王手


 しゃり、しゃり、と踏み入る足元から雪の音がする。

 この地方にしては珍しい積雪。

 分厚い生地によって作られた軍服ですらも冷気を押さえ込むことはできず、彼女の華奢な体を凍えさせる。


(何だか最近は、崩壊した街にばかり派遣されている気がしますね)


 軍帽を深く被り直す彼女——アンジェラ・ギルバート中佐は本来の清澄な街並みとは程遠い宗教都市アトランティカの景観を見渡しながら、億劫な思いを抱く。

 連合大国ゴエティアの三人の王の内の一人、閣王エイブラハム・ソロモンの勅命により、宗教都市で起きた大虐殺の調査と堕剣ネビ・セルべロスの遺体捜索へと訪れていた。


(復興にはまだまだ時間がかかりそうですが、市民の遺体などはもう見当たりませんね。さすが聖騎士協会ナイトチャーチのお膝元。仕事が早い)


 堕剣の大虐殺後は街中に凄惨な姿になった数えきれないほどの市民が見えたというが、すでにその後始末は済んでいるらしい。

 特に被害の大きかったという宗教都市アトランティカ北部を見回してみても、崩れ去った石造の街並みが目につくばかりだった。



「おーい、アンジェラさーん! こっちこっち!」



 すると道の先から、アンジェラを呼ぶ声がする。

 人気のない街中で目立つ、通りの良い声。

 彼女の視線の先に見えたのは、神父服を着た銀縁眼鏡の聡明そうな男。

 崩壊した宗教都市にアンジェラが呼ばれる元凶となった男の顔を見て、彼女は内心で舌打ちをした。


「どうもご無沙汰しております。サウロ殿」


「久しぶりだね、アンジェラさん。少し痩せた?」


 “水の騎士”サウロ・ラッフィー。

 聖騎士協会における、聖女ヨハネスに次ぐ四人しかいない最高幹部の内の一人。

 そのすらりとした長身の男が、崩れ去った街には似合わない爽やかな笑みを浮かべていた。


「アンジェラさんはアトランティカに来るのは初めて?」


「いえ、何度か訪れたことはあります」


「そうなんだ。ならよかったですよ。綺麗だった頃のここを知っているならね」


「はい。随分と様変わりしてしまったようですね」


「おかげさまでね」


 涼しげな表情で周囲を見つめるサウロを見て、アンジェラは意外に思う。

 聖騎士協会の幹部であれば、本拠地でもある宗教都市を蹂躙されたことに憤慨していると思ったからだ。


「案外、冷静なんですね」


「ん? 何が?」


「堕剣に宗教都市を襲撃され、何人もの民が殺されたばかりにしては、あまり気にされていないように見えたので」


「やだな。なんかちょっと、棘のある言い方じゃない?」


「失礼致しました」


「まあ、別にあながち間違ってないけどね」


 どこか自嘲するようにサウロは笑う。

 ゆっくりとした歩幅で歩き出し、アンジェラは隣に続く。


「僕の数少ない親友であるアンジェラさんには正直に言うけど、実は僕、市民の平和を守るとかそういうの、あんまり興味ないんだよね」


「私とのこの心理的距離で親友? ずいぶんと親友のハードルが低いようですね」


「ははっ。そんなことはないよ。僕は結構人を選ぶ」


「それにしても、市民の平和を守ることに興味がないなら、なぜ聖騎士協会に? 軍部以上にそういった正義感や始まりの女神に対する信仰が篤い方がなるものだと思っていました」


「まあ確かに大多数の聖騎士志望者はそうなんだけどね。例外もいるってわけさ。幹部級で言えば、僕やオルフェウス、あとクリコなんかもそういう信仰心は薄いよ。幹部以上になるとたぶん、アンジェラさんが想像するような聖騎士は、キオくらいじゃないかな?」


