苦神



 木造りの椅子に座り、優雅に足を組み一人の女神が廃病院を眺めている。

 艶やかな長髪を手元で弄りながら、不機嫌そうに舌打ちをする彼女の名は第四柱“愛神アスモデウス”。


(あの子、遅いわね。退屈で仕方がないわ)


 始まりの女神ルーシーの勅命により、第八柱“廃神ダンタリアン”の抹殺に赴いたはいいが、彼女としては舞台が気に食わなかった。

 観衆もいない、寂れた廃墟の街。

 最序列の神々の一柱が訪れるには相応しくない。

 不満気に、椅子の手すり部分から生えた真っ赤な薔薇を握り潰す。

 

(それにしても始まりの女神ルーシー、いや今はもう“エル”だったわね。あれは一体何なのかしら。見た目こそ変わりないけれど、中身は完全に別物。感じる気配はあたしたち神と同じ、というよりはそれ以上に濃密……“光なき時代ビフォアエル”。あたしたちの欠落している原初の記憶に関係がありそうね)


 自らの顔の輪郭を指でなぞりながら、アスモデウスは彼女の知る第一柱とは全く異なる気配を見せるようになったルーシーについて思考を馳せる。

 実際に七十二の誓約サンクチュアリティを解除したことから、始まりの女神として存在していることは確かだ。

 しかし、その内側に潜むのは明らかに別種の魂。

 自らをエルと名乗る謎の存在は、アスモデウスからしても理解しきれないものだった。


 ——轟。


 その時、廃病院の一角から爆発音が聞こえ、アスモデウスの意識が思考から戻る。

 滔々と昇っていく白煙。

 ついに何かしらの異変が起きたらしいと、愛神は重い腰をあげようとして、しかし途中で動きを止める。



「あかんよ。君ぃが行ったら、おもろないやろ?」



 廃病院のエントランスから摺り足で姿を現す、着崩した袴姿の男。

 深緑の髪に、蛇を模したイヤリング。

 爬虫類を思わせる縦に割れた黒い瞳。

 第八柱“廃神ダンタリアン”。

 始まりの女神の召集に応じず、最序列の神々としての座を奪われることになった堕ちた神の一柱がそこにはいた。


「へぇ? あなたなら単独行動だと思っていたけれど、お仲間がいるってこと? ベリアルってことはないはずだから、まさかパイモン?」


「ブッブー! 外れ、や」


「……本当に、あなた嫌い」


 愛神アスモデウスが口角を片方だけ曲げて笑う。

 それだけで、敵意は伝わった。

 廃神ダンタリアンは首をポキポキと九十度曲げて、煽るように口笛を吹いた。


「残念賞として、何欲しい? 言うだけ言うてみ?」


「あなたの無様な死に面、とか?」


「人の話ぃ、聞いてた? そんなん一等賞やろ」


 シッ、と短く呼吸をすると、ダンタリアンは一瞬で間合いを詰める。

 握り締めた拳。

 迷わず顔面に向かって振り抜く。

 

