剣聖
【創世】
その日は、青空に白銀の雪が舞っていた。
荒い呼吸を繰り返しながら、仰向けになって後頭部に冷たさを感じ取る。
そんな彼女の顔を上から覗き込み、手を差し伸ばす者がいた。
漆黒の角を頭部から二つ伸ばし、大きな翼を生やす筋骨隆々とした身体。
「大丈夫か? アスタルテ」
「……もちろんじゃ! この程度でへばる私ではない! さあ! 続きを頼むベリアル!」
地面に転がっていた銀髪の少女——アスタは、伸ばされた手を取ると、勢いよく立ち上がり、服についた汚れも落とすことなくファイティングポーズを取る。
苦笑しながらも、手を差し伸ばした者——ベリアルはそれに付き合うように手招きをした。
「わかった。いいだろう。来い、アスタルテ。遊んでやる」
「その余裕綽々な態度も今だけじゃ!」
地面を強く蹴り、ベリアルの構えを真似て掌底を整える。
そして今日も日課である稽古を結局夕暮れまで続けたのだった。
「……むぅ。今日もベリアルから一本も取れなかったぞ」
「まあ、年季が違うからな。こちとら何千年と悪魔やってんだからな」
悪魔。
薄暗くなってきた辺りを照らすために、手元に小さな炎を逆巻かせながら朗らかに喋るベリアルは、自らのことを悪魔と呼称する。
まだ幼いアスタにはその言葉の意味がまだよくわからなかった。
「悪魔というのは皆、強いのか?」
「わははっ。どうだろうな。比較対象次第だが、まあこの世界を支配できるくらいには、強いよ」
「私もいつか、立派な悪魔になれるじゃろうか?」
「……別に目指すようなものでもないさ。アスタルテはアスタルテのままでいい」
固い地面の上に胡座をかきながら、アスタはベリアルの横顔を眺める。
遠い目で地平線を眺めるベリアルから、話を聞いたことがあった。
彼ら悪魔という種族は、元々この世界にいた存在ではないらしい。
最初にこの世界にいたのは人間と呼ばれるか弱い種族と、
人間と魔物だけがいた世界で、圧倒的弱者だった人間の中で、王と呼ばれる者がベリアルたち悪魔を呼び出し、世界の均衡を崩そうと目論んだという。
「私は人間でも悪魔でも、もちろん魔物でもない。私は一体なんなのじゃ?」
「アスタルテはアスタルテだ。それ以外の何者でもない。それでいいのさ」
七十二の悪魔。
人間によってこの世界に呼び出された彼らは、すでにこの世界を支配していた魔物と戦い、勝利し、隅に追いやり、この世界の支配権を奪い取った。
人間は悪魔達の管理下に置かれ、そしてアスタが生まれた。
それが彼女が知る、数少ないこの世界の歴史だった。
「アスタ、まだ、帰らないの……?」
そんな黄昏時のアスタに向かって、今にも消え入りそうなか細い声がかかる。
腰まで届くような長い金髪。
前髪も長く、顔の半分以上が隠れていて、かろうじて青い瞳が覗く。
両手を体の前で繋ぎ、僅かに声が震えているを感じ取り、アスタは溜め息をついた。
「なんじゃ、ルーシー。そんなに寂しいなら、お主も一緒にベリアルに稽古をつけて貰えばいいものを」
「むりよ。私は、アスタみたいに強くないもの」
金髪の少女——ルーシーは少し拗ねたように視線を外す。
彼女とアスタは異母姉妹。
同じ
「ふんっ。そんなんじゃまた他の兄弟にいじめられてしまうぞ?」
「別にいい。その時は、アスタが私を守ってくれるから」
「たわけが。いつでもお主を守れるわけではない」
「あははっ。相変わらず仲が良いな、お前達は」
「うん。アスタは私にとって唯一の姉だから。他の奴らは、兄妹だと思ってない」
「はぁ。そういう態度だからいつも喧嘩になるのじゃぞ?」
「気にならない。私には、アスタがいればそれでいい」
女癖の悪いアスタとルーシーの父親は、人間、魔物問わずに多くの生き物を犯し、数え切れない数の子を産ませた。
そのためルーシーにはアスタ以外の兄妹もいるのだが、アスタ以外にはまるで懐かず、いつも他の兄弟と衝突していたのだった。
「そろそろ暗くなってきたし、じゃあ帰るか二人とも」
「そうじゃな。稽古の続きは明日にするか。よし! 帰るぞ、ルーシー」
「うん。帰ろう、アスタ」
その言葉を聞くと、柔らかくはにかみ、ルーシーはアスタの手をとる。
ルーシーが心を開くのは、唯一アスタだけ。
銀髪の姉にしか見せない笑顔を携えて、二人はオレンジ色の夕日に向かって歩く。
茜色に照らされた粉雪が、暗い夜に溶けて消えるまで、繋いだ手を離すことはなかった。
「がはぁ……どうしてだ、どうして、裏切った……?」
「ワラァ〜! サプラーイズ! 驚いた? お前のその顔は唆るなァ、ベリアル?」
その朝は、血の匂いで目が覚めた。
心臓が、不規則に脈打つ。