「“風の騎士”キオ・ジェレミーですか?」


「そう。まあ、あれはあれで行き過ぎだけどね」


「ではサウロ殿はなぜ聖騎士に?」


「好奇心さ。あとはこの好奇心を満たす術が欲しかった」


 音楽家のように繊細さを感じさせる指を一本立たせると、その先にキュルキュルと透明な水球を創り出し回転させる。

 サウロは掌を開き、それを手のひらの上に下ろすと、不意に握り潰す。


「アンジェラさん、僕は思うんだ。堕剣ネビ・セルべロスは、きっと僕と同類だ」


「……サウロ殿。会話を飛ばすのは、悪い癖ですよ」


 細い街路を抜けると、少し開けた場所に出る。

 ヒビが目立ち、枯れた噴水。

 背もたれが取れたベンチ。

 おそらくこれまでは市民の憩いの場であったであろう広場には、今は子供一人見当たらない。


「たとえば、僕はよく、魔物ダークを殺すんだけど、それがなぜかアンジェラさんは分かるかな?」


「唐突ですね」


 冷たい風が、吹き抜ける。

 サウロの青い瞳が、アンジェラを貫く。

 どこか危うい輝きが覗き、彼女は僅かに緊張に身を固くする。


「市民の命を守るためでは?」


「違うね。人を襲わない魔物でも、僕は殺すよ」


 人を襲わない魔物でも、殺す。

 気負いもなく、あっさりと口にされた言葉。

 アンジェラの中で、サウロの言葉が反芻される。

 これまで彼女は、魔物ダークは人を害する天敵だと思っていた。

 そんな魔物に対して命を賭して立ち向かう加護持ちギフテッドや聖騎士たちは、勇敢なる正義の使徒であると認識していた。

 しかし、今、目の前に立つ聖騎士協会の幹部の内の一人は、彼女の、いや世界の常識をあえて揺さぶろうとしているように思えた。

 

「……では、あまりこういった言葉は使いたくありませんが、快楽のため?」


「惜しいね。でも違う。アンジェラさんが言いたいことは分かるよ。僕や堕剣が、快楽殺人、或いは快楽殺魔とでも言えるような欲求を抱えているんじゃないかってことでしょ? それもまた、不正解だ」


 主に市民の犯罪や、国家間の争いに従事する軍人でもあるアンジェラは、殺害欲求を抱えた精神疾患者が存在することは認識している。

 サウロや堕剣がそういった類の、ある意味で病人のような存在ではないかと想像したが、どうやらそれもまた正確な理解ではないと水の騎士は語る。


「僕が魔物を殺すのは、必要だからさ。ただの過程だ。目的はその先にある」


 ただの過程。

 魔物を殺すこと自体に意味はないと、サウロは口にする。


「前にも一度説明したと思うけど、僕の専門は魔物生態学だ。僕の好奇心は、そこにある。魔物の中身、仕組みが知りたいんだ。そのために、魔物の遺体を解剖する作業をよくするんだけど、そのために死体が欲しいんだ。僕が魔物を殺すのは、そのためさ」


 解剖するために、魔物を殺す。

 その説明を聞いても、アンジェラには想像がつかない。

 では、どうして堕剣は宗教都市アトランティカで大虐殺を行ったのか。


「サウロ殿の行動原理はわかりました。では、堕剣は?」


「少なくとも、僕みたいに人間の死体が欲しいわけではない。人類生態学の研究者というわけではなさそうだ。実際に、この街にあった死体に解剖されたような痕跡はなかった」


 噴水の側に落ちている片足分の小さな靴。

 女子供も関係なく、宗教都市では命が奪われたという話はすでに聞いていた。


「そして、ここで、トップシークレットを一つ、教えてあげるよ」


「機密事項ですか。慣れてますが、どこまで厳守ですか?」


「三王にも、言っちゃダメだよ」


「なっ!?」


 アンジェラは思わず驚きの声をあげる。

 連合大国ゴエティアの三王にさえも口外禁止となると、実質的に聖騎士協会内でも最高機密と言っていい情報だ。

 そのような下手をすれば国家問題にまで波及してしまう可能性のある情報を、なぜサウロが話そうとしているのか彼女には全く理解できない。

 

