退屈
「つまらない」
その少年は、酷く退屈そうだった。
赤い瞳を伏目がちにして、疲れたように溜め息を繰り返すばかり。
周囲には
すると不意に八つ当たりのように、少年は小石を蹴り飛ばす。
瞬間、彼の左胸に、風穴が空いた。
「は?」
宵闇の中に、彼にしては珍しい気の抜けた声がこだまする。
困惑に瞬きをする間に、少年の姿を見失った。
遅れて感じる、生まれて初めての激痛。
視界の隅を横切る、黒くて長い尾。
尾先を視線だけでもかろうじて追いかけながら、彼は慌てて自らの
「《
自らの胸に指を突っ込み、心臓に直接触れる。
彼——第八柱“
たとえば、今ダンタリアンの心臓は撃ち抜かれたが、撃ち抜かれていないと錯覚させ、元の状態に戻したのだ。
だが、この錯覚は一度きり。
同じ対象に対しての二度目は、ない。
「もう、どうでもいい」
背後から、また退屈そうな声が聞こえた。
振り返り、拳を奮おうとして、そこで彼は気づく。
崩れる重心。
自らの右腕が、肩口から切り裂かれている。
まるで、反応できなかった。
最序列の神々と呼ばれる自らが、たかが人間の少年一人に遅れを取ることなど、あり得ない。
「シシャシャシャ! ええやん、ええやん、おもろいやん!?」
廃神は、笑う。
宙に浮かぶ自分の片腕を左手で掴み、再び“
退屈に飽きていたのは、彼もまた同じ。
第一柱始まりの女神ルーシーの統治下にある世界で、彼は愉快な出来事を探し求めていた。
この少年に出会ったのも、彼なりの悪戯が生み出した巡り合わせ。
刺激のない毎日を変える出会いが、ダンタリアンを興奮させる。
「いや、何も面白くない。だってこれはレベリングじゃないから」
しかし今度は、踏み込もうとした足の感覚が、消えた。
膝から下が、消えている。
いつ、斬られたのか。
ダンタリアンの微笑みが、僅かに歪む。
目の前にいた少年が、足元に転がしたダンタリアンの左足にすっと足を乗せる。
——パァンッ。
そして少年が勢いよくダンタリアンの左足を踏むと、風船が割れるような破裂音と共に、彼の切り裂かれた足が弾けて消えた。
「……え?」
肉片すら、残らない。
血霧がわずかに、宙に滲むだけ。
どろどろ、と少年が持つ剣から、黒い粘液が零れ落ちている。
インク漏れのように、断続的に地面を濡らす。
黒い尾を生やした少年の無機質な瞳が、ダンタリアンを捉える。
(綺麗、やなぁ)
吐き気がするほどの痛みが、赤い瞳に見つめられている間は和らぐ気がした。
廃神ダンタリアンは、これまで感じたことのない感情を覚える。
片足を失い、倒れ込む彼は、再び少年を見失う。
「もういい。終わりにしよう」
——刹那、怖しい程の、死の気配を感じ取る。
咄嗟にダンタリアンは近くにあった
「《
漆黒の刃が、廃神ダンタリアンの首筋に当てられ、そこで止まる。
ぜぇぜぇと荒い息を吐く。
数十秒前までの余裕は、すでに消し飛んでいた。
生唾を飲み込み、震える喉で言葉を選ぶ。
だが、今はそんな一瞬の迷いすら許されない。
脂汗で、深緑の髪が額に張り付くことを気にせず、廃神は言葉を探す。
「どうして、待たないといけない?」
その問いかけは、あまりに平坦な響きだった。
退屈を隠していない、投げやりな言葉遣い。
本当にただ、疑問なだけ。
その疑問すら、鬱陶しく思っているのが、見て取れる。
(いやいやいや、待て待て待て。いくらなんでも、強すぎちゃう? 逆に笑けてきたわ。ほんまに人間なんこの子?)
