退屈か、犠牲か。

清河涼|すず姫

短編 読み切り

「俺はタイムループしているらしい」

 真剣で、でも不安げな眼差しで先生は言う。私は頷きつつ、先生の目を見つめるだけである。

「こんなことお前にしか相談できない…でも本当なんだ」

 48歳の中年男性が大真面目に言うのだ。

 18歳になったばかりの女子高生に、真面目で面倒見がいい担任の先生が、冗談で言うセリフではないだろう。

 私は笑うか流すか共感してあげるか悩み、とりあえず聞く。

「なんでそう思うんですか?」

「それはな、時々お前たちがどうなるか、知っているような気になるんだ」

「どうなるとは?」

「何を言うかとか、どういう行動をするかとかを、俺は知っている…ような気がする」

「気がするって…」

 宮本先生は頭を抱える。おそらく自分でもよく分かっていないのだろう。

「デジャヴュってやつか?そんな感じで、知ってるって感じ…」

「夢で見たっぽい~的な?」

「ああ…でも、未来も分かるんだ」

 急に真剣な眼差しに戻る。私たちの間に静寂が2秒間。

 グラウンドから響く部活動の声は遠い。微かに聞こえる吹奏楽の音色。

 私たちのいる進路指導室は空調の音さえも聞こえない。


「お前の進路先は帝都大学じゃなく、聖北斗女子大学だ。学部も法学じゃなく国際経済学になるぞ」

「ええ?」

 ちょっと大げさに驚く。

 先週提出した進路希望の提出用紙には、もちろん帝都大学法学部と書いてある。この国の最高峰で、大体みんなが目指すのだ。

「他には何の未来が分かるんですか?」

「ああ、来月の体育祭ではうちのクラスは負ける。男子のリレーで田淵がこけて最下位になる。あと応援団の最後に公開告白があるぞ。うちの佐藤と下田だ。夏前の最後の遠足会は、投票で京都に行くことになる。馬場が迷子になって警察沙汰になる。夏休みの勉強会の最中、8月21日にクーラーが壊れて、暑いから皆で水浴びをするんだ。始業式では笹田が頭髪をピンクにして登校してきて校長室に呼び出されるぞ。10月の文化祭では、うちはフライドポテト屋さんをやるし、月末にクラスでハロウィンパーティーとやらをして、皆盛り上がりすぎて反省文を書くことになって…」