平和で、いつまでも続くと思っていた明日が、もう二度と来ないと知る。
「バエル、お前、自分が何をしたのか、わかってるのか……」
「その名前で俺を呼ぶなよ、ベリアル。俺の名前はエル。悪魔はもうやめだ。今日から俺は創世神さ。この世界を、俺好みに創り変える。ああ、興奮してきたなァ」
純白の剣が、ベリアルの胸を貫いている。
優しく、強く、憧れだった。
親愛の対象だった悪魔の命の灯火が消えかける中、下品に笑う一人の者。
創世神エル。
元々はバエルという名前で、ベリアルと共にこの世界に召喚された七十二の悪魔の一柱。
そしてアスタとルーシーの母を子を産んだその日に殺した、邪悪な実の父親だった。
「今日を持って、宣言する。全面戦争だ。俺以外の悪魔は全員、殺す。世界を創り変えた神は、一柱でいい」
獅子のような髪を揺らし、エルは宣言する。
共にこの世界に呼び出され、魔物との戦いで共闘した仲間でもある他の悪魔全てを、屠り命を奪うと一方的に言い切る。
「さあ、ビュルルゥ。新時代の幕開けだぜ」
胸に突き刺した剣を、そのまま肩口に振り抜く。
飛び散る血潮。
最後にベリアルの赤い瞳が、アスタを捉え、言葉なく意思を伝える。
——生きろ。
アスタはルーシーの手を取り、走り去る。
今の自分にできることは、エルと戦うことではない。
まだその時ではない。
せめて、ルーシーだけでも。
彼女は、大切な妹を守るために駆け出す。
「……う、うぅぅ。アスタ。ベリアルが、ベリアルがお父様に……」
「戯けが。あんなもの、父ではない。生きるぞ、ルーシー。お主は、私が守る」
これから、戦乱の時代が始まる。
悪魔と悪魔が戦い、血で血を洗う長い戦火が続く。
自らも含む、悪魔の子供達も、間違いなくその戦いに巻き込まれるだろう。
隣で泣きながらも、アスタに引っ張られて走るルーシーの横顔を見つめながら、アスタは決意する。
二人で、この世界を生き抜くのだと。
「神々の時代を、二人で始めよう」
どこか世界の片隅。
襲いかかってきた魔物の死骸を、火に焚べている最中、不意にルーシーがアスタに語りかけた。
ベリアルが暗殺され、悪魔同士の戦争の時代に突入してから、もう何十年も時が経った。
いまだにエルは生き永らえていて、他の悪魔達もほとんど生き残りは少なくなった。
他の兄弟も皆戦火に巻き込まれ、もう本当の意味で姉妹はたった二人だけとなってしまった。
「神々の時代? なんじゃ、それは?」
「私達の時代よ、アスタ」
成長し、大人びたルーシーは覚悟を決めたように呟く。
言葉の意味がわからなかったアスタは、首を傾げる。
「あの人を倒した後のことよ。魔物は強いわ。私たちだけじゃ質はわからないけれど、数で押し切られるかもしれない」
「倒した後のこと? あの男をか? ずいぶんと強気じゃの」
「策はあるわ。だからその後のことも、考える必要がある」
幼い頃はか弱い印象の強かったルーシーだったが、ベリアル死後の混乱の戦火の中で、アスタにとっても頼れる相棒となっていた。
泣いてばかりいた頃の妹は、ずいぶんと強くなった。
「して、どうするつもりじゃ?」
「人間を使おうと思ってるわ」
「人間? あやつらが、何か役に立つのか?」
「私達には悪魔の血が流れている。契約と対価という種族の特性で、限定的に自分の使う力を他者に対して譲渡することができるのよ。加護を与えて、私達の剣にするの。何も私たちが直接、魔物と戦う必要はない」
魔物に秘められた魔素というエネルギー粒子は、本来この世界の存在ではない悪魔の血が流れるアスタ達にとっては毒となる。
それに対して人間は、幾らか影響は受けるが、アスタ達よりは耐性がある。
ルーシーの話では、その人間達に力を与えて、兵士として魔物に対抗させるつもりのようだった。
「さすがじゃな、ルーシーは頼りになる。お主と二人でなら、本当に生き残って、新しい世界を作れるような気がしてしまうぞ」
「それは私の台詞よ。アスタと一緒なら、私はどこにだって行ける」
これまでと同じように、静かにアスタの手の上に自らの手を重ね、ルーシーが静かに微笑む。
その青い瞳に、なぜか薄らと涙が滲んでいて、それをアスタは不思議に思った。
「どうして泣いているのじゃ?」
「……ううん。なんでもないわ」
目頭を赤くしながら、ルーシーは自らの瞳を拭う。
年を重ねても、まだ泣き虫なのは治らない。
愛らしい今や唯一と言っていい妹の頭を、優しく撫でる。
二人でなら、世界を変えられる気がしていた。
『神々の時代を、二人で始めよう』
この言葉だけを頼りに、彼女は生き抜いた。
苦難の時代は終わり、新たな栄光の日々が始まるはずだった。
