廃神



 細い直毛の緑髪を揺らし、滑るように地面を駆け、第八柱“廃神ダンタリアン”は再び拳を振るう。

 その腕は自らの固有技能ユニークスキルである贋錯フォージェリによって、本来は魔物ダークの身体の一部だった腕を自分の腕に錯覚させているものだった。


「シシャシャシャッ!」


「唾、飛んでるんだけど?」


 ダンタリアンの鋭い猛攻を、第四柱“愛神アスモデウス”は軽やかなステップで回避する。

 肘打ちを繰り出せば、それは反転で躱され、カウンターに裏拳を貰う。

 咄嗟に左腕を掲げ、アスモデウスの一撃を防ぐが、重さに身体が浮き吹き飛ばされる。


(さすがに腐っても第四柱。基礎身体能力は負けてそうやな)


 宙空で吹き飛ばされながら、ダンタリアンは冷静に状況を分析する。

 これまでは七十二の誓約サンクチュアリティがあったため、直接衝突する機会は一度もなかったが、ある程度は互いの実力を把握できている。

 最序列の神々と一口に言っても、純粋な能力だけで言えば数字上の序列が存在するのだった。


(でも、格上なんて、やり方次第でいくらでも食える。僕ぅは、それを学んだ。あの狂かれた加護持ちギフテッドから、これ以上ないほどに、学ばされてるんや)


 廃屋の屋根上に着地し、ダンタリアンは黒い瞳を細める。

 地面に立ち、余裕の表情を見せる愛神アスモデウス。

 その姿にかつての自分の影を重ね、廃神は失笑した。


「威勢よく吠えていたわりに、物足りないわねぇ? あたし、あなたみたいな口だけの男が一番嫌いなのよ。《受吻スプライト》」


 瞬間、地面が揺れる。

 大地に大きな亀裂が入り、そこから太く強靭な蔦が伸びてきて廃屋ごと絡め締めようとする。


「派手で、下品な能力やなぁ」


「地味で、品のないあなたよりましでしょう?」


 ミシミシと潰されていくもう誰も住まなくなった古い建物。

 屋根が傾き、重力に沿ってダンタリアンは再び走る。

 背中を追ってくる黒い蔦から逃げながら、アスモデウスに襲い掛かろうとする。

 