「いや、先生、待って」

「知ってるというより、俺は何度も経験してる。この先は毎回同じなんだ」

「はい、ちょっと落ち着いてください」

 ヒートアップした先生を止める。この空間に二人の息遣いのみ。

 今は4月下旬だ。高校最後の年が始まったばかり。

 これからの行事、起こることを、先生は言い当ててしまった。

 まるで何度も経験しているかのように。

 私はドキドキしながら、宮本先生の興奮が落ち着くよう、語りかける。

「夢で見たとかじゃないですか?」

「違う。感覚がある。俺は何度も経験してる気がする」

「この1年を?」

「いや、3年間をだ。お前が入学してから卒業するまでの3年間、同じ3年をずっとループしてるんだ」

「ええ…私が3月に卒業して、4月に入学するんですか?その時は気づかないんですか?」

「そうなんだ…既視感はあった、でも気づいてなかった…」

 頭を掻きむしりながら、苦しそうな表情を見せる。自分の頭の中の違和感をなんとか理解しようとしているのだろう。

 私は先生を追い詰めたいわけではない。

 でも私は知りたい。

「はっきりわかることと、そんな気がする程度のこと、違いはあります?」

「分からない…」

 ふう、と息を吐く。

 先生がなぜ私にこんなことを言い出すのかは分からないが、私は決められた日常に突然非日常がやってきて、少し興奮している。

「この話をするのは初めてですか?」

「ああ…お前が初めてだよ」

「ループしてきた中でも?」

「…どういうことだ?」

 私は嬉しさを隠し切れず微笑んでしまった。先生が不安そうになる。

「先生は、タイムループしてますよ」


 今日先生に進路指導室に呼び出されることは決まっていた。

 私の校外活動を評価した聖北斗女子大学からの推薦状の話だったはずだ。

 今日は適当に受け流して、夏休みにオープンスクールに参加して、進路を決める…私の決められた進路。この先の未来。

「タイムループしてるってなんで言い切れるんだ?」

「私には前世の記憶があります」

「はあ??」

 急に突飛なことを言い出した私に、面食らった顔をする先生。

 もちろん前世の記憶はないが、話の辻褄を合わせるにはこれがいい。

「先生がループする前の私の記憶ですよ」

「意味がわからん」

「先生がタイムループしてるって聞いて、私の中にあった謎の記憶の正体が分かりました。ループ前の私の記憶だったんです」

「え…じゃあお前もこの先のことが分かるのか?」

「はい。私に関係する記憶だけですが。確かに体育祭は負けるし、遠足会は京都だし、クーラーは壊れる…知ってました」

「そんな…!」

「でも今日、先生から打ち明けられるのは初めてだったのでびっくりしました。こんな記憶はないです」

「そうだよ、初めてだよ、今までのお前にも、他の誰にも、こんなこと明かしてない!」

「でしょうね」

 先生がこんなことになるなんて聞いてない。私は知らない。今日の予定にもないし、この先の未来にもない出来事だ。

 ワクワクしている。やはり私は決められた人生では退屈なのだ。

 それが先生のためであっても。

「先生、どうします?」

「え…ああ、また来年の3月になったらお前は卒業して、4月に入学してくるが、俺はその記憶が曖昧になって、2年くらい可笑しいなと思いつつ生きることになると思う」

「はい、そうですね」

「どうしたらこのループから抜けられるか、一緒に…」

「わかりました。私でよければ協力します」

「…いやに積極的だな」

「私も分かりきった未来にうんざりしてるんですよ」

 左手につけている腕時計が、先生には分からない程度の大きさで微振動している。太ももに挟んで無視する。

「お前…本当に前世の記憶が?」

「明日、私が美術の授業で手をケガするのは知っていますか?」

「ああ、知っている。指3本カッターで」

「じゃあケガしませんよ。知っててケガするの嫌だったんで…」

「…いつも記憶に合わせていたのか?」

「はい。うんざりはしてましたけど、それが私がここにいる理由なので」

 先生は分からない、という顔をする。

 喋りすぎた。これは余計だ。

 だが明日美術の授業で、カッターで指3本切ることになっていたが、どうやら回避してよさそうだ。

 私がなぜそれをしなければならなかったか、先生には教えられない。

「未来を変えれば、ループが終わるかもしれません」

「ああ…タイムループせず、4月1日を迎えたい」

「そうしましょう。2人だけの秘密です」

 私がしゃべり終わるより早く進路指導室のドアが勢いよく開く。

 タイムオーバーだ。

 だが今までにない展開、想像もしていなかった選択。先行きの分からない不安感はなく、楽しみでしょうがない。

 宮本先生はびっくりして扉を振り返るが、教頭先生なのは知っている。

 にこやかに微笑み、足音を立てず近づいてくる。

 不気味だ。

「宮本先生、お忙しいところすみません。佐藤君が職員室に来ていますよ」

「佐藤が?はい、今行きます」

 私との進路指導は…と少し妬く。宮本先生は私に目配せし、

「続きはまた今度、気を付けて帰りなさい」

 と先生らしく優しく言い、席を立つ。私が返事をすると、教頭先生に会釈をして足早に進路指導室を出て行った。

「じゃあ私もこれで…」

 だが席を立とうとした私を、教頭先生は無理やり座らせてくる。

 でしょうね、と諦めて座る。


 自動で閉まったドアはカチッと鍵まで閉めた。

「どういうつもりでしょうか?」

 人間味を無くした教頭先生の顔は怖い。目の奥が深い。声も冷たい。

 仕方ない。人間ではないのだから。

「なにが…」

「校務規定違反です。重大な違反を確認しました」

「ええ!私が?」

 わざとらしく肩をすくめる。無駄な抵抗だ。

「宮本先生に規定外の情報を与えました。手首の合図を無視しました。これは重大な違反です。意味が理解できませんか?」

「…いいえ、理解できます」

「貴方の役割をご理解いただいていますか?」

「…今日の宮本先生は想定外ですが?」

 そう。

 宮本先生は決められた行動をとらなかった。

 否、決まっていた行動とは違った。自分の意志があったのだ。

 明らかに現実を疑いだした傾向があり、助けを求めてきたのだ。

 この私に。

 しかし教頭先生は最新型なので処理が速い。

「確かに想定外でした。なぜか未来の記憶を有し、タイムリープしているという形で現実を理解し、この日々を終わらせたいという意志を見せました。しかし、貴方の役割での最適解は、協力ではなく静観です。適当に受け流し、何事もなかったかのように接するべきでした」