「《受吻スプライト》」


 メキィ、とアスモデウスが座っていた木造りの椅子から突如蔦が伸び、ダンタリアンの腕に絡みつく。

 意思を持った大蛇のように蔦がきつく締め上げる。

 それを座ったまま眺めていた愛神だが、途中で怪訝そうに眉を顰めた。


「……それもしかして、魔素? 降ろされる前から、すでに神の座を降りてたのかしら?」


「どう? おもろい? 七十二の誓約なんて関係なく、僕ぅは元々、神くらい、殴れるよ?」


 絡みついた蔦が魔素に侵された時のように枯れていき、力を弱めていく。

 ダンタリアンが目を細めて、そのまま蔦を引き千切りアスモデウスに襲いかかる。

 魔素は神にとっては猛毒。

 それにも関わらず、なぜダンタリアンの腕から魔素が滲み出しているのか、アスモデウスには判断がつかない。


「穢らわしい。獣臭くて、敵わないわ」


 粉々に砕け散る、木造の椅子。

 自らの固有技能ユニークスキルを使って創り上げた椅子の破片を眺めながら、アスモデウスは心底軽蔑した表情でダンタリアンを睥睨する。

 最序列の神々に、相応しくない。

 改めて愛神は殺意を向ける対象を見据える。

 そんな第四柱の神の侮蔑の視線を受けて、ダンタリアンは何がおかしいのか小さく笑う。

 そして、見下した表情で、廃神は毒を吐く。



不細工ブサイク、やなぁ」

 

 




————




 突如崩れ去った床から、赤く錆びた刃が飛び出しきて、第九柱“苦神くしんグレモリー”は咄嗟に両腕を交差させて身を守る。


「くっ!」


「レッベッ! もしかしてお前、苦神グレモリーかァ!? こいつレベすぎだろおおおおおおんんん!?!?」


 道理のわからない咆哮。

 状況を理解する前に、痛烈に吹き飛ばされる。

 宙空で踏ん張りが効かないとはいえ、最序列の神々である自分が吹き飛ばされるほどの膂力。

 未知の強襲。

 それでも受け身を取りながら、瓦礫舞う辺りに注意を巡らせる。


(この信じられないほど濃厚な魔素! 高位の魔物ダーク? しかも私の名を知っている……いったいどうなってるんですか? 加護持ちギフテッドと魔物が手を組んでい私を狙っている? ありえない。そもそも何のために?)


 先ほどまでの喧騒が嘘のように、辺りは一気に静寂に包まれている。

 あまりにも強烈な魔素のせいで、黒い獣のような魔物の気配を掴みきれない。

 耳を澄ましても、眼を凝らしても、そこには何もいない。


(消えた?)


 深い魔素は霧のように広がったまま。

 しかしその瞬間、グレモリーの背筋に戦慄が走る。


「レベリング、したいナァ」


「ひぃっ!?」


 うなじに落ちてくる、冷たく粘っこい液体。

 咄嗟に上方向に顔を向ければ、黒い獣が大口を開けて赤く錆びた剣を振り抜く姿が見えた。

 迅。

 風を切り裂く一撃を、今度は受けずに回避するグレモリー。

 赤い瞳が、彼女を捉えて離さない。

 その黒髪赤目の男の特徴に、苦神は聞き覚えがあった。


(魔物じゃなくて、堕剣“ネビ・セルべロス”っ!? どうしてこの子がここに!? ルーシー様が死んだと言っていたのにっ!?)


 堕ちた剣聖。

 かつて人類最強と称されたが、始まりの女神によって追放された異端の加護持ちのことは、グレモリーも知っている。

 だが、その罪深き元剣聖はすでに死んだはずだった。

 それにも関わらず亡霊のように舞い戻り、今まさに自分に牙を向けている。


「ど、どうしてあなたがまだ生きてるんですかっ!? あなたネビ・セルべロスですよね!?」


「寝起きはァ! 上質なレベリングにィ! 決まってンだよなァ!?」


「えぇっー!? 全然、神の話聞かないんですけどこの子!?」


 問いかけは一方通行。

 苦神の声は、罪深き人の子には届かない。

 一瞬視界から消えるほどの鋭い動きで前傾を整えると、弾けるようにネビが地面を蹴る。

 その速度は、最序列の神々であるグレモリーにすら肉薄するもので、驚きを隠せない。


(速いっ!? 元人類最強とは言っても、一度加護を剥奪されたはず。それを抜きにしても、全盛期でも加護数レベルは61が最高でしたよね!? それにしては速いというより、強すぎる!?)


