愛神



 酷い頭痛で、目が覚めた。

 “黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンドは、倦怠感の満ちる身体を起き上がらせる。

 埃を被った、ベッドの上。

 知らない間に日が落ちてしまっているようで、周囲に置かれたランタンと星の灯りだけが光源となっていた。


「やっと起きたと、思ふ」


 古びた包帯が使われ、すでに応急処置がなされている自分の体を眺めていると、横から凛とした声がかかる。

 そこにはナベルと同じように身体のあちこちに手当てをしたグラシャラ・ヴォルフの姿があった。

 

「私、どこから気を失っていましたか?」


「セルべロスくんが戻ってきた辺りから、と思ふ」


 ナベルの記憶は、“剣想想起アナムネーシス”を発動させようとして、途中で失敗したところ辺りで途切れている。

 彼女は試しに自らの剣想イデアである黄昏を呼ぼうとするが、まるで反応がないことに気づく。


(剣想が、出せない。これが、代償)


 空っぽの手を、強く握り締める。

 どこか薄らとこのような事態になる可能性は感じていたが、ナベルは実際にその予想が現実のものとなると、心が痛むのを感じた。


「どうした、と思ふ?」


「……別になんでもないです。それで? ネビさんは?」


「セルべロスくんなら、まだ鍛錬レベリング中、と思ふ」


 剣想が出せなくなってしまったことを、ナベルは隠す。

 それは加護持ちギフテッドとしてはあまりに致命的に思えた。

 

「まだネビさんは苦神グレモリーと戦闘中ということですか?」


「いや、戦闘自体はもう終わっている、と思ふ」


「つまり?」


「見た方が早い、と思ふ」


 グラシャラの話からすると、気を失ってしまってから半日ほど経っているらしい。

 それにも関わらず、まだ戦いが続いているというのはナベルからすると異常に思えた。

 まだ自分が生きているということから、ネビが敗北していないということは理解できるが、相手は第九柱の最序列の神々。

 決着の行方は確かに予想困難だが、それでも戦闘が長すぎるように思えた。


「どこにいるんですか?」


「今は外にいる、と思ふ」


 グラシャラが窓の外を指さす。

 ゆっくりとベッドから降りて、ナベルは静かな夜を眺める。

 そこに見えたのは、なぜか地面に額を擦り付ける女神と、不満そうに仁王立ちする黒髪赤目の男の姿だった。





 

「もう本当に勘弁してください。私、その、正直あなたに用はないっていうか、元々ダンタリアンさんに用があっただけなので」


「でもお前、まだまだ余裕だろ? さすが第九柱。素晴らしいタフネスだ。ほら、もう一度神域、出せよ。そうすれば、いいレベリングになる」


「でもとかじゃなくて、本当に限界なんで。余裕全くないので」


 第九柱“苦神グレモリー”は地面に顔を埋める勢いで、土下座をしていた。

 それは顔をあげれば、また恐ろしい反射神経と速度で、舌を掴まれてしまうからだ。

 そんな彼女を不思議そうな顔で見つめる男の名は、ネビ・セルべロス。

 すでに死んだとされていた、堕ちた剣聖だった。


「なんやなんや。グレモリー? 根性ないやん?」


「ダンタリアンさん本当にすいませんでした。いっそ私を殺してください。堕剣は私にとって、死よりも苦しいです」


「シシャシャッ! グレモリーはおもろいなぁ」


「な、なにも面白いこと言ってないんですけど……」


 土下座の体勢は決して崩さないまま、グレモリーは絶叫する。

 それを心底楽しそうに哄笑しながら眺めるのは、第八柱“廃神ダンタリアン”。

 堕剣ネビにずっと口の中の舌を鷲掴みにされたまま、日が暮れるまで数時間舌を引き抜かれそうになり続けたせいで発狂寸前になった彼女の心は、ゴミのようにズタボロになった第四柱“愛神アスモデウス”を廃神ダンタリアンが引き摺りながらやってきたところで完全に折れた。