「わお、そうでしたか、私には難しかったです」

「貴方はなぜ協力を申し出たのですか?」

 無表情だが、言いたいことはわかる。『知っててなぜ?』だ。

 知っててなぜ協力を申し出るのか、きっと機械には理解できないのだ。

 最新の人工知能を搭載しているというのに、人間の気持ちは分からない。

「協力したかったからです」

「答えにはなっていません」

「えー…退屈だったので」

「とても人間的で尊重できない理由です。よって貴方は記憶室へ行き、規定の講義を受けなければなりません」

 私はがっくりと肩を落とす。

 またあの長い講義を受けなければならない。宮本先生の記憶をひたすらに暗記し、自分の行動予定表をひたすらに暗記するの刑だ。

 明日からの私の行動は、すべて決まっている。それだけでうんざりだ。

「でも教頭先生、明日の宮本先生の行動は、変わりますよ。記憶修正はできないんですよね?」

「できません。特例を除き、記憶修正は人体改造者保護法で禁止されています。また、宮本先生のデバイスは修正不可能です。よって宮本先生の行動は変わってしまいます」

「じゃあ、記憶室に行っても…」

「いいえ、貴方は本来の行動規定書を記憶し、実行する義務があります。その上で、明日からの特異行動分析に従い、行動を変える必要があります」

 逃げ道はなさそうなので諦めて罰を受けるしかない。

 罰、というと聞こえが悪い。罰ではない。

「すべては宮本先生のために」

「…はい」

 私は立ち上がる。教頭先生について進路指導室を出る。

 確かに私のしたことは、宮本先生のためにならないかもれない。ならないだろう。安定している精神を崩壊させてしまうかもしれない。

 先生が現実を知ったところで、4月1日になれば強制的に戻されるのだ。私と記憶にない行動をしても、新たな発見をしても、未来を変えても、それは先生の記憶には残らないのだ。

 むしろ記憶との相違でバグが発生し、記憶を消失してしまう可能性がある。

 一緒にタイムループを抜け出そう、なんて、私のエゴだ。


 記憶室で宮本先生の3年間の年表を見つめて考える。

 校務指導担当の人型ロボット4体がにこやかに私を見つめている。女性教師型が諭すように言う。

「立河美代さん、校務規定を犯しましたね。とてもいけないことです」

「はい」

「貴方の行動が宮本先生をどんな危険な状態にするか、まずは理解することから始めましょう」

「はい」

「大事なのは、私たちは、宮本先生のために。貴方たちは、宮本先生のために、です」

「はい」

 先生の3年間が驚くほど詳細に書かれた年表。

 ところどころグレーの文字になっているが、これは消えてしまった記憶だ。

 記憶が消える。どんな状態なのだろう?

 昔は人間でも病気になれば記憶が消える物忘れというもがのあったらしいが、現代ではありえない。

 旧型のまま60年以上を過ごしている宮本先生にだけおこる悲しい病。

 ディスプレイに先生への絶対やってはいけないリストが映される。

 指導担当の男性教師型がひとつひとつ説明していく。幾度となく聞かされてきた先生の哀しい仕組み。

「宮本先生の3年間は固定記憶といい、必ず繰り返します。新たな記憶を蓄えることはできず、記憶とは違う事象が起こるとバグが発生します。ここまで意味が理解できますか?」

「はい、理解できます」

「その3年間でのみ新しいことを記憶していたとしても、次の3年間を迎える時には消えています。消えた記憶とは、本来の記憶を上書きしして一時保存されたものなので、次の3年間では本来の記憶も無くなり、空白になってしまうのです。ここまで意味が」

「はい、理解できます」

「はい。つまり、同じ3年間を繰り返さなければ、宮本先生の記憶はどんどん失われていくのです。今日の貴方の行動で、次回の今日の貴方への進路指導をする話が消えます。では、宮本先生の苦しみが分かりますか?」

