10 それから……

10 それから……


「父さん、母さん。私やってみる」

 ユキはイーゼルに新しい二十号キャンバスを置いた。

「でも、画家にはならない。小さい頃から、父さんみたいになりたいって思ってたけど、今は違うの」

 ユキはパレットをとり、パレットナイフで絵具を伸ばした。

「私、学校の美術の先生になるわ。子供達といっしょに、色んな心を絵にして描くの」

 ユキは真っ白なキャンバスを見た。

「心のひとつ、ひとつ。思いのひとつひとつが絵になるんだって、みんなに伝えたいの。ごめんね、父さん」

 ユキは最初のひと筆を、丁寧にキャンバスにおろした。

 ニャアオウン。ちょっと威張ったスプーンの声がして、音もなく黒猫が部屋に入ってきた。

「お帰り、ヤ・マ・ト」

 ユキが笑いをかみ殺して言った。

 黒猫の耳がピクリと動き、前脚をあげたまま、尻尾を水平にピーンと伸ばして、黒猫スプーン、いいや黒猫ヤマトは固まってしまった。

 なぜだ? なぜ? なせ知ってる? 

そうか、ルルカの奴だ! 満月の前の晩、ルルカの部屋の外でバズーと話してたの聞いてたな。

あの時。たしか俺は……。


「知ってるかスプーン。あのでかい灰色のグレートデンの奴。ほんとに野良犬になっちゃったんだぜ」

「ほんとか!」

「ああ。飼い主が引っ越したんだ。でもあいつはおいてきぼりさ」

「そうか。そりゃあ、あいつもこれから大変だな」

「何言ってんだよ、いいきみじゃないか」

「野良は大変だろな。ま、あんまり構わないことにしようぜ。あいつの面倒もみてやるか、野良の先輩としてな」

「ほんとにおまえは、変な奴だなあスプーン」

「おっと、もう俺をスプーンと呼ぶな。これからは、ヤマトと呼んでくれ」

「ヤマト?」

「そうだ、ヤマトだ。俺はもっと強くならなきゃ。小さい奴を犬からも守れるくらい、強くなるんだ。だから、ヤマトだ」

 ルルカが聞いてて、ユキに話したんだ。

 

 ユキは固まった黒猫ヤマトを見て、嬉しそうに笑った。

 くそっ、何にも言えねえ。何にも言えないから、ヤマトはクフアッと口を大きくひらいて鳴らすと、何ごともなかったかのようにユキの足許に腰を落ち着けた。

 ルルカめ、最後の最後まで脅かしやがって。

今度会ったらいっぱい、いっぱい、ムフッ、礼を言わなきゃな。

 ヤマトはむすっとした顔をしようとしたが、どうしてもむふふふと笑いがもれるのを押さえられなかった。

 秋の風がさあっとアトリエを吹き渡っていった。

「ユキはもう大丈夫みたいだし。春になったら、俺も旅に出るかな」

 黒猫ヤマトは、そんなことを考えている。

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月の民のちょっと不思議な物語 第一章 月のルルカと黒猫スプーン 霜月朔 @bunchilas

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