅刻しますよ」

 振り返るとその光景に目を疑った。後輩の面川だ。高校時代の親友である。卒業以来の再会である筈だが、面川はどう見ても高校生のままだった。

「お前、面川か?」

 語尾が震えた。顔も見ぬまま面川は飄々と鞄を漁っている。

「何をいまさら。前に借りてたCD持ってきましたけど」

 イツキの顔を見た瞬間身を引いた。

「どうかしたんすか?顔色がすこぶる悪いですよ」

 よっぽど現実を信じられなかったせいかヒドイ顔をしていたらしい。

「ああ悪い。あの俺今日授業サボるわ。ここで休んでく」

「いいんすか?保健室とかいかなくて」

「いや。大丈夫だから」

「じゃあ自分もう行きますよ?ほんとにいいんですね?」

 とにかくひとりになって頭を整理したかった。持ち物は財布とカバンだけである。財布も、カバンも捨てたはずの高校のものだ。中身はノートと教科書、筆箱、タバコにライターがあった。窓をあけ一服することにした。

「このライター覚えてる」

 鞄にあったジッポーには見覚えがあった。

 ポールスミスのライターで赤と黒の流線模様のジッポーである。随分長く使っていたと思うが、いつの間にか失くしてしまっていた。その失くしたということ自体も忘れていたことに寂しさを感じた。

 鏡を探した。ナルシストの面川の棚にあった。本人に言ったらいつも傷ついた顔をするが面川はそんなことで凹みはしない。あまりくよくよしない性格はほんとにうらやましい。

 鏡の中にいたのは髪も長く幼い自分だった。顔を触ってみて次に着ている服にハッとする。なるほど。母親が用意した汗臭い服は学ランだったのか。道理で誰も怪しんでこないわけだ。

「これってまさか……タイムスリップ?」

 ベタに頬をつまんでいると教師がスゴい形相で飛び込んできた。

 ノックもせずに誰だ。と呑気に構えていた。

「おまえ授業サボって朝の一服とはいい度胸だな」

 なぜ怒られているのか理解できなかった。たしか彼は生活指導の若い教師だったはずだ。

「ああ。たしかえーっと」

「なんだ。言い訳があるなら言ってみろ」

「名前何でしたっけ」

「なに?」

 怒りに震えている教師に動揺する。

「そうか。俺が未成年だからか」

「貴様!」

 その瞬間、堪忍袋の緒が切れただろう、教師が飛びかかってきた。

「勘弁してくれよ」

 とっさに窓から飛び出す。

「イツキ!中園イツキ!待て」

 遠くから聞こえる声を背にそのまま部室を後にした。これは夢なんかじゃない。どっきりにしては出来過ぎだ。小高い坂の上にある高校を抜け、そのまま学外へ出た。


 生活指導の教師から逃げ出し、そのまま歩いて二十分くらいの中心街へ来た。道中の景色を眺めていると状況が少しずつ飲み込めてきた。

 潰れたはずの駄菓子屋や、マンションの建つ予定の空地がまだある。タスポ不要の自販機に、まだ自動改札になっていない無人駅も懐かしい。すれ違う人々の手元にスマホはほとんど見当たらない。

