【始まりの加護】


 父を除く、最後の悪魔が死んでから、一年が経った。

 暗く澱んだ曇り空の下で、アスタは自らの父が人間を使って作らせた街を丘の上から眺めている。

 大きく外側を水路で円形に囲み、石床の道路を八芒星のような形で繋いだ創世神の社。

 白銀の瞳を落ち込ませながら、静かにアスタはただ立ち尽くしていた。



「そろそろ時間よ、アスタ」



 そんなアスタの小さな背中に、控えめな声がかかる。

 顔だけを振り返らせてみれば、そこには金髪を風に泳がせる女が一人立っていた。

 どこかアスタと似た光を秘める青い瞳。

 今や彼女を除く唯一の生き残りとなった妹のルーシーだった。


神の御業デモンストレーション、か。反吐がでる」


 創世神エル。

 世界に自らを呼ばせるようになった悪魔ちちおやが、他の悪魔全てとアスタのルーシー以外の兄弟を全て虐殺してから約一年。

 今や世界はエルの支配下に置かれ、唯一の生き残りとなったアスタとルーシーに関してもおおよそ自由と呼べるものはなかった。

 この日も創世神エルから、見せ物があるから足を運べと命を受けていて、逆らうという選択肢は存在しなかった。


「今は耐えて、アスタ」


「今だけで、済むのじゃろうか」


「ええ、言ったでしょう。策はある、と」


 策はある。

 ルーシーはいつも、創世神エルの統治が始まる前の戦乱の時代からずっと、策はあると言い続けていた。

 創世神エルという怪物を殺すための策。

 だがいまだにエルは健在で、暴虐の日々を続けていた。


「とにかく今は急ぎましょう。エルに従う以外に術はない。遅れたら、殺されるわ。あの人は、気まぐれだから」


「そうじゃな。今はお主以外に信じられる者は誰もいない。ルーシーだけが私の生きる希望じゃからな」


「ふふっ。ありがとう、信じてくれて。私にとっても、アスタだけが、生きる希望よ」


「虐げられている者同士慰めあっても仕方あるまい。行くぞ、ルーシー」


「ええ。行きましょう。私の可愛いお姉ちゃん」


「ふんっ、戯けが。姉を揶揄うでない」


 アスタは小さく笑う。

 ルーシーも優しく微笑む。

 それは最悪の世界で、唯一の希望。

 最後の慰めとも言える妹を連れて、彼女は丘を下っていくのだった。

 


 



 酷く、酸えた匂いがした。

 まともな服さえ与えられず、布切れ一枚身体に纏うだけで寒さに凍える、痩せ細った人間たち。

 生きる屍にしか見えない街の人間たちが、死んだ瞳でアスタとルーシーを見るたびに枝のような手で祈りを捧げていた。



「よお、ビュルルゥ。どうだ? 絶景だろォ?」



 ばち、ばち、と火が焚べられていた。

 苦しそうな悲鳴が街の中心に響いている。

 石床の広場の中央。

 規則正しく並べられた九つ木製の柱。

 そこには生きたまま火炙りにされた人間が九人。

 苦悶の表情で、肌を炙られ、焼け溶けた皮膚の裏側から臓器がこぼれ落ちていた。


「ワラァ〜! サプラーイズ! パパからのプレゼントってことだ。お前らに家族を創ってやるよ。嬉しいだろ? 嬉しいに決まってるよなあ? 前から一度、ヤってみたかったんだよなあ」