「聞かないという選択肢は、選べますでしょうか?」


「残念ながら、その選択肢はない。アンジェラさん、僕らはもう引き返せないところまで来てるんだよ」


「……私まだこの街に来たばかりなんですが」


 閣王エイブラハムの勅命を受けた時点で嫌な予感はしていたが、これほどまでに面倒な厄介ごとを背負わされるとは思っていなかった。

 アンジェラは小さな胃が痛くなり始めていた。


「実は堕剣ネビが宗教都市に来た時、聖騎士協会本部に始まりの女神ルーシーが訪れていたんだよ」


「冗談、ですよね?」


「残念ながら、大真面目。実際に聖女ヨハネス様が対面してる。聖騎士協会の幹部級以上は全員知ってる話だよ」


 明かされる驚愕の事実。

 普段は微笑んでいる表情は、その台詞を紡ぐ時は真剣そのもので、アンジェラは息を飲む。


「つ、つまり、始まりの女神の眼前で、堕剣は大虐殺を行ったと?」


「普通に考えれば、そういうことになる」


「どういうことですか? 始まりの女神が、なぜそんな蛮行を見逃したのでしょう? そもそも始まりの女神が堕剣から加護を奪い、世界から追放したのに」

 

「そうだね。おかしいんだよ。辻褄が合わない。始まりの女神の選択としては、明らかにらしくない」


 らしくない。

 アンジェラからすれば、その形容は軽すぎる。

 らしくないというよりは、ありえない。

 心優しい、人類の守護者である“第一柱”始まりの女神ルーシーが、目の前で無辜の民が虐殺されることを見過ごすはずがなかった。


「でも思えば、最近、らしくないことがもう一つあった」


「始まりの女神に関してですか?」


「そう。いや、そもそも、最初から、今思えば、おかしいんだよ」


「最初から?」


 とん、とん、とサウロが自らの形のいい顎をリズミカルに叩き出す。

 それは、彼が推理をするときの癖だった。

 アンジェラは本能的に悟る。

 おそらく今自分は、耳にしてはいけない仮説を聞かされているのだと。


「始まりの女神は、どうして、堕ちた剣聖ネビ・セルべロスを殺さず、加護の剥奪のみで止めた?」


 加護の剥奪と追放。

 確かに、始まりの女神は堕剣をすでに一度見逃している。


「……それは、やはり心優しい始まりの女神は、命を奪うことまではできなかったのではないですか?」


「まあ、僕も最初はそう思っていたよ。だけど、その甘さが人類や神々に後々、害となる可能性が思い付かないほど、始まりの女神は愚かじゃない。本当なら、殺すなら殺す、救済するなら救済する。どちらかを選ぶべきだった」


 でも、そうしなかったのは、なぜか。

 一つ目の、違和感。

 順序立てて、サウロは推理を続ける。

 この論理的思考の先に何が待ち構えているのか、アンジェラにはまだ見えていない。


「そして、最近の、始まりの女神らしくないこと、それは分かる?」


「始まりの女神に関して言えば……やはり“福音ゴスペル”でしょうか」


「正解。あの福音。明らかにこれまでとは毛色が違った。口調から内容まで、全てが、らしくない。まるで別人の言葉みたいだ」


「別人、ですか?」


 堕剣ネビは死んだ、その言葉から始まった始まりの女神の福音ゴスペル

 前半部分も勿論だが、後半部分の最序列の神々へ向けられたメッセージも衝撃的な内容だった。


「堕剣ネビの命は見逃したのに、堕剣に手を貸した神には神罰と称して、死を持って神の座から降ろす。これは辻褄が合ってないよ」


 “最序列の神々は、全員始まりの女神ルーシーの下に集え。この福音に従わなかった者は神としての権利を剥奪し、神罰を下す。堕剣ネビに手を貸した愚か者として、死を持って神の座から降ろす”。