 ここ十数年で世の中は随分便利になった。無駄なものはどんどん排除され、合理的に世界は再構築されていく。

 タバコのことは親にもすぐに伝わるだろう。学校にももう戻れない。

 そもそもなんでこんな中途半端な時代にタイムスリップしたのだろう。

 いつか見た映画では、タイムマシンに乗って過去で事件を未然に防いだり、誰かの死を救ったりしていた。

「これじゃあ、まるで不時着だな」

 途方に暮れていると後ろからなにやら騒ぎが聴こえてきた。

「おい。ミオ。待てよ」

 よからぬ雰囲気の男女がもめ、男が女の腕を掴んでがなり立てていた。

 ミオと呼ばれた女は芸能人みたいな鼻筋が通った美人だった。

「なんで俺たち急に別れなきゃいけないんだよ」

「前も話したじゃない。私気付いたの」

「なにを」

「あなたといると私死んじゃう。お終いにして」

「ふざけんな」

「忘れられない人がいるの。言ったでしょ」

「それはわかってるつもりだよ。それでも俺は」

「ごめんね。やっぱり無理。気付いたのよ。もうごまかしきれないって」

「なんだよそれ。納得できねえ」

 男がミオの肩を突き飛ばした。か細い彼女の体はコンクリートに伏せた。体が先に動いてしまった。

「おい」

「なんだよ、クソガキ。口挟むな」

 俺こいつより本当は年上なのにな。そう思いながらも冷静を装い、事態を治めようとした。

「そんな大声出してたら、通報されますよ」

「関係ねぇよ」

 そう言う男に思わず語気を強めて言った。

「フラレて暴力ふるうなんて男として情けないな」

 言い切った瞬間、頬を拳で打ち抜かれた。アスファルトに倒れ込む。世界がグルグル回って星がキラキラ光っている。三十路過ぎて殴られるなんてちょっと落ち込む。いや、けど体は高校生なわけで。そもそも、本当に高校生なのか?思考もぐるぐる回る。

 興奮した男の大声に人だかりができ始めた。視線に気付いたその男は、そのままうつむき去っていった。きっと見た目が高校生じゃなかったらこうはならなかっただろう。ミオが駆け寄ってくる。

「ねえ。ごめんね。大丈夫?」

「大丈夫す」

「手当しなきゃ。どこかないかな」

 ミオがあたりを見渡しているとやけに強い視線を向けているおじさんがいた。

「うちの店使って」

 渋い髭をたくわえた喫茶店のマスターが扉を開けて待っていた。ミオに肩をかつがれ中に入る。女の人のいい匂いがした。


 灯油ストーブのにおいが落ち着く店内は大正モダンを感じる佇まいだ。

 手際よく擦りむいた傷をミオに消毒される。

 ミオは部屋着みたいなくたびれたTシャツとデニムジーンズという出で立ちなのにどこか気品があった。年齢は二十二、二十三くらいの高校生のイツキよりは大人で、ホントのイツキよりは年下にみえた。

 絆創膏を貼りながらミオはぽつぽつと語り始めた。

「彼ボクサーなの」

 そりゃあいいパンチを持っているわけだ。きっといつか未練タラタラ級のチャンピオンになるだろう。だが、その階級ならイツキも負けていない。リングの上での変な妄想を膨らませているイツキを無視してミオは続けた。

