狂神
物静かな深夜。
連合大国ゴエティアの中でも、最大規模の市街面積を誇る中央都市ハイセントラルの最北。
そこには全層図書館と呼ばれる人類のありとあらゆる歴史や知恵を書物や絵画書として保管されている場所がある。
この全層図書館は幾つかのエリアに区分されていて、一般市民に解放されている第一層、軍部や王家、
そんな全層図書館の最深である神層で今、一人の少女が退屈そうに欠伸をしていた。
頭から生えた真っ赤な二つの羽根。
目元が黄色く化粧された彼女の名は第六十一柱“渾神カイム”。
裏切りの神として今や狂神と呼ばれるようになった、堕剣ネビの最大の支援者とされる神だった。
「めちゃめちゃ暇。ネビ、まだかなー」
全層図書館の神層に本来入る資格を持たないカイムは、第八柱“廃神ダンタリアン”の手引きによって不法滞在をしていた。
廃神からメッセージは一つ。
“堕剣ネビの到着を待て”。
その唯一の指示を胸に、カイムは一人で孤独に退屈を持て余しているのだった。
(まあ確かにここはいい隠れ場所だよね。さすがダンタリアン様。性格鬼悪そうだったけど、頭はいい。短期間の隠れ家としては、かなりピッタリ。だってここ、最序列の神々様と神下六剣しかこれないもんね。ほぼ誰かに見つかる可能性はゼロってことだもん)
全層図書館の無制限閲覧権を持つのは最序列の神々と神下六剣のみだが、頻繁にここを訪れるような物好きはカイムには思いつかない。
最序列の神々は人類の知識に興味を大きく持つことはなく、神下六剣に関しても基本的には魔物狩りの専門家のため書物に関心は薄いはずだった。
「というか今、みんな何してるのかなー。なんかうちだけ放置されてるってことないよね? ネビは勝手に死んだことになってるし。マジ状況謎すぎるんですけど」
グッと一度身体を伸ばした後、カイムは黒い木製のテーブルに頬杖をつく。
始まりの女神からネビが死んだという
しかし元々ネビと別れ、廃神ダンタリアンの下へ向かうよう促された際に、ネビ或いはアスタの訃報が届く可能性を聞かされていたため、驚きはそこまでなかった。
何がどうしたら一度死んだ話になってしまうのか不思議ではあったが、ネビの話す内容を深く詮索しても碌なことにはならないと経験則で知っていたため、詳細を尋ねなかったのだ。
「……ん? 誰か、きた?」
ネビが訪れたらすぐに気づけるように、全層図書館神層の入り口付近にいるカイム。
彼女は空気の流れが僅かに変化したことに気づく。
椅子から立ち上がり、期待を込めて意識を集中する。
コツ、コツ、コツ。
薄らと聞こえる、控えめな靴の音。
自らに似た神々のような、気配はしない。
(まずい)
一瞬明るくなりかけたカイムの顔色が、そこで曇る。
この時点で、計画は崩れ去った。
ネビがここにくるとしたら、すでに神下六剣の座を剥奪されているため、廃神ダンタリアンなど最序列の神々の手引きが必要なはず。
それにも関わらず、単独でここに辿り着ける神以外の存在。
この世界において、そんな人間はたったの五人しかいないはずだった。
「こんなところで誰を待ってるんだ? 狂神カイム」
想像していたよりは、穏やかな声だった。
踊り場のようになっている階段上部から、背の高い男がカイムを見下ろしている。
男性にしては少し長めな、毛先のうねった金髪。
端正で彫りの深い美麗な相貌。
エメラルドグリーンの瞳からは聡明さが覗く。
剣聖が堕ちた今、
“剣王”アガリアレプト・ベッキー。
人類最高の称号を持つ、神下六剣の一人が身軽な動作で、鮮やかに飛ぶ。
羽織っただけの胡桃色の外套を翻し、カイムがいる床に降り立つ。
冷や汗一つ。
カイムは本能的に察知する。
彼もまた、人外。
堕剣ネビと同様の、神すら脅かす危うい力の揺らめきが目に見えるようだった。
「わ、わ、わ、あはは。ひ、久しぶりだね、アガリアレプトくん。えーと、その、元気?」
