受胎告知



「《領壊神犯インクイジション》」


 堕剣ネビ・セルべロスの固有技能ユニークスキルが発動した。

 事前にその発動条件を知らされていた腐神アスタからしても、その異能はあまりに狂気染みていた。


(やはり迂闊にネビの前で、私の神域レ・ルムを発動しないでおいて、正解じゃったな)


 ネビ曰く、彼の固有技能は神域の発動に反射して自動的に効果を発揮するらしい。

 設定した条件によって振り幅の変化する、大幅な基礎能力向上と能力付与。

 ネビが設定した条件である“神域の発動”は、その条件を満たす難度が非常に高く、元々素養の高かった堕ちた剣聖の能力が爆発的に上昇しているのがアスタにも理解できた。


(だが一番、狂かれておるのは、この能力付与じゃな)


 教会の屋内に満ちる、禍々しいほど濃密な魔素。

 あの“欄外の彼岸ロストビーチ”すら凌駕する、神々はもちろん人間ですら呼吸するだけで痛みを感じるほどの強烈な魔素が満ちていた。


 ネビが選択した能力付与は“魔素侵食”。


 神域が展開された範囲において、超高密度の魔素を充満させるという、人としての道理を度外視した異能だった。


「せっかく最序列の神と鍛錬レベリングができるのに、魔素がないんじゃもったいないを通り越して、。だから、自分で用意することにしたんだ。レベリングに相応しい場所は、自前で用意する。さあ、試練を始めようか、始まりの女神ルーシー」


 ゆらゆら、と本来ならば可視化されないはずの魔素がネビから焔のように揺らめきだって見える。

 高密度の魔素を纏った赤錆は、今や神々にとっては猛毒の一振りとなっていた。



「……ふっ、ふっ、ふははははははっ! あははっ! どこに自ら魔素を創り出す人間ヒトがいるのよ!? あー、おかし。こんなに笑ったのは久しぶりよ。ネビ・セルべロス。やっぱり最高だわ。貴方を選んで、本当に良かった」



 そして始まりの女神が、笑った。

 目尻に涙を溜めるほどの、哄笑。

 そんなルーシーの様子を見て、ネビも共感するかのように口角を大きく釣り上げた。


「アハハハハハハッ! そうだろうそうだろうッ!? 最高だよなァっ!? 第一柱の神と! これほどの濃度の魔素の中で試練レベリングができる! 笑いが止まらないだろうォッ!?!? わかってるじゃないかルーシィーッ!? フゥゥゥ!!! 興奮してきたァ!」


 ルーシーが涙ぐみながら笑うのに対して、ネビは涎をダラダラと滝のように流しながら大笑いする。

 そんなルーシーとネビを見ながら、アスタだけが一歩引いたところから目をジトっと冷めさせていた。


(なんじゃこいつら。キモ)


 互い笑い合う女神と堕剣。

 先に動いたのは、やはり赤く錆びた牙を持つ獣の方。


「さあ、濡れろ、【赤錆】。最高のレベリングの時間だ」

 

 真っ直ぐと、駆け抜ける。

 これまではとは全く別次元の速度。

 領壊神犯によって爆発的に向上した基礎身体能力は、神との試練に耐え得る領域に届く。


「うふふっ。忘れてもらっては困るわ。確かにここは貴方の世界になったけれど、同時に私の世界でもある」


 迷いなく振り抜かれた一閃。

 しかし、突如変化する視界。

 赤錆を振るった先に、始まりの女神の姿はない。


「もらうわよ、その空間」


 気づけば背後から聞こえる、ルーシーの声。

 ネビの明晰な思考はすぐに状況を理解する。

 “毘瑟笯神域ビシュヌ・レ・ルム”。

 その効能は空間座標の入れ替え。

 この神域内において、空間セカイは全て始まりの女神の掌の中にある。

 

「ハッ! 他者の強制転移テレポートかッ! 素晴らしいィッ! 感覚センスはもちろん器用テクニックも上がるゥッ! もしかして敏捷アジリティも上がっちゃうんじゃないのォッ!?」


「うふふっ。楽しそうで、何よりよ」


 無防備な背中にルーシーが純白の刃を叩きつければ、咄嗟の反転でネビはそれを受け止める。

 強烈な一撃に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられるネビ。

 その瞬間、再びネビの空間を入れ替え、ルーシーは自らの目の前に移動させる。


「……盛り上がっているところ悪いが、私を忘れてもらっては困る」


「あら、ごめんなさい? 忘れてたわ。永久に」


 ネビに対する更なる追撃を予期して、アスタがその間に身体を捻じ込む。

 交錯する、アスタとルーシーの瞳。

 

