礼儀


 灯りの乏しい暗室。

 手元が僅かに見える程度のランプの光に照らされる中、一人の男が手術台の上に乗せられていた。

 黒い髪をした、体格の良い人間の男。

 息はなく、肌から血の気が引き全体的に青白い。

 だらんと弛緩した指先からは生気を全く感じ取ることができなかった。


「ふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ええやん。ええやん。しんだらええやん。みなしにはったらええんちゃうの〜」


 薄暗がりに響く、機嫌の良い鼻歌。

 リズミカルに頭を揺らすと、蛇を模したイヤリングが揺れる。

 真っ黒な瞳で手術台を見下ろしながら、気分良さそうに一柱の神が歌を唄っていた。


「ふんふ〜ん、ふんふ〜ん、ふんふんふんふ〜ん。ええやん。ええやん。しんだらえええやん。しにはったらええんちゃうの〜。ふんふんふ〜ん。ぜんいんしんどけいうてんね〜ん」


 第八柱“廃神ダンタリアン”。

 今や裏切りの神として追われる身となった彼は、手元に鋭いメスを握り、上機嫌に視線の先の男の胸部を切り開いていく。

 ぎこぎこ、ぎこぎこ。

 銀色の刃を肌に押し当て、力を込めて筋肉繊維に切り込みを入れる。

 どぷどぷ、どぷどぷ。

 粘り気の強い、濁った血が溢れでる。

 ダンタリアンは楽しそうに鼻歌を奏でながら、さらに力を強め、鋭利な刃を深くする。


「お、あったあった。ドンピでいかれてるやん。こりゃ死ぬわ」


 べろりと、切れ込みの入った胸を捌くと、その内側から鼓動を止めた心臓が見つかる。

 ちょうど中心部に見える刺し傷。

 綺麗に貫かれていて、傷からまだ少し血が滴っている。


「綺麗、やなぁ」


 そんな息の根が止まった心の臓を、うっとりとした表情で見つめ、ダンタリアンは頬を紅潮させる。

 “堕剣”ネビ・セルべロス。

 堕ちた剣聖と呼ばれた男の亡骸。

 かつて唯一自らに傷をつけた男の心臓を、愛おしそうにダンタリアンは指先でなぞる。


「……《贋錯フォージェリ》」


 吐息を吹きかけるようにして、ダンタリアンが囁く。

 彼が触れていた心臓の傷穴が、一瞬で消えてなくなる。

 微笑みを深くして、廃神は舌舐めずりをする。


「ふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ええやん。ええやん。しんだらええやん。みなしにはったらええんちゃうの〜」


 器用な手つきで、捌き開いた肉を元の位置に戻し、心臓がまた見えなくなる。

 素肌に血がこびりついたまま、それを気にすることなくダンタリアンは黒い糸に手を伸ばし、皮膚と皮膚を縫い付けていく。

 ぱすん、ぱすん、ぱすん。

 リズミカルに皮膚に穴をあけながら、そこに糸を通す。

 ぶち、ぶち、ぶち。

 時々皮膚が千切れる音がするが、それによって手を止めることはない。

 


「ほんとにかわいいねぇ、ネビぃは」



 まだネビは、瞳を閉じたまま。

 息は聞こえない。

 心臓から傷がなくなったとしても、それだけで呼吸が戻るわけではない。

 堕ちた剣聖の亡骸に見惚れながら、廃人はその冷たい頬にそっと触れては、上機嫌に歌を唄い続けるのだった。

 




———




 北の大国クスコの外れ。

 魔族生息地との境界付近。

 度重なる戦火の末に、今はもう人が住むことはなくなった街の一つであるリッパーシャッターズ。

 そんな寂れたリッパーシャッターズの街の片隅に、老朽化した廃病院があった。


「うぅ。気持ち悪くなってきた。本当にこんなところにダンタリアンさんいるんですかね?」


「さあ? どうかしらねぇ。ハンニの情報だから、間違いはないと思うけれど。なんだか、汚いところね。間違ってたら、あの小娘、殺しちゃおうかしら」


 第九柱“苦神グレモリー”は、いつものように体調悪そうに顔を青冷めさせながら廃病院の前に立っていた。

 人気はなく、小鳥の囀りも何も聞こえない。

 第十二柱“指神ハンニ”の情報により、この街に第八柱“廃神ダンタリアン”が潜伏していると聞きやってきたが、いまだに彼女は気乗りしていなかった。

 隣に立つ第四柱“愛神アスモデウス”も、宙に舞う埃が気になるのか、肩についた塵を嫌そうに指先で摘んでは捨てていた。


「とりあえずグレモリー、先に行きなさいよ」


「えぇっ!? わ、私一人で、ですか?」


「あたし、埃っぽいところ、苦手なのよね。神だから」


「一応、私も神なんですが……」


 手入れのなされていない廃病院が気に入らなかったのか、アスモデウスはこれ以上先に足を踏み入れる気はないらしい。

 いきなりの職務放棄に、グレモリーは唖然としていた。


「ダンタリアンをここまで誘導して頂戴。そしたら、手伝ってあげる」


「私一人で、大丈夫ですかね?」


「さあ? 知らないわ。まあ、あなたが死んだら、その時は仕方ないからあたしも向かうけれど、できればやめてほしいわね。死んでもいいから、ダンタリアンは外に引き出して頂戴」