 生き地獄を与えられ、涙を流しながら燃やされる九人の人間の前で、邪悪に笑う一人の男がいる。

 創世神エル。

 同胞全てを殺した、邪悪な悪魔の最後の生き残り。

 そしてアスタとルーシーの、実の父親だった。


「契約と対価による命の創造だ。生殖以外で生命を生み出すのは、俺でも初めての試みさ。さてさて、犯しがいのある命は生まれるかなあ?」


 ただの好奇心。

 自らの欲求を満たすためだけに、九つの命を火に焚べている。

 エルは指腹を自分の牙で小さく裂き、九つの柱の下方に刻まれた複雑な紋様に血を垂らす。


「これが、“神の御業デモンストレーション”、さ。唆るだろう? なあ? アスタルテ? ルシフェル?」


 火の勢いが一層強く増す。

 炎は黒く染まり、エルの黄金の瞳が歓喜に輝く。

 戒めと言わんばかりに、アスタはその光景を歯軋りしながらも見つめる。

 懺悔をするように、ルーシーは下唇を強く噛み締めながら俯く。


「ほらほら、産まれるぜぇ? 俺の血を媒介にした、創り物の命だ。ある意味、お前らの歳の離れた兄弟みたいなもんかもなあ?」


 黒い炎が、血肉全てを焼き尽くして、磔になった九人の人間が骨だけになった。

 するとその柱の下に、小さな赤ん坊が九つ産み落とされていた。

 黒い血に塗れた赤子たちを見ると、しかしエルは少し不機嫌そうに舌打ちする。


「あ? なんだよ。ガキじゃねぇか。てっきりある程度成人した状態で創れると思ったんだけどな。これじゃあ、犯せねぇじゃねぇかよ。ダリィな。所詮、試作品トライアルか。今度創る時は、もっと大量の人間クズを燃やした方がいいのかなあ?」


 産み落とされたばかりの赤子の内の一人の頭を鷲掴みにすると、そのまま一旦宙に浮かべた後、エルは何の躊躇もなく地面に思い切り叩きつける。

 ベギ、と言う醜い音。

 咄嗟の出来事にルーシーが反応しそうになるが、アスタが咄嗟に腕を取り、止めさせる。

 

「お主の気持ちはわかっておる。だが、今は耐えるのじゃ、ルーシー」


「……くっ!」


 地面に叩きつけられた赤子は、額を軽く切ったように僅かに血を流すだけ。

 前触れのない暴力を受けた赤子は、何が起きたのか理解できていないようで、小さな瞳をゆっくりと瞬きさせるだけだった。

 それを見たエルは、ヒュウと口笛を鳴らして、少し機嫌を直していた。


「へえ? ガキの癖に丈夫だなあ? 試作品とは言っても、俺の血を混ぜただけあって、ある程度はマシな作りになってるわけか。いいな、お前。その呆けた面が気に入ったぜ。お前の名前は、今日から“ベリアル”だ」


 かつて自分で命を奪った同胞の名を、産まれたばかりの赤子に名付ける。

 彼に敬意はない。

 あるのは悪意だけだった。


「なんだろうなあ? 何の差だ? 血の量の違いか? 性別も、外見も、案外バラバラだな。キャハハッ。なんか気持ち悪りぃ。お、このガキ、性格悪そうな顔してんなあ? お前の名前は“ダンタリアン”だな。そんでもって生意気そうなこいつは“オセ”。ん? こっちのガキは少し俺に似てるじゃねぇか。特別に“バエル”って名前にしよう。お気に入りだ。もう少し大きくなったら、最後に殺してやる」


 意気揚々と、自らの手で滅ぼした同胞たちの名前を赤子に名付けていくエル。

 これは、ただの戯れ。

 世界を支配した悪魔が、文字通り命を弄んでいるだけだった。


「外道が」


 アスタは小さく呟く。

 怒りに、手が震えた。

 しかし、今はまだ、その時ではない。

 ここで無策で挑んで勝てる相手ではないことは、彼女自身が一番に身をもって知っている。


「おい、アスタルテ、ルシフェル。こいつらの面倒を見とけ。育ったら、俺が犯して殺すからよ。それまで生かせ。なあに。時間はたっぷりある。楽しみはとっておかないとなあ?」


 一通り名付け終わると、それで満足したのか、骨だけが残った九つの柱を蹴り折る。

 崩れる、柱。

 煤が舞い、木屑が床に散らばる。

 エルはそのまま舌舐めずりをしながら、アスタとルーシーの横を通り過ぎる。


「心配するな。お前ら二人を殺すのは、そのもっとさらに後だ。楽しみだなあ?」


 ふっとエルが耳に息を吹きかけ、アスタは屈辱に耐えたが、ルーシーは恐怖で少し肩を動かしてしまう。

 それを見たエルは心底愉快そうに笑い、そのまま歩き去っていった。

 残されたのは、九つの新しい命と、何をするでもなく無気力に沈黙を続ける人間のたちだけだった。


「……ルーシー、大丈夫か?」


「……ええ、大丈夫よ。私は、強くなる。大丈夫。大丈夫。今度は私がアスタを守れるくらい、強くなる」


 心配そうに妹の横顔を覗くアスタ。

 先ほどまでの怯えはまだ残っているようだが、それ以上の憤怒が滲み出している。

 覚悟を決めたような、強い青の瞳。

 前だけを見据え、アスタの方を向くことはない。


「大丈夫。私が守ってみせるから」






 何かが、変わってしまった気がした。

 いまだに創世神エルに支配された世界。

 人間の住む街から少し離れた場所で、アスタは血の匂いを嗅いでいた。


「chichichichichi」


「あ、あ、アアアアアアアア!?!!?」


 脇腹を切り裂かれ、首の骨がへし折られる。

 両刃の剣を持った人間が一人、死んだ。

 その死骸に齧り付くのはでっぷりと太ったネズミのような魔物ダーク

 ネズミの魔物が肩のあたりに食いつくと、先ほどまで握られていた剣が忽然と消失し、それをアスタはぼんやりと見送る。

 