 ——青い瞳が、黄金に染まる。


 振りかぶった白い剣閃は、アスタを前にしても止まらない。

 アスタが驚愕に目を見開く。

 “七十二の誓約サンクチュアリティ”が、発動しない。


「なんじゃとっ!?」


「うふふふふふっ!」


 両腕を交差させて、白い一撃をなんとか耐え切る。

 皮膚と肉が裂けるが、骨までは砕けない。

 両足が床にめり込み、瓦礫が砕け浮く。


「フゥゥゥッッ! 気持チィぃぃィイイイ!!!」


「あはっ! 何がそんなに快感なのかしらねェッ!?」


 アスタの思考が疑問で埋め尽くされている間に、ネビが咆哮する。

 ルーシーの背後に回り込み、再び赤錆を向ける。

 神域内転移スイッチ

 またも空振り。

 教会の端にネビが空間移動され、その隙をつき、今度はアスタが掌底をルーシーに叩き込む。


「……そうよ、それでいい」


「どういう仕組みか知らんが、お主の剣が届くということは、私の怒りもお主に届くということじゃあ!」


 掌底を剣の腹で受けたルーシーの身体が、衝撃で大きく吹き飛ばされる。

 吹き飛ばされた先にはネビが待ち構えていて、真っ赤な舌をダラリと垂らして剣想を構えている。

 神域内転移スイッチ

 ネビがアスタのいた位置に、空間移動される。

 だが、ルーシーは確かに感じ取る。

 自らの神域の力を使うたびに、魔素が身体に流れ込み、小さな毒として痛みを蓄積させることに。


「感情が昂ると七十二の誓約サンクチュアリティの影響が薄まるのか? ……まあ、なんでも良い。私にとっては好都合じゃ。その腐り切った性根に、止めを刺してやろう」

 

 始まりの女神ルーシーの“毘瑟笯神域ビシュヌ・レ・ルム”。

 堕剣ネビ・セルべロスの“領壊神犯インクイジション”。

 そして腐神アスタの神域が、そこに上書きされる。

 


「盛者必衰の理を顕せ、【迦哩腐神域カリフ・レ・ルム】」



 白銀の霜が、教会に降り積もる。

 青々とした草花が枯れては、咲き誇る。

 うねりを上げる魔素の流れが嵐のように吹き荒れる。

 三者三様の領域がせめぎ合い、世界の均衡が崩れては停滞を繰り返す。


「奪われた分だけ、もらうぞ、その時間」


 黒い波動を身に纏い、アスタが疾走する。

 彼女の踏み抜いた床は、全て腐り堕ち砂塵のように細かく流れていく。

 白銀の瞳が眩しく輝き、ルーシーの黄金に染まった瞳を捉える。


「うふふっ。嫌よ。あーげない」


 神域内転移スイッチ

 全てを腐らせる終わりの女神の手は、宙空を掴む。

 

 ——だが、その瞬間を狙って、黒い獣が牙を向く。


 アスタの背後に隠れ潜んでいた、ネビの赤い瞳が瞬く。

 呼吸すら止め、舌を噛み、興奮を抑え込み、一瞬の快感のみを狙い定めた飢えの怪物が始まりの女神に手を伸ばす。


「な——っ!?」


 あまりに速く、滑らかで、最適された動き。

 本能的に振るった純白の一撃を、脇腹を切り裂かれながらも潜り抜け、ネビはついに辿り着く。

 溜め込んでいた興奮を、鋭すぎる一閃に乗せ、忘れられない傷痕を刻み込む。



「アッ、イク」


 