「…私への推薦状の話をするのが消えるので、おそらく、推薦状の話したっけ?と私に確認しに来ると思います。次回の私ですけど」

「はい。よく理解できていますね」

 絶対にしてはいけないこと。

 宮本先生の行動予定と違うことをしてはいけない。

 新しい事象で上書きされた記憶は、4月1日にリセットされ、元の記憶も消えてしまい、その部分は空白になる。

「人間は消えた記憶を自力では思い出せません。宮本先生は記憶の補完も修正も追加も削除もできません。空白の時間や日々は、宮本先生にとってとても辛く苦しく、大きな不安になります」

 絶対にしてはいけないこと。

 宮本先生が3年間の記憶しか持たないことを言ってはいけない。

 3年間、担任をするクラスメイトには同じ人間が用意され、担任をするクラスメイト以外すべてがヒューマノイドロボットだと知られてはいけない。

「不安は精神を乱します。旧型は精神に直結していますので、搭載された脳コンピューターが正常に作動できなくなります。それは激しい苦しみと痛みを伴います」

 私が生まれ、この学校内の施設で育ち、高校3年間に与えられた使命。

 宮本先生のために、3年間、自分の役割に徹して行動すること。

 私は初代立河美代の完全コピーだ。20番目の立河美代が私の役割だ。

「宮本先生の脳コンピューターを取り出すことができる技術ができるまで、私たちは宮本先生の記憶を守る義務があります。安定した精神を保てる環境を用意する義務があります。貴方たちの義務を理解していますか?」

「…宮本先生の記憶を守るため、宮本先生の記憶通りの日常を生徒として送ることです」

「はい。よく理解できていますね」

「私たちは、宮本先生のために生まれました。いつか宮本先生が記憶から自由になるために、高校3年間を特別公務員として、校務を果たす義務があります」

「はい。よく理解できていますね」

 分かっている。分かってはいるのだ。15歳の時に自分のルーツを明かされ、使命と役割を命じられ、高校3年間は定められた行動規定に沿った日々を送ることが、生きる絶対条件だと。高校を卒業すれば、私は名前を与えられ、自由になることも。

「では、講義を続けましょう」


 宮本先生が大好きだ。

 初めは慈悲の気持ちが強かった。自分がコピー人間である衝撃より、現代の技術でもまだ修理できない人造人間がいることが衝撃だった。哀れだった。

 中学の時、歴史の授業で習った。

 世紀の天才科学者だと当時もてはやされた博士が、薬物投与ではなく人体を改造することで不老不死を得ようとした。

 高価な薬を飲み続けて不老不死を維持している人たちの希望だった。

 その被験者に選ばれたのは普通の人たちだった。

 宮本先生もその1人。まだ技術的に不確定なことばかりで、到底人間には使えないコンピューターを人体に埋め込まれる、裏の人体実験だった。

 早く人造人間になりたい人々の、大きな金の流れに集まった人々の、詭弁に騙されたのだ。

 宮本先生は教師としてとても優秀で、教師用ロボットの知能データ収集役に選ばれるほどだった。生徒1人1人と向き合い、人間同士の心の通わせ合いを大切する人だった。

 先生の脳は半分以上を取り出され、脳コンピューターを埋め込まれた。臓器もすべて人工物になり、老化を止めるDNA置き換え手術も行われた。

 宮本先生は48歳で人間として死に、人造人間として幸せに生きるはずだった。記憶デバイスさえ、バグだらけでなければ。


 宮本先生が大好きである。

 例え分かっている行動であっても、与えてくれる優しさに変わりはない。次に先生が何を言うか分かっていても、褒められて励まされて背中を押されて慰められて一緒に笑っているうちに、自分の役割に感謝した。

 立河美代は淡々と日々を過ごしていた。部活もしない、バイトもしない、バカ騒ぎもしない、友達はいるけどつるまない、真面目だけど面倒事は避けるタイプの優等生だった。問題行動はほとんどない。