 徹底的にグレモリーの心を摘みに来ているとしか思えない堕剣と、第四柱を打ち破ったダンタリアン。

 完全に、勝ち目は潰えた。

 トドメこそ刺されていないようだったが、明らかに魔素が込められている鎖で全身を縛られた愛神アスモデウスを見れば、もはやグレモリーに逃げ場がないことは明白だった。


「なんだ。残念だな。まあ、仕方ない。加護数レベルも足りてないし、一旦ここらでやめておくか」


「え? あ、やっと私を、殺してくれるんですか? ああ、ありがとうございます。これでもうこの苦しみともお別れということですね?」


「ん? 殺すわけないだろ? 柱の加護をまだもらってないからな。加護数を上げたら、また会いに来るよ」


「へ? なんで? あの、柱の加護とか、いま全然渡しますんで」


「まだ要らない。お前、第九柱だろ?」


「いや、いやいやいやいやっ!? もう私の試練終わってます! めちゃめちゃ苦しみきったんで! 苦神の試練は合格です!」


「いいや。俺はまだ不合格だ」


「なんで試練を受けた側が合否判定してるんですかっ!? どういうことっ!?」


「シシャシャシャッ! おもろっ! おもろすぎて死ぬぅ! やっぱりネビぃは最高や!」


 土下座をしたまま器用に悲鳴をあげるグレモリー。

 そのやり取りを見ながら、ダンタリアンは涙が出るほど笑っていた。


「はぁー、おもろ。あ、そういや、ネビぃ。君ぃに渡したいものがあったんや」


「俺に? レベリングか?」


 足元に転がっている顔が腫れ上がっていて、外見だけでは目が開いているのかもわからないアスモデウスの胸元にダンタリアンは不意に手を突っ込む。

 グチョリ、と生々しい音を立てて傷口をまさぐると、小指を一本取り出した。


「小指一本、くれたやろ? 代わりに僕ぅのあげるわ」


「そうなのか? ありがとう」


「……どんな会話?」


 グレモリーがボソッと呟くが、それに反応する者は誰もいない。

 ダンタリアンは取り出した小指を《贋錯フォージェリ》で、ネビの空いた指に収める。

 それをうっとりとした瞳で眺めた後、ダンタリアンは溢れそうになる涎を手で拭いた。


「ほんで? 無事お目覚めになったみたいやけど、次はどうするん?」


「始まりの女神を、今度こそ殺す。約束だからな」


「約束? 誰と?」


「アスタだ」


「ダレ? 僕ぅ以外に、ネビぃが約束する奴、いるんや。愛人でもこしらえたん?」


「愛神? 違う。あいつは腐神くされがみだよ」


「……へぇ。ま、言うて実はなんとなく話は聞いてるんやけどな。まだ生きてると、いいなぁ」


 ダンタリアンが目を細める。

 それは獲物を狙う時の爬虫類のように鋭く、温もりのないものだった。

 しかしそんな廃神の気配の変化を知ってか知らずか、ネビは気にせず言葉を続ける。


「まずはカイムと合流する。次にカイムの固有技能を使って、アスタを追う。そして始まりの女神ルーシーを殺す。この順番だな」


「ネビぃの方は一度殺されたみたいやけど、次は勝てるん? わかってるとは思うけど、僕ぅに治せるのは一度だけやで?」


「構わない。測ってみただけだ。俺かアスタを殺せるレベルの相手なのか。それによって戦い方が変わるからな」


「試したんか? 始まりの女神を? 自分の命を物差しにして?」


「そうだ。もっとも、ルーシーを、というわけではないけどな。まあ、正体はどうでもいい。そこに興味はない。それに中々本気で死ぬ機会はないからな。せっかく死ぬなら本気で死なないと意味がない。そういう意味で、今回は最高のレベリングになったよ」


「……シシャシャッ。やっぱぶっ飛んでるわ、ネビぃは。敵わんなぁ」


 情報収集のためだけに、自分の命を平気で捨て去ったという堕剣の言葉を聞いて、ダンタリアンは薄ら寒い思いすら抱く。

 生命としての、感覚が違う。

 人でも神でも、魔物すら根源的に持っているような基準が、どうやらネビにはないらしい。

 ダンタリアンは過去の自分に感謝する。

 もっと遅くに出会っていたら、今頃自分は死よりも恐ろしいナニカに直面していたはずだと。


「ネビぃには、僕ぅだけがいればええ。大丈夫。大丈夫。僕ぅ以外の愛神は、要らんよ?」


 最後の言葉だけは誰にも聞こえないほどの小声で、ダンタリアンは一人呟く。

 自らの左小指を、愛おしそうに擦る。

 

「約束、や」








 雨が降っていた。

 冷たい雨だった。

 灰色の空が広がる中、雨晒しになる一人の少女がいる。


「……七十二の誓約サンクチュアリティが、消えた」


 漆黒のロングコートは水分を吸って重くなり、銀髪の毛先から水滴が溢れる。

 それを全く気にせずに、どこか寂しげな表情で座り込み続ける。

 第七十三柱“腐神アスタ”。

 白銀の瞳を沈ませ、彼女は自らの掌を見やる。


「力が、戻った。ルーシーに貸していた力が、戻ったようじゃな」


 遥か過去。

 最初の誓約を、思い返す。

 よくも悪くも、残っていた始まりの女神との最後の繋がりは、もう消えた。


「……いったい。どうして。なぜあの男がお主の魂の中に? いつからじゃ? 何があった? 気づいていたのか? 気づいていたとしたら、どこから? どうして私を……」


 湧き上がる疑問は尽きない。

 だが問いかけに答えてくれる者はどこにもいない。

 赤く錆びた剣は、今は手元にはない。

 ずっと失っていた力を取り戻したにも関わらず、アスタはどうしようもない心細さを感じていた。



「こいつか。ダンタリアンの言ってた奴は。まずはお前を殺せばいいんだよな?」



 ただでさえ冷たい雨に、さらに冷気が混ざった気がした。

 伏せていた顔を、あげる。

 アスタの暗い瞳に映る、全身黒装の大男。

 どこかで見覚えのある、殺意だけを宿した眼差し。


「誰じゃ、お主?」


「パイモンだ。お前を殺す神」


「私を、殺す? ……ふっ。ちょうどいい。少し体を動かして、頭をすっきりさせたいところじゃったからな」


 第三柱“殺神さつじんパイモン”。

 黒い長髪を雨に濡らす、第三柱を名乗る神に、アスタは僅かに感謝する。

 困惑を、喪失、誤魔化すのにちょうどいい。

 ゆっくりと立ち上がり、腰についた泥を手で拭う。


「殺していいよな? 俺がお前を殺してはいけない理由、何かあるか?」


「察するに試作品トライアルか。まあいい。七十二の誓約は消えた。もう、私を縛るものは何もない」


 あの頃の感覚が、戻ってくる。

 しかし、あの頃に隣にいた妹は、もういない。

 だからアスタは、美しい記憶に浸るように、懐かしい構えをとる。



「わかった。いいじゃろう。来い、パイモン。遊んでやろう」

 


 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る