 口からドボドボと涎を撒き散らしながら、猛然とネビは乱舞を繰り出す。

 それをかろうじて避け続けるグレモリーに、余裕は全くない。

 手は抜いていない。

 あまりに濃すぎる魔素に浸されているということもあるが、それでも目の前のネビはグレモリーの想像を遥かに超える力を奮っていた。


「いったいあなた、何者なんですかっ!? そもそも人の子ではない!?」


「ウッウッウッ! レベリングゥゥウウウ!!!」


 ハイになっているのか、意味のわからない奇声を上げ続けるネビ。

 グレモリーは自らの推察があながち間違ってはいないような気がし始めていた。


(どう考えても、おかしいです。完全に異常。これが剣聖と称された人の子の姿とは到底思えない。おそらく魔物に憑依されたか何かしているのでしょう。死骸を操る魔物がいるという話も聞いたことがありますし。この身体能力の底上げも、おそらくその寄生主の魔物能力か何かに違いありません)


 常軌を逸しているネビの様子と、桁違いに強化されているように思える力も、魔物が関わっているとすれば不思議ではない。

 苦神グレモリーは決意する。

 おそらく、ネビの魂は今、苦しんでいる。

 この苦悶から救えるのは、神である自らだけなのだと。


「可哀想に。苦しい、ですよね? いま私が、あなたを救ってみせます」


 重苦しい魔素が身体に纏わりついて不快だが、それを受け入れて苦神グレモリーは意識を集中させる。

 ここは、彼女の神域レ・ルムの中。

 ありとあらゆる苦しみは、全て彼女の思うがまま。


「貰います、その苦悶」


 神域の本質は、支配にある。

 彼女が発動させた【不吉祥天神域アラクシュミ・レ・ルム】内において、苦神グレモリーは“痛み”を支配することができる。

 触れるだけで、痛みを増幅させることも、減少させることも自由に選ぶことができる。

 魔に取り憑かれたネビの苦痛を振り払うために、より大きく神聖な痛みを与える。

 そうすることで哀れな人の子を救うことができると、グレモリーは信じ切っていた。

 

「少しだけ、我慢してくださいね」


「あ?」


 懐に飛び込んできたネビの赤く錆びた剣先を、手の甲で弾く。

 自らにかかる痛みは、ほとんどゼロに。

 思考の澱みなく、手を伸ばす。


 ——バチィ。

 

 やがてネビに触れる苦神の指先。

 ほとんど掠っただけにも関わらず、黒い稲妻が走り、ネビの右頬に呪いのように染みが刻まれる。

 反射的に、後ろに飛び退く。

 ネビは信じられないような表情で、おそるおそると言った様子で自らの頬についた黒染みに触れる。

 刹那再び走る、黒い稲妻。

 あまりの激痛に、ネビが勢いよく嘔吐する。


「——ヴォエエエエエエッ! な、なんだ、これは? 痛み、だと?」


「痛い、ですよね? でも、その痛みを感じている時だけが、救われるんです。痛み以外に、他のことを何も考えなくて済む。あなたがこれまで犯した罪も、抱えてきた苦悶も、全て消えてなくなる。苦しいのは、私だけでいい」

 