 そう。退屈なのだ。

 毎朝その日の行動予定を見る時間があるが、学校にいる間は勉強のみだ。

 他のクラスメイトは友達同士の絡みや休み時間の遊びや会話の指定まであるのに、私はほぼない。

 学校生活は暇の極みだった。

 唯一の楽しみは、宮本先生との関わりぐらいだ。動植物委員として、先生と花を育てたり活けたり、一緒に小動物ロボットを組み立てた。

 先生が持っている記憶は3年間のみで、過去の記憶もない。昔話ができないので話に気を使うが、それでも一緒に過ごす時間は、私にとって楽しい学校生活そのものだ。他に何もなさすぎる。

 それが私が与えられた3年間であり、宮本先生のための3年間なのだ。

 守らなければ、私が卒業後、21番目の立河美代が困る。

 何より宮本先生に空白の記憶ができてしまい、苦しめることになるだろう…

 私は、正しい選択をしなければならない。


「どうして未来の記憶を知ることができたのでしょうか?」

 長い長い講義が終わり、帰り際にロボットたちに聞く。

 どうせ分からないだろう。

「分かりません。このようなことは過去にありませんでした」

「宮本先生の就寝後、デバイスチェックを行います」

「分析結果から得られるデータから、明日の行動規定を作成します」

「立河美代さんは、明日からの行動に最善の注意を払いましょう」

 口々にまくし立てられる。校務指導担当の人型ロボットは威圧感がある。

 私はさささっと扉まで逃げるように移動する。

「はい、分かりました。では帰宅しますさようなら」

「さようなら」

「お気をつけてお帰りください」

 にこやかにロボットたちに手を振られ、私は記憶室を後にする。

 家に帰るといってもこの学校の施設内の寮だ。ここで生まれて育っているのだから。

 ここは、宮本先生を守るために作られた国家施設なのだ。

 人口減少を止められなかった国がコンピューターに乗っ取られて、最適化されたデータで人間のための国家建設が行われ、効率的に人間を維持するためにコンピューターに管理されている。

 今では法律で禁止された人造人間は、人間として、守るべき最重要生物に位置されている。ほとんどが修理されて正常な人間に近い状態に戻れたが、宮本先生のように修理が難しく現状維持が必要な人もいる。未来に治す技術ができると信じて。