 その福音は記憶に新しい。

 確かに内容だけでなく、口調にも違和感があるのはアンジェラも薄々感じ取っていた。


「そしてアンジェラさん、思い出して欲しい。要塞都市ハイゼンベルトで、堕剣が何を企んでいたのか」


「要塞都市? 有力な加護持ちを自らの手駒にしようとしたのではないかという疑惑の話ですか?」


「そう。堕剣ネビの洗脳能力についてだよ」


「……ま、まさか。いや、それは、さすがに」


「アンジェラさんも気づいた? 一つの、仮説に」


 ヒヤリと、首筋に刃物を当てられたような錯覚すら覚える。

 サウロが言わんとしていることにやっと気づいたアンジェラは、吐き気すら催す。

 それは、あまりに危険な仮説だった。


「ここで、さっきの僕と堕剣が同類だっていう話に戻る。つまり彼にとっても、今回の大虐殺は、ただの過程ステップだったということさ。おそらく、試したんだ。どこまで、、をね」


「要するに堕剣は、ということを言いたいんですか?」


「ご名答。それなら、すべて辻褄が合うんだよ」


 僅かに、肩が震える。

 それが寒さのせいか、それとも恐怖のせいか今のアンジェラには判断がつかない。


「要塞都市で、堕剣は剣姫タナキアの洗脳にすら成功しているようだった。神下六剣すら洗脳できるほどの力だ。始まりの女神にすら届いてもおかしくないよ。おそらく、僕の推理では、最初に一度始まりの女神に洗脳を試した結果失敗し、加護の剥奪に繋がってしまった。しかし、命までは奪われなかったことから、最初の時点である程度は堕剣の支配が、始まり女神を蝕むことに成功していたんだろうね」


「そしてこの宗教都市で、二度目の洗脳を仕掛けて、成功したと?」


「つまりは、そういうことになる」


 これが事実だとすれば、世界は想像以上に追い詰められていることになる。

 始まりの女神は、堕剣の手に落ち、今や最序列の神々同士で争う事態になっている。

 これも全て、堕剣の計画通り。

 アンジェラに戦慄が走る。

 あまりに邪悪で、先見の明がありすぎる。

 もはや知謀だけでいえば、神の領域に届いている気がした。


「で、では、試した、というのはまさか……」


「ああ、僕が思うに、この大虐殺をしたのは、堕剣じゃない。始まりの女神だよ。彼が、彼女に、殺させたんだ。どこまで支配できるのかを、試すために。殺すことに自体に、堕剣は興味はないよ、きっと。ただ、始まりの女神が本来なら決してしないようなことを強制させてみて、効果を試しただけなんじゃないかな」


 始まりの女神が、宗教都市アトランティカの大虐殺を行った。

 堕剣の洗脳によって、始まりの女神は堕ちてしまった。

 サウロは、どこか青い瞳に輝きを宿して、口元を歪める。


「さてさて、アンジェラさん。これからどうしようか? この推理に辿り着いてるのは、おそらく僕らだけだ。堕剣はもう、王手チェックをかけてる」


「……はぁ。最悪です。その推理が外れてることを祈るばかりです」


「そうだね。僕もそう願ってるよ」


 サウロの推理に、矛盾はない。

 これまでの全てが、綺麗に繋がる。

 絶望的な気分で、アンジェラは頭痛がしてきた額をさする。



「号外! 号外ー! 号外だよー! 今度は歓楽都市マリンファンナが完全崩壊だー!」



 すると遠くから、やけに耳に残る声が聞こえてくる。

 サウロが意味深に視線を送る。

 その青い視線から逃げるように、アンジェラは真っ白な雪が積もった宗教都市の街並みに瞳を向ける。



「実は僕らも洗脳済みで、堕ちた夢の中にいるのかもしれないね」


「どうりで肌寒いと思いました」



 白い吐息を風に乗せて、アンジェラは悪い夢から覚めるようと強く瞳を閉じるが、ただただ冷たい風が身に染みるばかりだった。

 

 

 



 

 

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