「あ、はい」


 あくまで入り口から動く気がないらしいアスモデウスを見て、グレモリーは諦めの溜め息を吐く。

 これは苦しい戦いになりそうだと、早くも胃が痛くなり始めていた。


「そ、それじゃあ、行ってきます」


「ええ。早くして」


 アスモデウスは面倒そうに、手をしっしっと払うのみ。

 やっぱり他の神と一緒に動けばよかったかと少し落胆しながらも、グレモリーは廃病院の中に一人で入っていく。

 時間帯としてはまだ昼時だったが、中は薄暗く、どこか湿った匂いがした。


「ご、ごめんくださ〜い? ダンタリアンさん、いますか〜?」


 静かな廃病院内に、グレモリーの声が響き渡る。

 時々足元に転がっている空き缶を蹴り飛ばしてしまい、その度にヒィッ、と彼女は最序列の神々らしからぬ小さな悲鳴をあげていた。


(うぅ〜、帰りたい。帰りたすぎる。吐き気が止まらない)


 うっぷと嗚咽を繰り返しながら、震える足でグレモリーは視界の悪い院内を進んでいく。

 カビ臭い廊下には、偶に刺激臭のようなものも混ざっている。

 一階部分をぐるりと一回りする。

 誰かがいる気配はない。

 額に滲む緊張性の汗を拭いながら、グレモリーは階段を上がる。



「——ふふっ」



 するとその時、どこからか少女のような笑い声が聞こえた気がした。

 不意打ちに心臓が跳ね上がり、グレモリーは肩を震わせる。


「ダンタリアンさん、ですか?」


 ついに探していた相手が見つかったのかと、小さな期待を込めて声を出すが、やはり返事はない。

 どこまでも続く、仄暗い廊下。

 途中で引き返すことなどしたら、アスモデウスの逆鱗に触れるだろう。

 それは嫌だと、グレモリーは自らを奮い立たせる。

 浅い呼吸を繰り返しながら、彼女は狭い歩幅で奥へと進んでいく。


 ——ぽた。


 不意に、水滴が零れる音が鼓膜に届いた。

 どこからだろうか。

 グレモリーは闇に目を凝らすが、音の正体は捉えられない。


 ——ぽた、ぽた。


 やはり、水滴が聞こえてくる。

 導かれるように、グレモリーは足を早める。

 廊下の端に、壊れた人形が落ちている。

 汚れていて、左胸の辺りが壊れて空洞になっている人形に見つめられている気がして、グレモリーは気分がさらに悪くなる。


 ぽた、ぽた、ぽた——、


 ついに音の出処に辿り着く。

 それは廊下の最端にある、病室の内側から聞こえているらしかった。


「お、お邪魔しま〜す」


 誰にというわけでもなく、断りを入れながら病室の扉を開ける。

 錆びて立て付けの悪くなった扉の内側は、変に蒸していて、ねっとりとした肌触りの悪い風が頬を撫でていった。


「え?」


 そしてまず最初に、グレモリーの頭を埋めたのは困惑。

 ぽた、ぽた、ぽた。

 水が、滴っていた。

 赤い水が、一滴ずつ、溢れ落ちている。

 シーツのない骨ばったベッドの上に、一匹の犬がいる。

 どろりと淀んだ血で身を包んだ、赤い犬。

 生命の気配なき赤い犬から、血が、滴っている。


「woh」


 赤い犬が、小さく嘶く。

 瞬間、真紅の身が爆ぜた。

 衝撃が、炸裂する。

 病室ごと吹き飛ばす爆風が、グレモリーを煽る。

 弾け飛んだ血潮が、針のような形を取り、グレモリーの身に襲いかかる。

 完全に不意を突かれた彼女は、慌てて両腕で身を守るようにするが、避け切ることはできない。

 

(待ち伏せ?)


 計られた。

 そこまでは理解できる。

 まだ痛みはほとんどない。

 視界の片隅で、輝く黄金。

 白煙の中で、グレモリーの鋭敏の聴覚が、今度こそ確実に笑い声を聞き届けた。



「ふふっ。初めまして、最序列の神様。病院では静かにするのが礼儀ですよ? マナー違反ということで、その首、貰いますね? わんわん」



 

 

 

 

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