どうして、と訊きたいのは廃神ダンタリアンの方だった。
ただ今はそんな疑問を挟む暇はない。
この少年の退屈を紛らせない限り、これほど興味を唆られる存在に初めて出会ったのに、ダンタリアンの命が途絶えるのは間違いない。
「……君ぃは、魔素の有無にこだわってはんねんな? なら、僕ぅ、君ぃの望みを叶えられるよ? ほら、見て? 魔物の体を取り込めるんや。これを続ければ、神なのに、魔物の身体をもつ存在に、僕ぅ、なれるよ?」
ぴくりと、少年の光を失った赤い瞳に、小さな火花が走るのを、ダンタリアンは見逃さない。
最序列の神々としてのプライドなど、もはやそこには存在しない。
そこにあるのは、必死で自らの利用価値を主張して命乞いをする、哀れな男が一人だけ。
「どう? おもろいやろ? 僕ぅ、おもろい存在、なれるよ? ええやん? ええやん? 僕を生かした方がおもろいやん?」
柄の先まで漆黒に染まった剣先を下げて、少年は口角を曲げる。
赤い瞳に、戻る狂気。
ダンタリアンが笑いかけると、再び黒い影が走った。
「……つまり、レベリングができるってこと?」
最後の方は、少年の声が上手く聞き取れなかった。
それは、黒い刃に、今度は片耳を削ぎ落とされたから。
悲鳴を上げる前に、喉を掴まれ、ダンタリアンの呼吸が止まる。
近くに落ちていた魔物の死骸から、耳をぶちりと少年は引きちぎると、廃神の流血著しい側頭部に押し当てる。
まるで底を計り知れなかった気配が、闇に溶けて沈んでいく。
代わりに黒い刀身に赤い錆が浮かび出し、そこでやっとダンタリアンは呼吸を取り戻す。
先ほどまでの退屈を消して少年——ネビ・セルべロスは心底愉快そうに笑う。
「濡れろ、【
———
「——いい夢、見れたわぁ」
全身に冷や汗を掻き、廃神ダンタリアンは目を覚ます。
なぜか悪寒が走り、身体をぶるりと震わせた。
まだ夜は明けていない。
野営地にはいまだに火が煌々と焚かれていて、冬を暖めていた。
「……う〜ん、むにゃむにゃ。だめだよ、ネビ。うちの羽根は食べても美味しくないよ……え、逆の口から入れる鍛錬にちょうどいいって、さすがにそれは絵面的にしんどいっていうか……」
器用にも手編みで作ったハンモックに揺られながら、十代半ば程度に見える少女が悪夢にでもうなされているのか、時折寝言を発している。
少女の名は第六十一柱“渾神カイム”。
今では狂神と呼ばれるようになった、一番最初の裏切りの神だ。
(こいつもこいつで、頭イッてんなあ。ふつう、最序列の神々の前でこんな堂々と寝れんやろ。おもろ)
うなされているとはいえ、しっかりと眠りについているカイムを見て、ダンタリアンは笑う。
堕剣ネビの仲間であるだけあり、相当に頭のネジが外れているらしい。
もう一人の付き添いである金髪の
「——っ!?」
「ああ、やっときたん? お寝坊さんやな」
突如、焚き火の背後の空間が捩れ、黒い歪みの狭間から凄まじく濃密な存在感が滲み出てくる。
金髪碧眼の少女——ナベル・ハウンドが警戒に
「セーレから聞いた。お前と一緒にいれば、殺せるんだろ?」
ずい、と顔を出すのは黒い長髪をした大男。
この世の全てを見下すかのような冷たい視線で、ダンタリアンを睥睨している。
第三柱“殺神パイモン”。
冷酷で知られる、殺意の神。
剣呑な気配を匂い立たせながら、ダンタリアンの方へ一歩近づく。
「なぜか同族の匂いがするニンゲンの神がいるよ。オロオロオロ。不気味すぎて、泣いちゃった」
パイモンの背後からは人型の魔物が一匹。
泣き顔を模した仮面をつけ、戯けた仕草を見せる。
「なにソレ? 玩具? それ、僕ぅがもろてもいい?」
「これはダメだ。セーレのだからな」
「あぁ、そゆこと。納得やわ」
「一目見て物扱い。オロオロオロ。扱い雑すぎて、泣いちゃった」
なぜパイモンと魔物が一緒にいるのか疑問に思ったが、第七柱の神が関わっていると知り、ダンタリアンは腑に落ちる。
計算高い彼ですら読みきれないほど気まぐれな迷神セーレ。
その行動には意味があるものもあれば、全くないものもある。
深く考えるだけ無駄だと、そこで思考を打ち切った。
「……う〜ん、むにゃむにゃ。だめだよアスタちゃん……魔物の眼球でジャグリングしちゃ……ネビがよくやってる? 余計にだめ。良い子は真似しちゃいけません……」
すぐ傍で第三柱の殺意を受けても、変わりなく寝言を呟き続けるカイム。
さすがのパイモンの意識も僅かに、そちらへ注がれる。
「なんだこいつ? 殺していいのか?」
「それはダメや。ネビぃのやからな」
「また、ネビ・セルべロスか。どいつもこいつも。納得がいかないな」
滅多に表情を変えないパイモンが片眉を曲げる。
それに対してダンタリアンは両の掌をあげて、お手上げのジェスチャーのみを返した。
「……まあいい。殺せるならなんでもいい。それで? お前は俺を満足させられるのか?」
「楽しみにしといてな。いっぱい死ぬよ」
「そうか。ならいい。ついでにお前も殺す」
「どんなついでやねん」
おもろ、と一笑いしてから、ダンタリアンは、蛇のイヤリングをぶら下げた自分の耳を軽く触る。
あの日から、退屈は消えた。
かつての邂逅に感謝しながら、彼はより愉快な筋書きに沿って、赤く錆びた道を辿っていく。
「見ててな、ネビぃ。僕ぅ、おもろくするよ? この退屈な世界を、おもろくして見せるよ? だから、待っててな。僕ぅが、君を笑わせるから」
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