「殴る蹴るしか芸がないのかしら? テクニックのない男は、つまらないわ」


「まあそう焦んなや。我慢のできん女ははしたないと思わんの?」


 強烈な踵落としで、地面を砕く。

 それを避け切ったアスモデウスが、膝蹴りを叩き込もうとする。


「がっ……はっ!」


「あはっ。快っ感。痛いのは最初だけよ? 我慢してね、ダンタリアン?」


 ゴキュ、と内蔵が潰される音。

 膝蹴りを交わせず、腹部にかかる大きな圧力。

 喉からせせり上がる吐血。

 口端から血を溢しながらも、それでもダンタリアンは笑みを深める。


「……当たり前や。気持ちいいのはまだまだ、ここからやろ?」


 愛神アスモデウスの白い脚に手を伸ばし、ダンタリアンは長い時間をかけて習得した技の一つを解放する。

 しゅるるる、と響く擦れるような音。

 右手の指先から半透明の糸のようなものが伸び、アスモデウスの生足に絡みつく。


「何してんねん、アスモデウス? 気持ち良すぎて、糸引いてしもてるやん?」


「自信のない男ほど、最中によく喋るって言うのは本当みたいねぇ」


 アスモデウスが侮蔑の表情をつくると、蜘蛛の巣を払うようにして大振りで足を振り回す。

 今度は両腕を交差させ、ダンタリアンは攻撃を受け止めることに成功する。

 それでもまたもや大きく蹴り飛ばされ、街に残置されている露店の方に身体を突っ込ませる。

 埃と木屑が舞う中、廃神は右手から伸びる魔の感触に意識を集中させた。


「一緒に、イこや?」


「なっ!?」


 振り解いたはずの、半透明の糸はまだ消えていない。

 アスモデウスの足首に急激に負荷がかかり、吹き飛ばされたダンタリアンの方へ強く引っ張られた。


「小賢しいわね。《受吻スプライト》!」


 手元から黒蔓を伸ばし、吸い寄せられそうになる自らの体をアスモデウスは引き止める。

 切れない糸は厄介だが、純粋な力比べでは優っている。

 だが正体のわからない、おそらく魔素絡みの能力に僅かな危険性を感じ取った愛神は一気に異能を全開にする。


「愛の反対は自由よ。縛られない愛なんて、愛じゃない。だからこれはあたしなりの、愛なのよ? 首が締まって、息ができなくらいに、愛死てあげるわ、ダンタリアン」


 “受吻スプライト”。

 これまでとは数も質量も比べものにならない黒い蔦が、アスモデウスを中心に茂り伸びていく。

 枯れ果てたリッパーストリートの街を覆い尽くす、残酷で美しい生命力の蹂躙。


 ——ドクンッ。


 だが、それ以上の力の躍動が、アスモデウスの背後から脈を打つ。

 感じるのは、神聖なる気配。

 

「……これは神域? グレモリーかしら?」


 廃病院の方から波打つようにして、アスモデウスの下まで凄まじい力が押し寄せてくる。

 だが、違和感が、混じる。

 明らかに、何かがおかしい。

 最序列の神々に相応しい眩い力に混ざり込む、異質な気配。


 ——それは魔素。


 ドロドロとこびりつく粘っこい魔素が、グレモリーの神域を侵している。

 明らかな異常事態。

 ダンタリアンと遭遇していない状態で、まず神域を発動せざるを得ないところまで追い込まれていること事態が異常。

 それに加えて、神域が正体不明の魔素に侵食されている。


(グレモリーと合流するべき?)


 アスモデウスの中に、迷いが生じる。

 最大の障害がダンタリアンであることは間違いないが、もし仮にグレモリーが敗北を喫するような場面が起きれば、廃神に加え苦神を撃破できるほどの何者かと同時に戦う可能性が出てくる。


「隙、やで?」


 蛇が、囁く。

 廃病院へ意識が逸れた瞬間を狙われ、気づけば死角にダンタリアンが潜り込んでいる。

 黒い蔦で絡め取ろうとするが、すでに距離が近すぎる。

 伸びる廃神の左手。

 回避は間に合わない。

 アスモデウスは、それを愛を持って受け止めることにする。


「ごめんなさい? 隙じゃないの」


 正確にアスモデウスの心臓を抉り取ろうと、左胸に突き刺さる手刀。

 しかし、致命傷を与える前に、夥しい数の蔓に腕を絡め取られ勢いを止められてしまう。

 

「惜しかったわね。でも、これで終わり」


「グェエエッ!」


 振り解く隙すら与えずに、ダンタリアンの身体を黒い蔓が覆い隠し、強烈に締め上げる。

 メキメキと骨肉が軋む音。

 全身から血を滲ませるダンタリアンを、アスモデウスは自らから離して宙に掲げるようにする。


「殺した証明に首から上がいるから、その出来損ないの頭は潰さないようにしなきゃいけないわね」


 完全に身動きの取れなくなったダンタリアンを眺めながら、アスモデウスは唇を舐める。

 後はこのまま締め殺すだけ。

 その、はずだった。


「……あー、おもろ」


「何が、おかしいの?」


 廃神ダンタリアンは、まだ嗤っている。

 全身をボロ雑巾のようにして、もはや最序列の神々としての風格はどこにも残っていないにも関わらず、笑みを絶やさずにいる。

 それがアスモデウスには酷く不快に思えた。


「全身ゴミみたいにボロボロで、およそ神とは言えない無様な醜い姿を晒して、何がそんなに面白いのかしら?」


「わからんの? わからんやろなぁ。傷が、痛みが、必要なんや。死の淵に追いやられることで見える景色もあんねん」


「負け惜しみ? 散り際が醜い男って、哀れよね」


 廃れた身体から、絞るように声を出して、ダンタリアンは饒舌に喋る。

 油断は、していない。

 廃神がまだ神域を発動させていないことには気づいている。

 しかし、この状態ならば、対応できる。

 ダンタリアンは拘束し、最低限の距離は取っている。

 廃神の神域は、潰せる。

 その確固たる自信が、愛神アスモデウスにはあった。


(神域勝負なら、負けはない)


