最序列の神々



 天空園と呼ばれる聖域がある。

 地上から切り離され、雲の上を浮遊する移動式宮殿。

 人類未踏であるこの真っ青な世界に足を踏み入れることが許されているのは、たった九柱の神々だけ。


(うぅ。帰りたいなぁ。なんだかお腹痛くなってきました。吐きそう)


 そんな天空園の宮殿内の廊下を、夕日に似た橙色の髪をした女性が具合の悪そうな表情で歩いている。

 ただでさえ細身の体をさらに縮こませながら、時々うっぷと嗚咽を繰り返していた。

 向かう先には小柄な人影が見えると、彼女はただでさえゆったりとしていた歩く速度をさらに落とす。


「あ! グレモリーだ! 久しぶりぶりざえもんだね! グレモリーはルーシーを裏切らなくていいの!?」


 あからさまに嫌そうな顔をする彼女——グレモリーを見つけると、小柄な人影が大きな声を上げながら元気よく手を振る。

 明るいショッキングピンクの癖毛に、数秒ごとに色を変える彩を定めない瞳。


 第七柱“迷神めいしんセーレ”。


 この非常事態でも普段と変わらない溌剌さを見せるセーレを見て、グレモリーはますます頭が痛くなった。


「お、お久しぶりです。セーレさん。変なこと言わないでください。ルーシーさんに聞かれたらどうするんですか? うぅ。大丈夫ですよね? 聞かれてないですよね? おぇ。気持ち悪くなってきた」


「あははっ! グレモリーはほんっとにいつも体調悪そうだね! そういうところ好き!」


 緊張で吐き気を催すグレモリーを見ながら、セーレはケラケラと明るく笑う。

 そして相変わらずゆっくりと歩く彼女に合わせて、ご機嫌そうに口笛を吹きながらセーレは歩調を合わせた。

 そしてたっぷりと時間をかけて、廊下の最奥に辿り着く。

 鎮座する丁寧な装飾のなされた大扉。

 この向こう側にグレモリーたちを呼びつけた者がいる。

 最序列の神々に対して召集をかけられる唯一の者の“福音”に従い、そして彼女は腹痛を覚えながらも扉を開く。



「遅せぇぞ、試作品トライアルども。このを待たせるなんて、少し見ない間に随分と偉くなったなァ?」



 あまりに重苦しい、空気。

 扉の向こう側に設けられた円卓。

 その最奥に座る金髪の女神の顔には見覚えがあったが、放たれる気配は全く記憶とは違うもの。


 第一柱“始まりの女神ルーシー”。


 象徴的な青い瞳をなぜか今は黄金に輝かせる始まりの女神が、横柄な態度で扉の前に立つグレモリーを睨みつけていた。


「ひぃっ。す、すいません!」


「遅れてごめんなさーい! でもでもでも、うちらが最後なのですますまる!?」


 ルーシーが座る最奥を除いて用意された席は八席。

 その内、空席は五席。

 グレモリーとセーレが座ったとしても、まだ三席が空いたままだった。


「残りの三柱はどうせ来ないから、あなたたちで最後よ。ああん。ゾクゾクしちゃう。最低でも三柱の神は死ぬ。とっても官能的だわ」


 ペコペコと腰を折りながら彼女がセーレと共に席に着くと、深い紫紺の長髪を手で梳く女が妖しく微笑む。

 

 第四柱“愛神あいじんアスモデウス”。


 妖艶な女神と視線が合い、グレモリーは慌てて目を逸らした。


「ていうかオセもいるじゃん! 結構意外かもかもしかもかも! 絶対来ないと思った!」


「……心外ですね。僕は敬虔ですよ」


 青い髪をした青年がまるで感情の乗っていない棒読みでセーレの呼びかけに応える。

 どこか焦点の合っていない虚な瞳を泳がせて、そこで会話を打ち切った。


 第六柱“化神けしんオセ”。


 普段どこで何をしているのかわからない謎多き最序列の神は、そしてまた存在感を消して黙り込む。

 

「オイオイ、同窓会じゃねぇんだ。ご機嫌ハッピーに好き勝手ペチャクチャペッティングすんじゃねぇよ」


 始まりの女神が、低いドスの効いた声を発して、そこで静寂が生まれる。

 黄金に輝く瞳で円卓をギョロリを見回すと、美しい肢体を卓上の上に投げやり足を置く。

 世界がよく知る第一柱の気品さはどこにも見られない。

 傲慢を誇示する態度。

 誰もがその異変に気づいていたが、まず先にそれを口にしたのは世界を迷わせる第七柱の神だった。


「というかずっと思ってたけど、誰なのかなまなかな?」


 その問いかけを待ち望んでいたかのように、ルーシーの顔をした悪魔は嗤う。

 白い指先を一つ立てる。

 たったそれだけで、空間が澱み、足裏が少し浮く。

 

「今日からのことは“エル”と呼べ。質問は許さない。ただ、従え。さもなくば、殺す。選んでいいぞ? 問うか死ぬか」


 始まりの女神はルーシーという名を捨てた。

 エル。

 最序列の神々は理解する。

 

