殺神
ずっと窮屈さを感じていた。
第三柱“
神々の時代。
変わらない平穏。
変わり映えのしない永遠の日々。
それは彼にとっては、監獄と同じだった。
平和という名の下に、鎖で繋がれていたのだ。
『人は殺せない。神も殺せない。魔物を殺すのは俺たちの役割じゃない。じゃあ、俺は一体、何を殺せばいい?』
溢れんばかりの殺意。
その矛先を、誰も教えてはくれなかった。
ただ、ただ、殺意だけが燻り続ける。
そんな窮屈な日々で、パイモンは孤独に縛られ続けていた。
『やっほー、パイモン。君は何が好きなの?』
『殺すことだ』
『だめだよパイモン! 即答しちゃ! もっと迷わないと! でもパイモンのそういうところ好き!』
だがある日、数秒毎に色を変える虹色の瞳をした神が、パイモンにそう嘯いた。
殺意だけを宿すパイモンに人は怯え、神は距離を置き、魔物は寄りつかない。
それでも気まぐれな変わり者の神が一人だけ、時々彼に夢を語るのだった。
『でも好きなことができないのはつらいよね! わかったよパイモン! うちが叶えてあげる! 君の夢を叶えるよ! だってうちは神だからね!』
その神だけが、殺意を肯定してくれた。
だからパイモンは、証明する。
神々の時代は、永遠ではないと。
混沌こそが、迷いこそが、殺意を肯定するのだと。
『だからパイモンは、代わりにうちの夢を叶えてね? だって君も、神なんでしょ?』
———
「わかった。いいじゃろう。来い、パイモン。遊んでやろう」
アスタは構えを取りながら、パイモンの動きを観察する。
しかし途中で、相手の出方を伺う自分に驚き、アスタは笑ってしまう。
本来彼女は相手に合わせるような戦い方ではない。
(知らぬうちに、あの馬鹿の錆が
ただ、それは嫌な感覚ではなかった。
これまで生きてきた時間に比べれば、その赤く錆びた人間と共に過ごした時間は決して長くはない。
それでも、色濃く、刻まれている。
どれもこれも、今思えば、愉快な記憶。
だから少しだけアスタは残念に思った。
これ以上、錆が広がることはないということに。
「ああ、今、殺してやる」
「ほざけ」
雨粒が、弾け飛ぶ。
漆黒の装束を纏ったパイモンが、一直線に突っ込んでくる。
アスタは素早く周囲に目配せ。
ここは歓楽都市マリンファンナの裏路地。
主人を失ったこの街は今や都市機能を失い、人間以外にも野犬なども入り込む無法地帯と成り果てていた。
人間世界の知識が乏しいアスタの知る、数少ない身を隠すのにうってつけな人の街。
多少は壊しても、問題ない気がした。
「歯食いしばれ、小童」
「あん?」
パイモンの力任せの一撃。
それは奪われていた力を取り戻したアスタには、届かない。
伸ばされた腕を要領よく掴むと、勢いを利用して背負い投げをする。
「そぉれぇっ!」
「ちっ」
流れるような動作。
小柄なアスタが大柄なパイモンを勢いよく放り投げる。
暗くなり始めた歓楽都市マリンファンナ。
オレンジ色のネオンの看板に衝突するパイモン。
薄闇に、バチバチと電熱光が迸った。
「どうした。その程度か? 遊びにもならんぞ?」
「殺す」
火花が散る半壊した建物の上から、パイモンが大きく跳躍する。
先ほどより動きは鋭い。
轟。
落雷のような勢いで、蹴りを繰り出し、足裏で地面を砕く。
それを滑らかな動きで掻い潜ったアスタは拳を構え、無防備なパイモンの腹部に打ち込む。
「掌底」
「がっ……!」
パァンッ、と空気が破裂する音。
パイモンの身体が宙に浮く。
だが、吹き飛ばされる前に、再び力強く踵を地面に踏み込ませる。
殺神の無機質な黒い瞳が、アスタを捉える。
「《
瞬間、雨が雪に変わった。
ひやりと頬を撫でる、あまりに冷たい風。
アスタは本能的に距離を取ろうとするが、足元に力が上手く伝わらないことに気づく。
「なんじゃ?」
白銀の瞳に映る、凍りついた大地。
気づけば、足元が凍っている。
下手に踏み込めば、足が滑る。
舌打ち一つ。
パイモンが拳を握り締め、思い切り振り抜く。
「ああ、いいね。やっと温まってきた」
重いパイモンの一撃。
腕を構え防御には成功するが、足元に力を込められないこともあって、アスタは痛烈に吹き飛ばされる。
パラパラ、パラパラ。
雨に土煙が混じる。
壁を壊しながら、途中の電灯を掴み、そこでやっと止まる。
とんとん、とつま先で地面を叩く。
「……私も随分なまっているようじゃ。そうじゃな。やっと温まってきたところじゃ」
毒々しい青い煙が立ち昇る街。
大通りまで吹き飛ばされ、周囲は流石に人目に付き出す。
しかし剣呑な雰囲気に気付いたのか、蜘蛛の子を散らすように人々は逃げ去っていく。
「殺せば、動かなくなる。動かなくなったら、殺せたってことだ。お前はまだ動ける。つまり、まだ殺せてない。じゃあ、殺さないとな?」
真っ黒な長髪を揺らしながら、煙の向こうからパイモンが姿を現す。