「付き合っていた人でね。根はやさしい人なんだけど、先別れようって言ったんだ」

 たまらなくいい匂いがしてきた。マスターが何か作っている。ミオは続けた。

「まさか君に助けてもらう日が来るなんてね」

「え?」

「ううん。なんでもないわ。お姉さんお礼に奢るからしっかり食べなさい」

「マジすか。あざす」

 他に客はなく、マスターはイツキと目が合うと不気味に微笑んだ。そのままナポリタンが出てきた。

「大盛りサービス」

 マスターが鼻を膨らませてそう言った。

「え、ありがとうございます」

 マスターの言葉に甘え、イツキは大盛りを思い切り頬張った。ミオが微笑む。

 何がなんだかわからないが腹は減るらしい。やたらおいしく感じた。

 たばこのせいだろうか。高校の頃はまだそこまでニコチンに依存してはいなかった。空腹感と、美味にとりあえず生きているのだと実感した。

「それにしてもこんな時間に君、学校はどうしたの」

 ナポリタンが美味し過ぎて油断していた。的を射た質問に動揺を隠せない。

「なんでこんなところにいるの。学生はちゃんと学校に行きなさい」

 半笑いでミオは言った。

「今日は休校日なんで」

 その時はそう嘘をついてさっさと切り抜けようと目を逸らした。だが、ふと確かめてみたいと思った。

「あの……」

「ん?」

「今は西暦何年でしょう?」

 ミオは顔をしかめた。

「頭打ったせいかな。病院やっぱりいく?」

「いやいや、そうじゃないんです。一応の確認的な?」

「一応の確認ってなに」

 それからずっと三十分くらいミオは笑っていた。頭大丈夫?とか、やっぱり記憶飛んじゃった?とか楽しそうにおどけた。

 ただわかったのは、ここは間違いなく過去の大阪だ。

 今は高校三年生で、まだ彼女いない歴イコール年齢の童貞だってことだ。自動車免許も企業の内定も、恋人もなかった。

 考え込むイツキに話を変えようとミオは自分のことを話し始めた。

 仕事は看護師をしていて、夜勤明けに別れ話をしていたとのこと。気取らない快活とした性格をしていた。何気なくイツキが煙草に火をつけようとしたその時だった。

「イツキ君。そのライターは」

 急にミオが深刻そうに眉をひそめた。まるで何かいけないものを使っているような気がした。

「えっ。これ?どうかしましたか」

「ううん。それ……素敵ね」

「安物ですよ」

 なんとなく謙遜した。イツキの実家にあるようなものなんて大体高価なものはない。

「それ結構高いのよ」

 ミオが不服そうに眉をしかめた。まるで彼女が買ったものみたいな物言いだ。

「なんでミオさんが怒るの」

 表情を変えぬままずっと見つめてくる圧が怖い。思わず質問を飲み込んだ。

「た、確かにブランド物だしな。大事にしますよ」

「うん。それでよし。てか、まずあなた未成年でしょ」

「あっ。また忘れてた」

 ミオは仰け反って笑った。


 コーヒーを飲み終えると予定があるからとミオは席を立った。連絡先のメモをイツキに渡した。

「楽しかった。今日はありがと。また何か聞きたいことがあったら連絡して」

 そう言い残し去って行った。どこかその背中は楽しそうで、少しだけ前向きな気持ちになれた。なんとなく気付いたらいつもの自分に戻るような気もしていた。なんとかなると楽観視していた。