「神域勝負なら、負けはない、とか思てるやろ?」


「っ!?」


 廃神ダンタリアンの奥の手を警戒して、集中を研ぎ澄ませていたアスモデウスを楽し気に見つめる黒い瞳。

 

「僕ぅも、そう思うよ。君ぃは、第四柱で、僕ぅは第八柱。正面からやり合えば、勝ち目はない。君ぃの神域とか、発動すら、させたない。だから、考えんねん。どうやったら、潰せるかなあて。考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて考えて、考え抜くねん」


 どぷり、と溢れ出す狂気。

 ここで初めて、アスモデウスは気づく。

 その廃神から芽吹く邪悪な力の種が、自らの内側からも感じられることに。



愉快適悦ゆかいてきえつに棄を満たせ、【夜叉神域ヤクシャ・レ・ルム】」

 

 

 

 パァン、とその瞬間、アスモデウスの神経が弾け飛んだ。

 想像を絶する激痛。

 何が起きたのか、理解が及ぶ前に、ただただ痛みが頭の中を支配する。


「僕ぅの神域はちょっと特殊なんや。僕ぅ以外の誰かが神域を発動している状態でしか、発動できん。そして僕ぅの神域の能力は、支配の間借り。他者の神域を一部、僕ぅの支配領域として奪うことができる。僕ぅは今、グレモリーの神域を一部奪ったんや」


 全ての意識が、痛みに割かれているアスモデウスは思い切り吐瀉しながら膝をつく。

 堪え切れない絶望的な激痛が、絶え間なく襲いかかってくる。

 その在処を探そうと、自分の胸を掻きむしろうとするが、集中が切れ拘束力を失った蔦を引きちぎったダンタリアンが、迷いなくアスモデウスの顔面を殴りつける。


「あっ」


「基礎中の基礎や。痛みに、慣れな」


 痛みは、止まらない。

 これまで生きてきた中で、感じたことのない激痛のせいで滲む涙。

 神域を発動する暇すらなく襲い掛かる痛みとダンタリアンの殴打。

 濁った視界の中で見える、全身を締め付け痕で痣だらけにしたダンタリアンが、左手を掲げている。

 不自然な拳の握り方。

 アスモデウスは、そこで全てに気づく。

 

「これで、一緒やね、ネビぃ?」


 左手の、小指がない。

 焦燥に自分の左胸を掻き毟ろうとするが、それはまたダンタリアンの一方的な暴力によって邪魔をされる。


「シシャシャッ! ええやん!? ええやん!? おもろいやんっ!?!?」


「……や、やめて」


「ハァー!? やめるわけないやん!? こんなおもろいのにぃいいいいいい!?!?」


 グレモリーの神域の能力は、触れるだけで、痛みを増幅させるもの。

 つまり今、アスモデウスは常にダンタリアンに触れられている状態にある。

 埋め込まれたのだ。

 廃神の左小指が、あのたった一瞬の隙に、捩じ込まれた。

 それは、狂気の発想だった。

 自らの小指を自分でねじ切り、アスモデウスの体の内側に入り込ませる。

 全身が締め上げられ、骨と肉が潰されることを厭わず、それを実行し切った。


「……うあっ」


「貰うで、その悦び」


 ゴツ、と響く鈍い音。

 ついに倒れ込んだアスモデウスに、ダンタリアンが馬乗りになる。

 皮膚の内側を針で突き刺され、五臓六腑全てを炙られながらグチャグチャに掻き混ぜられるような痛み。

 気づけば仰向けになっていたアスモデウスは、また顔面を殴られる。

 顔を殴打されること自体への痛みはないが、鼻の中を血が逆流して、鉄臭い匂いが口の中に咽せ帰った。


 ゴツ。

 ゴツ。

 ゴツ。

 ゴツ。

 ゴツ。

  

 一心不乱にダンタリアンはアスモデウスの顔面を殴り続ける。

 何度も、何度も、何度も、執拗に拳を振り下ろす。

 鼻が曲がり、歯が砕け、目が潰れた愛神を眺めながら、廃神は自らの血塗れになった小指のない左手を大きく空に掲げる。

 赤く錆びた魔素が空には渦巻いていて、彼はそれを網膜に強く焼き付ける。



「綺麗、やなぁ」 

 

 

 

 

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