 それぞれに合わせた維持施設があり、ここは徹底的に同じ3年間を繰り返す空間である。宮本先生の記憶が消えないように。

 そのために、生徒をDNAコピーで製造している。先生の記憶にある、担任をするクラスメイト28人は、3年ごとに初代からのコピー。

 私は立河美代のコピー人間。

 嫌だと思ったことはない。立河美代という役割を得て、先生から名前を呼んでもらえるのだ。番号で呼ばれていた日々よりずっと幸せだ。

 心の通わせ合いを大切にする先生のために、クラスメイトがロボットだと精神衛生に相応しくないとコンピューターが分析してくれたおかげで、私は作られたのだ。

 先生のために生まれてきた私。

 大好きな宮本先生を苦しめたくはない。


 でも、宮本先生は、苦しんでいるのではないか。

 今まで気づかなかったのに、同じ日々を繰り返していると知った。

 助けてほしい、そう思っているのでは。いや、私がそう思いたいのか。

 宮本先生の脳で新たなバグが起きたのだろうか。

 階段を下りている最中、また左手の腕時計が振動する。見ると【直ちに隠れよ】の警告指示。絶対従わないといけないやつ。

 え?と思っていると、階段の上の方から宮本先生の声が聞こえた。

「立河ー!!」

 そういうことか。私は咄嗟に廊下に逃げて、手前の教室に滑り込む。

 自動で教室のカーテンが閉まり、電気が消える。

 先生が私の名前を呼びながら階段を下りていくのが分かる。

 一応指示には従ったのでセーフだろう。警告指示は消えた。代わりに【しばらく待機し、帰宅指示を待て】の表記だ。

 この学校は先生のために、すべて監視されている。コンピューターが制御し、クラスメイトは腕時計の指示に従って、先生の予定行動を邪魔しない。

 私たち以外はヒューマノイドロボットなので、間違いは犯さない。

 きっとコンピューターは私の解析も行っているだろう。

 今日の間違いを訂正しなくてはいけない。


 朝、わざわざ修正された行動規定を教頭先生が持ってきた。

 さらに念押しまでして去っていったが、内容は単純。

 昨日の先生は一種のバグということになり、なかったことにできるからなかったことにせよ、とのことだ。

 記憶デバイスのチェックでは、なぜかデータ書き換えはなかったらしい。つまり私は元の予定通り大学の進路相談をしただけだった。

 残念にも思ったが、少し安心した。

 昨日のあのやり取りは、先生の記憶にないのだ。

 少し寂しい気持ちもするが記憶が消えない方がいい。

 万が一に備えて行動規定は何パターンも、もしかしたらの想定を記載していたが、どれも記憶維持優先の行動予定が組まれていた。

 なんとか登校までに頭に叩き込み、校舎へ向かう。

 今日も予定通り先生が入口で挨拶当番だ。

 宮本先生は朝から元気に「おはよう!」これも予定通り。

 私も予定通り眠そうな顔で登校する。

 先生に「おはようございます」と軽く会釈をして、校舎へ入る。

 完璧だ。

 完璧に予定通りの行動なのだ。

 予定通りだったのに。

 掴まれた手首にびっくりして振り返ってしまう。

「立河」

 宮本先生は不安げな眼差しで、でも真剣な表情で、私を見つめて言う。

「今日の放課後、進路指導室に来てくれ」

「…え?なぜ?」

 最悪の返答をしてしまった。修正せよ。

「昨日の続きを…」

「…ああ、大学の、進路ですよね、成績の話もしなくちゃ」

「違うよ」

 宮本先生は祈るような、泣き出しそうな目をする。泣きたいのはこっちだ。

 もう私は泣きそうだ。頭に入れた行動規定がどこかへ飛んで行った。

 私だけに聞こえるように先生は言う。

「2人だけの秘密…」

 先生、その記憶はどこにあるんですか?記憶には残ってなかったはずなんですよ。あったとしても、なかったことにしなくちゃいけないんですよ。先生は、新しい記憶を入れちゃダメなんですよ。私たちは決まっている行動をしなくちゃ。過去と同じ行動をしなくちゃ。

 なんとか言いそうになった言葉を飲む。

「頼む…」

 左手の腕時計が、先生にバレるんじゃないかという大きさで振動している。

 私の心臓も、激しく音を立てている。

 掴まれた右手首が熱い。吐息のような、消え入りそうな声が精神を乱す。

 私が言うべきセリフは行動規定にある通り。『何のことですか?』『え、何言ってるんですか?』『何の話ですか?』知らないふりをせよ。ただそれだけ。決められた日常に戻るのだ。

 あの、退屈な日常に。

 でも、先生を守るために存在する日常に。

「…ダメか?」

 先生は察しがいいのだ。私が何か知っているのを知っているのだ。

 そもそも、『こんなことお前にしか』ってなんだ。初めからだった。

 私が困るとわかるとこの人は引くのだろうか。

 私は、先生のために存在しているのに。

「宮本先生…いいんですか」

「…なんで、泣くんだ」

 私は泣いていた。立河美代は泣くキャラじゃないのに涙が出てしまった。

 遠くに別の先生がこちらに走ってきているのが見える。

「退屈な日々が終わっちゃう」

「ああ、終わらせよう」

 何も知らない先生は、退屈な日々を終わらせたいだけだ。

 繰り返されている日々に気づいてしまった。そこから出たいだけなのだ。

 その犠牲が、3年後に来るとも知らずに。

「…また放課後に」

「ああ、待ってる」

 きっと阻止されるかもしれないが、私はしっかり先生を見つめて頷く。

 先生が手を離したので、足早に校舎へ入り、教室へ向かう。

 腕時計が警告を出している。だが従えない。

 私は大きく間違っている。

 私は先生を守るために存在しているのに、先生を危険に晒している。

 大切な記憶を犠牲にしようとしている。

 退屈だから?それだけで先生を犠牲にできない。

 先生の目が私を見ていることが嬉しい。頼ってくれたことが嬉しい。

 決められた日常ではなく、2人で手に入れたい。

 先生に絶対に言ってはいけないことを、何とかして伝えたい。

 今後悔しない選択をしたい。


 腕時計の振動が止まる。恐る恐る見ると、【理解できません】と。

 どうせ分からないだろう。完

 私が宮本先生を大好きなことを。



 完

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

退屈か、犠牲か。 清河涼|すず姫 @suzu_kiyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