 学校が終わるころに店外の公衆電話から面川にかけてみる。

 面川の番号はノートのメモ欄に書いてあった。携帯なんて高校には持っていけないのでなんでもよくメモしたものだ。

「もしもし。俺だよ」

「イツキ先輩。携帯どうしたんすか?あっ部室カギ開いたままでしたよ。気を付けてくださいねー」

 タバコの件を面川は知らないみたいだ。やけに能天気である。ウワサ好きの彼が知らないとはおかしい。

「ちょっと今から職員室で生活指導のなんとかって教師の様子見てこいよ」

「えー僕まで先輩といて目つけられてるんすよ。怖いすよー村下でしょ」

 確かそんな名前だった。一年の時から髪が長いと睨まれていた。

「てか、先輩のクラスの担任でしょ。なにとぼけちゃってるんです?」

「えっ。マジで!そうだっけ。そういえば最後の年はあいつ担任だったか。最悪だ」

「へ?」

「うん?」

「先輩なんか変ですよ。大丈夫ですか?」

「あ、ああ。大丈夫だ」

 電話越しの沈黙が不審感を物語る。

「冗談に決まってんだろ」

「冗談すか」

「おう。冗談だ。気にすんな。とにかく行け!」

「は、はい」

 電話の向こうで面川が走り出した。三十分後、折り返し面川へコールする。

「もしもし」

「もしもし、村下先生なんも言ってなかったすよ。ただ機嫌は相当悪かったですね」

「そっか。ふーんまあいいや。サンキュー」

「もしかして先輩ついに先生と、もめちゃいましたか?」

「そんなわけ無いだろ。ちょっと気になっただけだよ。切るぞ」

「あっ。ちょっと先輩……」

 どうやら村下はタバコのことは黙っているらしい。一体どういうことだろう。他に行く場所もない。イツキは実家に帰ってみることにした。


 帰りのバスに乗り込み帰り道の景色を窓から眺める。景色はまた違って見える。なんだか懐かしさとか、郷愁の念を感じた。少しは気持ちが落ち着いてきているのかもしれない。

 実家に着き、恐る恐る居間のドアを開けて母に声をかける。母が何かのカタログに目を落としていた。

「ただいま」

「イツキ。またあんた学校いかなかったの?先生から電話あったよ」

 帰った早々に母は言った。父はそこにいなかった。

 この頃の母は、随分疲れ果てていた。薄暗い居間から覗いた横顔にはまるで生気がない。どうやらタバコはバレなかったが授業をサボったことは伝わっているらしい。

「もう。お兄ちゃんに怒られるよ。司法試験に一発で受かるくらい真面目な子だったからね」

 いつもこれだ。何かあれば兄と比較対象にされる。

 子供の頃、イツキは背も低くて内気で、優秀で有名な兄と比べられいじめられることも多かった。近所の子達かは石を投げられたりもした。

 一度だけ本当に石が当たった。付き合っていた彼女とデート中だったのか、偶然にも兄が通りかかった。

「なにやってんだお前ら!」

 兄ががなり立てる。同級生たちは尻餅をついて逃げ出した。

 その石をぶつけられた帰り道、イツキと兄は珍しく二人で歩いた。子供のイツキはずっと泣いていた。特に泣き虫だったし、兄がいるという安心感で涙が止まらなかった。

「もう泣くなよ。びーびーうるさいな」

「だって、ごめん」

 その後、不機嫌な兄の横で沈黙が続いた。なにか話したくてイツキが話しかけた。

「先の人。彼女?」

「うるさい。母さんには言うなよ」

「どうして」

「どうしてもだ」

「わかったよ」

 そうは言ったものの、小さな疑問が生まれ、どうしてもそれを我慢できず、兄に確かめたくなった。

「父さんにはいいの?彼女のこと」

「……だめだ」

「きれいな人だね」

「うるさい」

「……ごめん」

 なにを言っても怒られる。もう黙ることにした。

「イツキ」

 今度は兄が口を開いた。

「なーに?」

「おまえ母さん好きか」

 予想外の質問に答えられなかった。その時、実は兄と二人でまともに話したことはないのかもしれないと子供ながらに思った。

 両親といっしょにいるときの兄は優しかった。だが、たまに係累のなくどこにも属さない異次元にいるかのような雰囲気を醸し出す時があった。

「どうなんだ」

 兄が再び問う。

「あんまり好きじゃない」

 思い切って心の内を明かした。

 その当時の母は、俗物的で世間の目ばかり気にして兄や、イツキに勤勉でいい子であることを強要していたからだ。

「そうか」

 横目でちらりと兄の顔を見上げた。笑っていた。

 イツキが小学校低学年で兄は大学生で身長差はかなりある。

 初めて兄が笑っているのを見た気がした。今まで見せていた笑顔は作り笑顔で、その時本当の笑顔を、心から笑ったような気がした。

 子供のイツキはそれがなぜかとても嬉しくて、つられていっしょに笑った。


 今になって思う。あの頃の母は子供への教育に執着していた。塾や、参考書等の学費には出資を惜しまなかった。世間体を気にし、子供の気持ちや、精神状態など二の次だった。兄がどんな風に自分の精神を保ってきたのか知らなかっただろう。

 あの時、兄が笑ったのは、窮屈な家の中でイツキが兄のテリトリーを侵害しないものだとわかり、兄にとって敵ではないと認識できたからだ。

 兄は誰よりもうまく生きようとしていた。器用過ぎたがゆえにそのうちになにかを見失ったのかもしれない。生きることをあっけなくやめてしまった。

 結局警察は事故ということにしたがイツキはそう思わなかった。

 兄は自ら生きるという意思を持っていなかった。親が喜ぶように、親の期待に応えるためだけに生きた。

 大学の卒業後、実家を離れ新しい場所に行ったが、その後きっと兄はどこかで何かを見失った。兄にとっては、この閉鎖された家族がすべてだったのだ。イツキが高校生になって初めて煙草を吸った夜、兄が自殺した。


 自分の部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。

「はぁー。高校生もしんどいわ」

 辛気くさい実家の空気に嫌気が差した。不幸の死神がべったり張り付いているような気分だ。もう遠いことのように兄の死のことは忘れていた。大学生になってからは大阪の実家にはほとんど戻らなかった。環境が変わって自分自身も変わった気がしていた。

 カーテンの隙間、ため息に曇っていく夜空を見ていた。ふと枕の裏に硬い違和感を覚えた。

「こんなところに携帯。あっ」

 起き上がり、学ランのポケットにいれたミオさんの連絡先のメモを取り出す。無性に寂しくなって、番号を入力した。だが思い直しそのまま、ガラケーをパチンと折りたたんだ。やめておこう。今、電話したらきっとミオさんに頼ってしまう。大きなため息をついた。

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