 口周りについた吐瀉物を手で拭き取りながら、ネビが肩をわなわなと震わせている。

 これまで経験したことのない、死すら生温く感じるほどの痛み。

 戦意喪失を祈って、苦神グレモリーは堕ちた剣聖を目で慈しむ。


「……まさか、まだ、レベリング、できるのか? 剣想イデアの副作用も、魔素の影響も、死の痛みにすら慣れてしまった俺にも、まだ、鍛錬レベリングできるってことか?」


 堕剣が、顔を上げる。

 激痛を刻んだ、黒染みはまだ残っている。

 しかし、赤い瞳は、まだ爛々と輝いている。

 より一層、深い光を帯びて、禁断症状のように何度も黒い染みに手を伸ばしては、激痛に苦悶の表情を浮かべることを繰り返している。


「……どうして?」


「ああ、心地良い。なんて気分のいい試練レベリングなんだ。ありがとう。ありがとう。感謝しかない」


 苦悶の表情が、段々と快楽に似た蕩けた表情に変わる。

 それは、確かに救いに見えた。

 だが、グレモリーが想像していたものとは、全く異なる救い。


「どうして、笑っているんですか?」


 堕剣が、笑う。

 これまでとは違う、直線的ではなく、不規則にジグザグとした動き。

 反応が僅かに遅れたグレモリーは、カウンター気味に拳を振るう。


「お礼をしないと、いけないよな?」


 振り下ろされた赤錆。

 グレモリーの手は、空を切る。

 目測の誤り。

 ネビが錆びた一撃を叩きつけたのは足元。

 再び崩れ去る、老朽化した廃病院の床。

 

 砂塵と埃煙に紛れて、ネビの姿を見失う。


 全神経を研ぎ澄まし、不意打ちに備える。

 今度は上方にも意識を割き、次の激痛で今度こそネビの心を折ることを狙う。

 相変わらず気配は魔素に紛れて探れない。

 ゆえに五感を集中させ、そして光を捉えた。

 

 

「見えて、ますよ」


 

 煌めいた、赤い眼光。

 白煙の中に薄らと浮かぶ、赤い目をした黒い獣。

 腰に捻りを加えて、踵蹴りを叩き込む。

 

 瞬間、粉々に砕け散る、ネビの身体。


 白煙の中に、バラバラに飛び散ったネビの身体が、淡い光を反射して次の瞬間にはもう何も写さなくなる。


「しまっ——」


「まずは基礎中の基礎だ」


 鏡。

 見えていたのではなく、見せられただけ。

 床を破壊したのは奇襲ではなく、この鏡のある部屋に誘導するためか。

 声がした方に身体を反応させ、背後から襲いかかってきた赤く錆びた刃を掴むが、その柄を握る者はいない。

 一手ではなく、二手分、遅れた。

 体勢を崩され、カウンターは空振り。

 すでに赤錆を手放していたネビが、真横からグレモリーにお返しのように手を伸ばす。



「痛みに、慣れろ」


 

 頬ではなく、口の中に指先を突っ込み、グレモリーの舌を手掴みする。

 それをネビは迷わず引き抜こうとし、慌てて彼女はそれを両手で押さえるようにして止める。

 再び激痛が走っているはずなのに、舌を握り締めるネビの力は増していく。


 迸る黒い稲妻。


 消えない痛みがまたネビに新しく刻まれるが、堕ちた剣聖は気持ち良さそうに目を細めるばかり。

 思い切り捻るようにして、グレモリーの舌が引き抜かれそうになる。



「——うぉええええええええっっっ!!! かはっ、かはっ、ちょ、ちょっと待って……ウォエッ!?」


「わかるよ。気持ちいいよな? ああ、そうだな。これはいいレベリングだ。お礼にたっぷり味わせてやろう。この痛みにも慣れてしまうまで、この手は離さない」

 

 

 痛みを消しているはずにも関わらず、今度勢いよく嘔吐するのはグレモリーの方。


 苦神の吐瀉物塗れになった右腕を気にもせず、ネビはいまだに彼女の舌を強く握り締めたまま、高速ピストン運動のようにして執拗に何度も凄まじい力で引き抜こうとし続ける。


 不吉祥天神域によって痛みはほとんどゼロに抑えているのにも関わらず、グレモリーの頭が真っ白になり、苦悶で埋め尽くされる。


 呼吸も止まり、あぅあぅ、と最序列の神々とは思えない憐れな悲鳴を小さく上げること以外にもう何もできなくなってしまう。


 苦神は苦しみに喘ぎ、堕剣は痛みに笑う。


 一度掴んだら離さないその赤く錆びた掌は、第九柱“苦神グレモリー”に本当の苦悶を教える。



(あ、あ、待って。ちょっとむりかも。さすがにこれは苦しすぎ)


  

 

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