 もう、ルーシーはいない。


 正体不明の怪物が、新たな神々の頂点に立ったのだと。


「……うふふっ。あなたがルーシーでもエルでもどちらでもいいわ。それで? なぜあたし達を呼んだの? 何を始めるつもり?」


「いいねぇ。物分かりがいい女は嫌いじゃないぜぇ?」


 アスモデウスの言葉を受け、エルが唇を舐める。

 期待に満ちた眼差し。

 混乱を、破壊を、服従を。

 神は神らしく。

 争いを持って世界を支配する。



「“七十二の誓約サンクチュアリティ”を破棄する」



 ——カチャリ、と鎖が外れる音がする。

 最序列の神々全員が、自らの魂の奥底に沈んでいた痼りが取れたことを自覚する。

 満足そうにエルは机の上の足を組み替えると、そのまま言葉を続ける。


「まずは忠誠を示せ。どうやら話を聞く限り、俺に殺されたがってる神モドキが三匹いるらしいなァ? 手始めに、そいつらの生首持ってこい。俺の股間に突っ込む玩具にするからよォ?」


 エルは空席を三つ順番に指差した後、手で首を切るジェスチャーをする。

 召集に応じなかった、三柱の神。

 

 第二柱“堕神だしんベリアル”。

 第三柱“殺神さつじんパイモン”。

 第八柱“廃神はいじんダンタリアン”。


 新たな支配者は要求する。

 最序列の神々の間引きを。


「誰が、誰を殺る? 好きに選んでいいぞ?」


 興味深そうに、エルが選択を委ねる。

 物欲しそうな表情で自らの唇を触る者。

 心ここにあらずの表情で虚空を眺める者。

 好奇心に満ちた顔で口角を上げる者。

 静かに瞳を閉じて髭を撫でる者。

 緊張性の吐き気を我慢することで精一杯の者。

 円卓に座る最序列の神々の反応は様々だった。


「……では僕は、第二柱を」


 最初に選んだのは、全てに対して無関心そうな雰囲気を漂わせる化神オセ。

 あえてここにいない最序列の中でも最も位の高い神を殺すことを宣言したことに、グレモリーは驚く。


「へぇ? 案外大胆だったのね。知らなかったわ」


「誰でもいいので。上から選んだだけです」


 アスモデウスも意外に思ったようで、驚きに目を見開いている。

 それでもオセの無表情は変わらないままで、興味なさそうにまた視線を逸らすだけだった。


「じゃあうちはパイモンで!」


「えぇっ!? セーレさんはパイモンさんと仲良いんじゃありませんでしたっけ!?」


「あははっ! わかってないなぁ! だからこそ! あえてなんだよグレモリー!」


 次に選んだのは迷神セーレ。

 ほとんど他の神と交流を行わない第三柱の神と数少ない友好的な関係性を抱いていたこと知られるセーレが、一番衝突することを避けそうな相手を選択したことに、グレモリーは悲鳴に似た声を上げる。


「では私も、パイモン様を」


 これまで沈黙を保ち続けていた老紳士が、ここで初めて静かな声を上げる。


 第五柱“忠神ちゅうしんハーゲンティ”。


 始まりの女神ルーシーと共に時間を過ごすことが多かった彼が、エルに対してどんな感情を抱いているのかは窺い知れない。

 

「いいね! ハーゲンティも!? わーいわーい! 一緒に頑張ろうね! パイモンちょー強いから助かりますまるです!」


「はい。共に使命を果たしましょう、セーレ様」


 無邪気に嬉しそうにはしゃぐだけのセーレに対して、ハーゲンティは奥底に強い信念が渦巻くように見える。

 残る獲物は、あと一柱。

 知らない間に選択肢がなくなっていることを、グレモリーは不安に思う。


「じゃあ、あたしは余り物のダンタリアンにするわ。グレモリーはどうするの?」


「ひっ、え、えと、では、私もアスモデウスさんとご一緒させていただいてもよろしいですか?」


「うふっ。もちろんよ。一緒にダンタリアンを、逝かせてあげましょう?」


 最後に愛神アスモデウスが第八柱の神を選び、それにグレモリーは追従する。

 この場に召集された神の中でも最も位が高い神が、召集を拒否した神の中で最も位の低い神を狙い、それに加勢する。

 状況的には、最も勝算の高い選択肢を選べたはず。

 それにも関わらず、グレモリーの中に芽吹く不安の種はなぜかどんどんと大きくなるばかりだった。


「決まったみたいだなァ? 期限は一ヶ月だ。それまでに生首を持ってこれなければ、俺がお前らの首を切る。例外はナシだ」


 選択は、終わった。

 ここから先は、神が神と争う混沌の時代に突入する。

 想像しただけで、彼女は息が詰まるようだった。



(うぅ。苦しい。苦しすぎる。助けて神様)



 第九柱“苦神くしんグレモリー”。


 嗚咽混じりに彼女は祈るが、自らが祈れる先に、自分自身以外に誰もいないことをよく知っていた。


 

 

 


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