 ——迸る、始まりの女神の血潮。

 驚愕に染まる、ルーシーの表情。

 どこか惚けた様子で、ぼんやりとした顔のネビ。


 赤錆が、始まりの女神の血で、濡れる。


 脳天を揺さぶるような、痛み。

 ドクドク、と傷口からネビの魔素が流れ込む。

 胸元を袈裟に切り裂かれ、頭から血の気が引く。

 足元がふらつき、ルーシーの意識が薄まる。


「アッ、アッ、アッ、アッ!」


「はぁっ……はぁ…っ!」


 しかし、堕剣は止まらない。

 顔についた始まりの女神の返り血をベロリと舐めながら、焦点の定まってない赤い瞳を緩慢に揺らす。

 畳みかけられる赤錆の剣戟。

 ボトボト、とネビの涎が飛び散り、ルーシーの美しい相貌を白濁に汚す。


「アアッ! アアッ! アアッ! アアアアアアアアアアァァッッッ!!!!!!」


「んっ……はぁっ……だめ、このままじゃ……」


 堕剣の絶叫が、始まりの女神の鼓膜を乱暴に振るわす。

 ネビの猛攻は勢いを増すばかり。

 何とか白い長剣で、赤錆の嵐を凌ぐが、段々と押し込まれているのが理解できる。

 息つく間もなく、牙が押しつけられる。

 必死に抵抗するが、ネビは迷いも逡巡も許さず、俄然と攻め立てる。


「私は、まだ、もう少しだけ……」


 神域内転移スイッチ

 やっとの思いで、神域の力を使い、ネビを遠ざける。

 呼吸一つ、そこで取り戻す。

 全身に、魔素が蔓延している。

 思考に空白が増え、意識が薄まっていく。

 縋るように始まりの女神は、視線を前に向ける。



「黒く腐れ、我が妹よ」



 青い世界で、最後に見えたのは、美しい白銀。

 どこか寂しそうな眼差しで、終わりの女神が彼女を見つめている。


 アスタが、手を伸ばす。

 

 ルーシーは、どこか懐かしい思いを抱く。

 いつだって泣いていたのは、ルーシーの方だった。

 手を差し伸ばすのは、アスタの方。

 

 しかし、もうあの頃は戻ってこない。


 二度と、後戻りはできない。

 それはネビから加護を没収するもっと前から、アスタをこの世界から追放するさらにその前から覚悟していた。


 魂が、邪悪な黄金に、染まり切る。


 だからこれはお別れではない。

 とっくのとうに、別れは済ませていた。



「——《万有陰力デビルメイクライ》」



 深い、深い、闇の奥から産声が聞こえた。

 ルーシーに手を差し伸ばしていたアスタが、地面に痛烈に叩きつけられる。

 始まりの女神の瞳から、青い部分が完全に消え去る。


「な、なぜ、この能力ちからを、お主が……?」


 凄まじい負荷が身体に伸し掛かる中、アスタは信じられないと言った面持ちで目を見開く。

 一変する気配。

 始まりの女神ルーシーが、下品に臍のあたりを指でほじりながら、大きなゲップをする。

 高貴な雰囲気とは打って変わって、滲む粗暴で乱雑な気配。

 全てを見下した嗜虐的な眼差し。

 その黄金の瞳を、アスタは知っていた。



「ワラァ〜! サプラーイズ! 驚いた? だよ?」



 ルーシーが白い指を一つ、立てる。

 たったそれだけで、アスタの身体が天井に叩きつけられる。

 満ちる邪智暴虐の気配。

 もうその美しい女神の唇から紡がれる声は、どこまでも歪み醜いダミ声に変わってしまった。


「ビュルルルゥッ! 久しぶりのシャバだぜ。ムラムラしてきたァ! とりあえず軽く実の娘の身体使って実の娘でも死姦しますか、と」


 自らの股間に手を突っ込み、ニチャアとした笑みを浮かべながら、始まりの女神ルーシーの顔をしたナニカは、白い剣を宙に浮かべる。

 突如顕現した、圧倒的な邪悪。

 アスタが混乱に思考を停止させる中、残酷なまでに理解のできない現実は進行していく。

 白い剣の切先には、天井に磔にされたアスタの方を向いている。


「俺がエルで常にただしい。俺に歯向かう奴は全て魔物ダークで、例外なく悪なんだよ」


 神々の時代が始まる前。

 今では世界史研究者が“光なき時代ビフォアエル”と呼ぶのみとなった時代。

 今やアスタとルーシーしか知らないその歴史は、大いなる悪魔を打ち払ったことによって終わりを迎えたとされる。


 そして今この時を持って、その正真正銘の悪魔が、復活した。


 始まりの女神の魂に巣喰い、青い瞳越しに黄金の世界を待ち侘びていた、古の悪意の怪物が再び産まれ落ちた。

 

「バイバーイ、アスタルテ。お前は殺したあとで、たっぷり可愛がってやるよ」


 薄汚れた白い指を一本、曲げる。

 白い剣に向かって、アスタを堕とす。

 何の抵抗もできずに、終わりの女神は眼前に剣が近づいくるのを呆然と眺めるのみ。


(どうして? なぜじゃ。ルーシー、お主は——)