「ダメね。また、壊れた。せっかく加護を与えたのに、弱すぎるわ。この程度の魔物も殺せないなんて」



 白い剣閃が、走る。

 断末魔を上げる暇なく、容易く両断されたネズミの魔物の背後から金髪碧眼の美女が姿を現す。

 アスタのたった一人の妹である、ルーシー。

 ルーシーの背後にはまた別の人間の男がいて、怯えた表情で死臭を放つ遺体に視線を送っていた。


「……ルーシーよ、これをいつまで続けるつもりなのじゃ?」


「いつまで? 決まっているわ。終わるまでよ。全てが」


 アスタが不安そうに声をかけるが、ルーシーはそれを冷たく突き放す。

 自らの身体が血で汚れることも厭まず、人間と魔物の死体を蹴り払う。

 青い目の下には黒い隈ができていて、どこか病的な印象を受ける。


「まあでも、仕方がないわね。繰り返すしかない。成功するまで、続けるしかない。私は弱いから、強くならないと」


「……あ、あの、ルーシー様。わ、私は一体何を……?」


「言ったでしょう? 私から、加護を与えるわ。名誉なことよ。これであなたは“加護持ちギフテッド”になれるのよ?」


「加護持ち、ですか? 一体それは……?」


 ルーシーが、作り物の微笑みをつくりあげる。

 その偽物の笑顔が苦手だったアスタは、またいつものように目を逸す。


「魔神ルシフェルの名をあらとして、ちぎたまわれ。加護承継」


 黄金の風が靡き、白い光が人の子へと吸い込まれる。

 先ほどまで緊張した面持ちだった人間の男は、見る見るうちに溌剌とした表情に変わる。

 加護を授ける時だけ、ルーシーは自身の名を魔神と呼んだ。

 アスタはそれが、酷く嫌だった。


「な、なんだっ!? 身体が軽いです! 全身から活力が漲るような!?」


「それが加護よ。あなたは選ばれし者。加護持ち。どう? 嬉しいでしょう?」


「は、はい! ありがとうございます! ルーシー様!」


 人間の男が心酔するように目を輝かせる。

 ルーシーは一見それに穏やかに対応しているように見える。

 しかし、アスタには理解できてしまっていた。

 今、彼女の妹の心の中を占めるのは燃えるような憤怒だけだと。


「じゃあ、剣を握って?」


「……え?」


 ルーシーの声のトーンが、僅かに低くなる。

 人間の男が困惑に口を半開きにする。

 やがて背後から迫る魔の気配に気付いたのか、慌てて男は振り返る。


「chichichi」


「魔物!?」


 先ほどルーシーが殺した魔物と同種の別個体。

 血の匂いと人間エサの声に寄せられたのか、鋭利な歯を見せてヨタヨタと近づいてくる。


「ほら、剣よ。あなたの“剣想イデア”を見せて。私から始まりの加護を受け取ったんだから、できるはずよ」


「剣想? す、すいません。ルーシー様、言っている意味が……」


「モタモタしてると、死ぬわよ?」


 剣想。

 与えた加護を、剣の形にして具現化したものをルーシーはそう呼んでいた。

 それは、最低限の資質。

 ルーシーの駒となるための最低条件だった。


「chichichi」


「う、うわああああ!? ルーシー様! 助けて——」


 ——グギョ、と悲鳴が途中で掻き消される。

 逃げようとした背後から、喉元をネズミの魔物に噛み砕かれ、一瞬で絶命してしまったのだ。

 それを無感情に見守っていたルーシーは、一つため息をつくと、また白い剣で魔物の首を刎ねた。


「はあ。そもそも剣想すら出せない人間の方が多いのも非効率に拍車をかけてる。これじゃあ、幾ら時間があっても足りないわ。それに一々全員に加護を与えて回るのもいい加減面倒ね。何かもっと別の加護を与えるシステムを考えるべきかもしれない。何かの契約と対価で、加護を与える役割持つ場所、あるいは偶像を創り出す? あとは定期的にそこに人間が向かう慣習を作り出して……いや、いっそのこと子供が生まれる時点から加護を与えるようにした方が楽なのかしら……」