彼女を、世界を苦しめた諸悪の根源は、すでに絶った。
後はこの邪智暴虐を尽くされた世界を“二人”で、平穏の日々に巻き戻し、新しく創り変えていくだけ。
そんな幸せな未来を、彼女は夢見ていた。
「……ルーシー。ルーシーはどこにいる? あの子は、無事か……?」
燃え盛る焔だけが、銀色の瞳に映った。
骨が折れたせいで大きく腫れ上がった腕を無理やり持ち上げて、顔についた泥土と黒い血の汚れを拭く。
感覚がなくなった片足を引き摺りながら、腐臭を漂わせる死骸を避けるように歩く。
夥しい数の、
骨を砕かれ、肉体を壊され、生気を失った死を齎す怪物たちの成れの果て。
この全てを、彼女はたった一人で屠った。
「……くそっ。どうしてこんなことに。頼む。死んでくれるなよ、ルーシー」
内臓を負傷しているのか、呼吸をするたびに、激痛が走る。
しかし、そんな痛みよりも、焦燥が彼女を急かす。
ルーシー。
それは、彼女がこの世界で唯一信用する、たった一人の味方。
神々の時代を、二人で始めよう。
ルーシーのその言葉が、彼女をここまで導いた。
彼女一人では、成し遂げられなかった。
二人だから、ここまで戦ってこれたのだと、彼女は信じていた。
「……どこだ。どこにいる。まさか、もう——いや、大丈夫なはずじゃ。あの子には、私の力を一部譲渡している。死ぬはずがない」
自らの能力を制限する代わりに、その一部を彼女はルーシーに譲渡していた。
ゆえに、希望はある。
ルーシーはまだ、生きている。
こんな夢半ばで、死ぬはずがない。
どこからともなく突如現れた魔物の軍勢による襲撃。
激しい混戦によって離れ離れになってしまったが、それでも必死に彼女はルーシーの眩いほどの金髪を探す。
片目が潰れ、視界が極端に狭い。
だが、銀瞳を凝らし続ける。
ただ、ただ、ルーシーが生きていることを信じて。
「あら。なんだ、まだ生きてたのね、アスタ」
そんな彼女に、酷く冷たい声がかかる。
気づけば目の前にある、一つの小さな門と、ずっと探し続けていた唯一無二の相手の姿。
「ルーシー! よかった! 生きておったのじゃな——」
「——穢らわしい。触らないでくれる?」
嬉々としてルーシーに抱きつこうとする彼女——アスタを軽く足払いすると、受け身も取れずにひっくり返った彼女の頭に足を乗せ体重をかける。
「……がぁっ!? な、なにをしているのじゃ? ル、ルーシー?」
「本当にアスタは鈍いわね。ここまでされて、まだ理解できない? もう用済みなのよ、あなたは。神々の時代に、あなたの居場所はない。世界を創り変えた英雄は、一柱でいい」
ミシミシ、と頭蓋に体重がかけられ、アスタは痛みに耐えきれず吐血する。
そこで彼女は気づく。
唐突な魔物の強襲。
アスタと同じように準備なく襲われたはずのルーシーの方は、傷一つ受けていないだけでなく、純白のドレスに汚れの一つすら見当たらない。
この世界でたった一人の味方の生存を願っていたのは、信じていたのは、自分の方だけ。
魔物は、どこからともなく現れたのではなく、明確な意思によって呼び寄せられた。
知らなかったのは、彼女だけ。
アスタは、裏切られたのだ。
「……どうしてじゃ。どうして、私を裏切った?」
「裏切った? そうね。あなたからすれば、そう見えるかもしれないけれど、私の世界では、そもそもあなたは存在しない。うふふ。ここまでご苦労様。あなたはもう、この先の世界には必要ないのよ、アスタ」
音もなく、小さな門が開く。
途端に、漆黒だけが望む門の内側から、凍えるような冷たさを孕んだ風が吹き込む。
「ぐぁっ!? ……はぁっ、はぁっ、ルーシー、貴様だけは、許さん。覚えておれ。必ず、必ずこの借りは返す」
「ふふっ。嫌よ。返さなくていい。忘れさせてもらうわ」
一度痛烈にアスタの腹部を蹴り飛ばすと、ルーシーは何の感情も浮かばない無機質な黄金の瞳で見下した後、小柄な彼女の首元を掴む。
燃え盛る焔の世界に、雪の混じった風が混じり混む。
熱が頬を焦がし、雪が身を凍らせる。
ルーシーは欄外へと続く門の前に、満身創痍のアスタを引き摺るようにして連れていく。
「さようなら、アスタ。安心して堕ちなさい。神々の時代は、私一人で始めるわ。憐れな第七十三柱の神の名は、永遠に忘却させてもらうわね」
暗く、冷たい闇の中に、アスタはそこで堕とされる。
眩い光の中で、彼女を捨てた黄金の女神が嘲笑うようにして、手を振っている。
そして世界から、もう一柱の白銀の女神が忘れ去られた。
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