身体の芯まで凍りつくような冷気を全身から漂わせ、彼の周囲の雨だけが雪にへと変わる。
「私を止めることはできん。止まることは、許されん。あの日、そう誓ったのじゃ」
空気を切り裂き、アスタは駆ける。
ピキピキと空気が凍りつく音がする中で、まずはパイモンの足元に向かって掌底を打ち込む。
爆発音と共に衝撃で盛り上がる地面。
宙に浮く破片。
刹那、それら全ては殺意の氷片に変貌する。
「《
「そうじゃ。もっと抗え。さもなくば私を妨げられんぞ」
自らに向かってくる衝撃波を、一瞬で凍り付かせるパイモン。
パキィと、すると背後から聞こえる氷面を踏み割る音。
振り返る余裕は、ない。
感覚だけでパイモンは氷山を後方に生み出す。
「足りん足りん! ほれ! もっと気合いを入れんか小童!」
「奪う。その熱。殺す」
両手を広げ、パイモンは自らの中に眠る殺意の波動を一気に押し出す。
歓楽都市のネオンが、創り出した氷の波にギラギラと反射する。
竜巻のように渦を捻りながら、莫大な量の絶氷がアスタを捉えようと広がっていく。
それを風のような速さで、アスタは逃げ駆ける。
小柄な身体に見合った、軽快なフットワーク。
建物の壁を走り抜け、宙を舞う氷の破片を上手く捉えて、飛び跳ねる。
「悪いのう。年季が、違うのじゃ」
氷の監獄の世界で、アスタは思い出す。
ほんの少し前まで自分も、この雪降る白銀の世界に一人、取り残されていたことを。
止まっていた時計の針は、あの赤い錆が進め始めた。
迫り来る、氷の刃。
それを掻い潜り、アスタはパイモンの前まで駆け抜ける。
力は、戻った。
誓約は、もう消えた。
つまり、剣がなくとも、もうアスタは戦える。
それは嬉しくもあり、少しだけ、寂しくもあった。
「……もうお主がいなくても、私は前へ進める。ありがとう、ネビ。そしてお別れじゃ、我が剣よ」
「終わりだ。殺す」
パイモンが構える。
殺神の氷の波動が、眼前で解放される。
回避するには、近すぎる。
周囲は全て、氷の壁で囲まれている。
しかし第七十三柱の神は、その程度の現実ならいくらでも上書きすることができたのだ。
「終わりではない。ここからは私一人でやり直す……《
世界が、歪む。
アスタを捉えて永遠の牢獄に閉じ込めようとしていた氷は、一瞬で全て消失する。
気づけば構えは解かれ、パイモンは無防備に棒立ちしている。
「……あ?」
パァン、とまた空気が破裂した。
今度は、完全な直撃。
アスタの掌底。
凄まじい衝撃が、パイモンの体内の内側で爆発する。
内臓が傷つき、吐血する。
「がっ…はっ!」
一瞬、完全に意識が飛んだ。
知らない間に視線が、冷たい雨降る夜空に向けられている。
自分が仰向けになっていることに遅れて気付いたパイモンは、激痛に咳き込みながらゆっくりと上半身をあげる。
「……ほお? 新手か。そうじゃな。それで、いい。そうでなくては、身体が冷えたままじゃ。今度こそ始まりの女神を殺すための、ウォーミングアップにならん」
なぜかアスタの白銀の瞳は、パイモンの背後に向けられていた。
違和感に第三柱の神は、後ろを振り返る。
そこに見えたのは、雨と雪が混ざり極彩色のライトが点滅する夜に、負けないほど派手なショッキングピンクの髪をした女が一人。
虹色の瞳は、数秒ごとに色を変え、決して定まることはない。
「やっほー、パイモン! ルーシーに言われて君のことを殺しにきたよ! でもでも、あっちにいる子も確かルーシーを裏切った子だよねっ!? どうしようかな!? どっちを殺せばいいのか迷っちゃうのですますまる!」
第七柱“迷神セーレ”。
好奇心に満ちた笑顔で、自分の頬を指でつつきながらセーレは楽しそうにはしゃぐ。
嬉しそうに口角をあげるセーレの隣には、背の高い紳士も一人見える。
「これは随分と、厄介なことになっているようですね」
第五柱“忠神ハーゲンティ”。
整えられた山羊髭を撫でながら、理知的な瞳で状況を伺っている。
そんなどこからともなく現れた最序列の神々の同胞を横目に、パイモンはゆっくりと立ち上がる。
「迷うことなんて、何もないだろ」
第三柱“殺神パイモン”。
そして彼の殺意はまだ凍りついていない。
「セーレ、お前は俺につけ。当たり前だろ。相変わらずお前が何を言ってるのか理解不能だが、それは決定事項だ。俺とお前で、全員殺すぞ」
「えぇー!? パイモンほんっとにジコチューだね! でもそういうところ好き!」
「……私は無視ですか? まあ、構いません。私にも確かめたいことがあります。とりあえずは一旦、パイモン様につくとしましょう」
霞に似た白い息を吐きながら、パイモンはアスタを見据える。
迷いはない。
相手が誰だろうと、関係ない。
順番もない。
ただただ、殺意があるだけ。
「殺すさ。お前は、殺していいんだ。そうだろう?」
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