「ああ、おかげさまでね」
自分は指名手配中の神で、相手は神下六剣。
どう考えても趣味で読書をしにふらっと寄ったわけではない。
必死に作り笑いを浮かべてみるが、剣王アガリアレプトの鋭い視線から逃げることには役に立たない。
「カイム。あんたに聞きたいことがあるんだ」
「は、はい! なんでしょうか!?」
何かを探すように、周囲に緑の視線を泳がせるアガリアレプト。
明らかに、確信を持ってこの場に辿り着いていることは明らか。
そして彼の探し人と彼女の待ち人が同じであることも、カイムにはわかっていた。
約束の通りに、彼女は胸元にぶら下げていた首飾りを握り締める。
手のひらに、焼けるような痛みが走る。
でもそれだけが今の彼女の、生命線だった。
「ネビはどこにいる? まだ、死んでないんだろ?」
翡翠の瞳が、カイムを貫く。
その瞬間、首飾りを千切って、地面に思い切り叩きつける。
廃神ダンタリアンからの言伝。
『緊急事態が起きたら、これ壊したらええよ。おもろいこと、起こるかもしれん』
掌に残るのは、酷い火傷の跡。
首飾りの先に吊るされていた、何かの種のようなものはすでに砕け散っている。
僅かに、香る魔素の気配。
それは、合図。
堕ちた剣聖の亡骸に群がる、狂信者たちを呼ぶ鐘の音。
「オロオロオロ、混沌すぎて、泣いちゃった。集合の時間だ、魔神の子供たちよ……
開け、《
邪悪な声が、神層に響く。
突如カイムの頭上に、巨大な五芒星が描かれ、空間に切れ目が生じる。
真っ暗な歪みから最初に顔を出すのは、瞳がなく全身をブヨブヨとした白い肌で覆った怪物。
だらだらと涎を垂らしながら目も鼻も耳もない、奇妙な頭部が伸びてきた。
「gyaaaaaaaaaooooooooooo!!!!!!!!!」
それを醒めた目つきで見やるアガリアレプトは、静かに拳を握りしめる。
彼は他の加護持ちとは違い、
なぜなら彼のあまりに大きな力に、耐え切れないからだ。
「魔物が神の護衛、か。何も驚くことはないな。ネビと組んでるくらいだ。これくらい想定内。誰だってそうさ。あいつと関わりを持った奴は皆、人生が狂ってしまう。それは神ですら例外じゃない」
白い魔物の突然の出現にも、剣王アガリアレプトの表情は変わらない。
むしろ驚愕の表情で絶句しているのは、この魔物を呼び出したカイムの方だった。
「えぇえええええ!?!? もしかしてギャオちゃん!? どうしてここにっ!?」
「gyao!」
全層図書館の机を踏み壊しながら、床に降り立った怪物。
それをギャオと呼ぶカイムの隣に、また別の白い影が音もなく並ぶ。
「あれネビ様いないんだけどカイムだけとか聞いてないやる気なくなった戻っていいかな」
「ってわあ!? びっくりしたっ!? ノアちゃんもいるじゃん! え、なに、同窓会!?」
犬のように尻尾を揺らして本棚を破壊するギャオの横で、無表情で背筋よく立つ一人の少女。
腰にまで届く白い髪に、冷酷さを内包した紫紺の瞳。
“
要塞都市ハイゼンベルトで英雄として名を馳せた黄金世代の加護持ちだった。
「……俺も随分と舐められたもんだ。この程度で、本当に俺の相手になると思ってるのか? あいつがどこまで想定して仕組んだのかは知らないが、クールじゃないな」
予想だにしない増援にカイムが思考停止している間に、剣王アガリアレプトが溜め息を一つ吐く。
若干の怒りを込めた瞳で前を向くと、うんざりした様子で爪先を少し上げる。
「
突風。
気づけばアガリアレプトが拳を振り上げて目の前にいる。
カイムの悲鳴より先に、ギャオが腕を伸ばす。
——ゴギュ。
アガリアレプトの拳が衝突した瞬間、
トンッ。
腕を弾いて無防備になったギャオの腹部に、痛烈に殴打を叩き込む。
涎に血が混じる。
アガリアレプトの何倍もある巨躯が吹き飛ばされた。
「え、強すぎん?」
「染まって。【漂白】。そしてネビ様にまた染まる。その繰り返し」