 疑問は尽きない。

 答えは出ないまま、死だけが近づく。

 あまりに大きすぎる闇に押しつぶされそうになる——、



「あ?」



 ほんの一瞬だけ、混じる澄んだ青。

 耳元で、誰かが囁いた気がした。



 ——最後に遊べて、楽しかったわ、お姉ちゃん。



 神域内転移スイッチ

 視界が、変わる。

 気づけば教会の入り口付近に、座り込んでいるアスタ。


「お前はレベリングに、なるのか?」


「オイオイ、萎えんだろ。クソオスが臭せぇ息吐きかけんなよ」


 真顔のネビが、いつも通り迷いなく踏み込んでいる。

 ルーシーの顔をしたナニカは、心底うんざりした様子で舌打ちをする。

 アスタの代わりに、そして一つの心臓いのちが奪われる。


人間カチクはもう犯し飽きてんだ」


 指先一つ、また動かす。

 ネビの身体が、磔にされる。

 白い剣が、堕剣の左胸を貫き、壁に縫い付ける。



「があっ……ぁ」



 いつだって爛々と輝いていた、赤い瞳から光が失われる。

 教会を満たしていた、魔素が消え去る。

 赤錆が、零れ堕ちる。

 もう、黒い獣の荒い息遣いは聞こえない。

 


「これが始まりの女神? オロオロオロ、悪魔すぎて、泣いちゃった」


「ああ、いいな。殺戮の匂いがする。あいつも殺せるかな」


 

 その時、磔にされたネビの背後に漆黒の裂け目が生じる。

 空間を捻じ切ったような亀裂の向こう側には、果てないの闇だけが覗く。

 泣き顔を模した仮面をつけた燕尾服の人のようなナニカ。

 そして神の気配を漂わす、黒い長髪をした無感情などろりと澱んだ瞳を見せる背の高い男。


「アーン? なんだ魔物カス試作品トライアルか。前戯くらいにはなるかナァ?」


 始まりの女神を身体を奪った悪魔は、残虐な笑みを浮かべる。

 それに対して黒い長髪の男が踏み出そうとするが、それは途中で止まる。



「まだ、やろ?」



 深い闇の向こう側から、姿は見えないが聞こえる愉快そうな声。

 その声に引き留められて、黒い長髪の男の動きが止まる。


「チッ。お前も後で殺す」


「オロオロオロ、最悪の陣営すぎて、泣いちゃった」


 長髪の男は磔にされたネビを乱暴に壁から引き剥がすと、そのまま背中に負い闇の亀裂の中に姿を消す。

 殺意だけを身に宿した男が闇の中に消えると、泣き顔を模した仮面をつけたナニカも共に亀裂の中に身を隠し、そのまま空間の歪みも消失した。


 がたがた、と風で揺れる教会の入り口の扉。


 始まりの女神の顔をした怪物は、知らない間にアスタの姿も見えなくなっていることにそこでやっと気づく。


 誰もいなくなった半壊した教会で、一人芝居がかった仕草で肩を竦めると、ゆっくりとは歩き出す。


 まずは手始めに、宗教都市このまちを、潰そう。


 彼は気まぐれに、大虐殺を決定する。

 

 理由も、道理も、ない。


 ただ自らの快感を求めて、他者を害したくて仕方がなかった。


 禁忌を犯して、人類最初の王が彼をこの世界に呼び出した時、彼は自らを“バエル”と名乗った。


 すでにこの世界を支配していた生き物たちを“魔物ダーク”と呼び、自らを召喚したソロモンという名の王の首を刎ねた。


 やがて彼は自分のことを“創世神エル”と呼ぶように、家畜である人間たちに命じた。


 だから彼はまた、創り変えることにする。


 教会の外に一歩踏み出し、血と喧騒の匂いを一嗅ぎし、道の隅に小さな姉弟が歩いているのを見つける。


 やあ、と和かに手を振る。


 血に汚れた始まりの女神の姿に驚いたのか、姉弟は困惑に立ち止まる。


 どちらから先に殺すか、彼は迷った。


 怯えながらも、先に手を振りかえしたのは幼い弟の方。


 それが酷く気に障った彼は、掲げた手首の上を切断する。


 弟より先に、姉が悲鳴をあげた。


 なぜかそれが面白おかしく感じた彼は、ケラケラと笑ってから、弟の頭部を掴み凶器の代わりにして、姉の全身を殴打して撲殺した。



「ビュルルゥ。ああ、いい気分だな」

 

 

 青い空の下には、血の香りだけが漂っている。



 もう女神は、ここにはいない。

 








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