 ブツブツとルーシーは誰に語るわけでもなく、独り言を呟き続ける。

 何かが、変わってしまった気がした。

 創世神エルが試作品トライアルと呼ばれる生命を創り出してから、一年が経とうとしていたが、あの日から段々と妹との距離が離れ始めている気がした。


「ルーシー、本当に、大丈夫なのじゃな?」


「……もちろんよ。私は、大丈夫よ」


 アスタが肩を叩いて、そこでやっとルーシーは顔を上げてハッとした表情をする。

 疲れたように笑うと、小さく首を振る。

 昔のよく知る妹の気配に戻り、アスタは少し安堵する。


「少し休め、ルーシー」


「そうね。ちょっと疲れたわ。休憩しましょうか……そういえばアスタ。聞いた? また“神の御業デモンストレーション”を、あの男が行うらしいわ」


「ああ、聞いておる。今度は質より量とかなんとか言っておったな」


「今度は何人殺すつもりかしらね」


「……どの口が言っておる」


「え? あー、確かに、そうね。言われてみれば、今の私は、あの男とあまり変わらないのかもしれない。皮肉なものね」


 寂しそうに、ルーシーが目を細める。

 自らの好奇心のために、数え切れない人間の命を対価として贄に捧げる創世神エル。

 優れた兵士を育てるために、人間の命をふるいにかけ続けるルーシー。

 両者に大きな違いがあるのか、アスタにはわからなくなりそうだった。


「ねえ、アスタ。前に神々の時代の話をしたの、覚えてる?」


「当然じゃ。あの男を殺した後の夢物語のことじゃろう?」


「夢、とは言ってないわ」


「夢、といっても、希望の方じゃ」


「ふふっ。ならいいけど」


 いつかの静かな夜。

 ルーシーが語ったことがあった。

 創世神エルを、討った後の世界のことを。


「あの試作品たちも、私たちの仲間にしようと思うの」


「そうじゃな。神々というくらいじゃ。二柱じゃ寂しかろう」


「私達や試作品や、また新しく生まれる殺される運命の命があれば、それも仲間に加えましょう。そうね。数は、七十二……いえ、一歩未来に進んだ象徴として、七十三の神々にするのはどう?」


「悪くない。また少し、夢に色がついた」


 それは色鮮やかで、美しく、綺麗な夢だった。

 凄惨で救いようのない日々を生き残るために必要な輝き。


「でも迷うわね」


「何をじゃ?」


「私とアスタ、どちらを一柱にするか」


「ふっ。何じゃそれは。第一柱の座は譲ろう。私は第二柱でいい。ただお主の魔神とかいう呼称はやめておけ。私は好かん」


「ふふっ。そう? アスタらしいわね。でも、アスタが、お姉ちゃんが第二柱っていうのは、私が嫌なのよね」


「我儘な妹じゃのう」


「生意気な姉に似たのかしら?」


 悪戯な表情で笑うと、アスタも口角をあげる。

 穏やかな時間が二人の間には満ちていて、これが永遠に続けばいいと思った。


「なら、こうしましょう。私が始まりの女神で、貴方が終わりの女神。数字は一と七十三にしましょう。私が最前の数字で、貴方が最大の数字を冠するの。これで、対等に偉大でしょう? 最初の女神“ルシフェル”と最後の女神“アスタルテ”。世界の終わりも始まりも、私たち次第」


 いいことを思いついたと、ルーシーがパッと顔を明るくさせる。

 大人びすぎてしまった妹の、久しぶりに子供っぽい表情が見れて、アスタは嬉しくなった。


「ああ、そうじゃな。そうしよう。第七十三柱の神、か。うむ。悪くない」


「ね? いいでしょう? 頼んだわよ、終わりの女神様。始まりの女神の尻拭いはお願いね?」


「ふっ。戯けが。手間のかかる妹じゃ」


「ふふっ。ありがとう。世話焼きな姉で助かるわ」


 始まりと終わり。


 アスタにとっては、ルーシーの存在こそが、もっとも大きな加護めぐみ



 愛する妹ルーシーさえいれば、この救いのない世界でも夢を見れる気がしていた。

 

 

 

 

 

 

 


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