吹き飛ぶギャオを横目に見ながら、ノアが自らの
状況整理に思考を割いている暇はない。
まずは目の前の怪物に、意識を全て注ぐ。
「待ちに待った出番みたいだが、悪いな。見せ場を作らせるつもりはない」
身体を半身にして、下方から斬りあげる。
相手の回避を前提にした初手。
しかしそれはアガリアレプトが人差し指を弾くだけで、いとも容易く打ち砕かれる。
「が、はっ!?」
「俺はネビとは違う。相手に合わせた戦い方はしないんだ」
崩れた体勢。
次の瞬間には、思い切り顎を拳で撃ち抜かれている。
揺れる脳天。
戦略を練る前に、意識が朦朧とし始める。
思考する暇すら与えられない、圧倒的な速攻。
剣王アガリアレプト・ベッキー。
神下六剣の枠組みにいる彼の前に立つことが許されるのは、ほんの一握り。
何とか倒れることなく踏みとどまったノアを一瞥すると、一切の迷いなく脇腹を蹴り飛ばす。
先に吹き飛ばしたブヨブヨとした白い魔物とは反対方向に飛んでいくノアの華奢な身体。
あっという間に、またアガリアレプトの前にはカイムだけとなった。
「ってえええっ!? 出てきて秒でやられちゃったんですけどぉ!?」
腰が抜けてヘナヘナと床に座り込むカイム。
予想外の増援だったギャオとノアは、数秒で片付けられてしまった。
あまりにも、強すぎる。
わかってはいたが、改めて対峙するとその規格外さが身に沁みて分かる。
ネビとはまた異なる絶望感を感じさせる剣王に対して、もはやカイムが打つ手はもう何も残されていなかった。
「これであと……一人か?」
だが、まだアガリアレプトの視線はカイムの方には向けられない。
まだ頭上に広がったままの漆黒の切れ目。
そこから、また一つ、小柄な影が落ちてくる。
剣も持たず、黒い外套を羽織っただけの身軽な格好。
ギャオやノアに比べても、存在感は一回り小さい。
床に降り立ったその中性的な容姿からは、一見すると少年なのか少女なのか判断がつかない。
「……その顔、どこかで見覚えがあると思ったら、あなたが“剣王”か。
「選別試練? ああ、お前も加護持ちなのか。あまりにも雰囲気がないから、気づかなかったぞ」
妙な、感覚だった。
アガリアレプトは、目の前で落ち着き払った様子で自分を見つめる加護持ちを観察する。
気配は、弱い。
先ほど一蹴した魔物と白髪の加護持ちに比べても、明らかに脅威はない。
それにも関わらず、どうしてここまで余裕を見せているのか、彼には理解できなかった。
「へ? この子、誰?」
「ボクにはわかる。あなたは、ボクと同じだ。ボクと同じ人を探して、同時に怖れている。安心していい。あなたの探し人は、見つかる。あなたが怖れていれば、怖れているほど」
「俺が、怖れている、だと?」
何かが、変わる気がした。
ザザザ、とノイズが混じり始める。
全層図書館に、暗く冷たい雑音が響き出す。
アガリアレプトは、そこに懐かさしさを感じた。
この感覚を、彼は覚えている。
「まさか、お前が、呼べるのか?」
「ボクの名前はコメット・フランクリン。ボクの血は、恐怖を呼ぶ。あなたが最も恐れるものを、呼び出せるんだ」
服の内側から、すっと取り出されたナイフ。
それをコメットと自らを名乗った加護持ちが、薄く自分の首に当てる。
静かに流れる血。
その行為にどんな意味があるのか、アガリアレプトは想像する。
「さあ、剣王。ボクの背後に、何が見える?」
「いいね。熱いな、お前。助かるよ。そいつ以外に、用はないからな」
コメットの背後に広がる暗闇から、真っ赤な光が二つ見えた。
それが悪夢でも、亡霊でも、どちらでも構わない。
黒く澱んだ、濃厚な死の気配が満ちる。
神すら狂わせる、赤く錆びた剣を片手に持った男が、アガリアレプトの翡翠の瞳には映っていた。
「救え、【堕剣】。せめて私を」
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