犠牲



 すっかり夜が更けた街を、小柄な影が歩いていた。

 ところどころに水溜りが残る石畳を、深くフードを被り背を丸めながら進んでいく。

 ホーホー、と遠くから夜鳥の鳴き声が響く。

 きょろきょろと怯えた様子で、時々背後を振り返っては、焦ったように小走りで道の角を曲がる。


(付けられてるっちゃ! 確実に誰かに付けられてるっちゃよ!)


 狼狽を隠せない彼の名は第三十二柱“泥神でいしんプケル”。

 本来は沼地の奥に住処を構えているが、今回は諸事情によりこの人が多く住む街に移り住んでいた。


(おいらを狙う奴なんて一人しかいない……ネビっちゃ。ネビが、いる!)


 神である彼がわざわざ家を捨てる理由はたった一つ。

 “堕剣”ネビ・セルべロスによる神殺し。

 その狂刃から逃走するのが目的だった。


(なんでおいらがここに逃げ込んでいることがバレたっちゃ? いや、今はそんなこと考えてる場合じゃない! まずは逃げ切らないと!)


 選別試練をネビが突破したという噂を聞いた後、泥神プケルは迷わず住処を捨てた。

 神々の居場所はすでにネビに知られている。

 このまま座して待つだけではいずれ、自分の下に辿り着いてしまう。

 それを恐れた彼は、誰にも告げずにこの街に逃げ込んだのだった。


「《日々泥々マディバイマディ》」


 街角に身を隠した泥神プケルは、自らの固有技能ユニークスキルを発動させて、泥の分身を創り出す。

 その分身に自分が着込んでいた外套を被せて、道の奥に走り去るように操作する。


(とにかくこの街はもうダメっちゃ。急いでまた別の場所に逃げるっちゃよ)


 ある程度泥の分身が遠くまで行ったことを確認してから、泥神プケルは反対方向の道へと静かに歩き出す。

 先ほどまでの尾行されている気配は消えた。

 僅かな安堵感と共に、彼は姿勢を低く保ちながら人気のない夜道を早歩きで進んでいく。


 ——ブツンッ。


 しかし、その時、明らかな異常を目にして、泥神プケルの足が止まる。

 等間隔で立ち並ぶ街灯。

 遠くで夜の街を照らしていた白い灯りが一つ、唐突に消え去ったのだ。

 じわり、と粘っこい脂汗が額に滲む。

 危険な予感に、胸が脈打つ。


「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」


 呼吸が乱れ、若干過呼吸気味になる。

 夜風は涼しいにも関わらず、全身から発汗が止まらない。

 口の中がからからに渇き、自然と後退りしてしまう。


 ブツンッ。


 また一つ、街灯が消える。

 闇が一つ、泥神プケルに近づいた。

 気配は、まだない。

 だが、それが余計に彼の恐怖心を煽った。


「い、嫌っちゃ。く、来るなっちゃよ。来るなっちゃよおおおお!!!!」


 緊張が限界に達し、泥神プケルは神としての威厳ある態度をかなぐり捨て、口から泡を飛ばしながら走り出す。


 ブツンッ。


 心臓が破裂しそうなほど脈打つ。

 気づけば涙が流れ出していて、過去の無理やり忘れていた記憶が湧き上がってくるのを止められない。


 ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。ブツンッ。


 街灯の光は、泥神プケルを追いかけるように闇に堕ちていく。

 神に相応しい俊足で夜の街を駆け抜けていくが、闇は執拗に彼を追いかけてくる。

 顔面を涙でぐちゃぐちゃにしながら、第三十二柱の神はもつれる足を必死に前に踏み出す。


「嫌っちゃ嫌っちゃ! もう二度と首から下を泥の下に埋められて、延々とあの切れ味の悪い剣想で頭を切り付けられるのは絶対に嫌っちゃああああああ!!!!!」


 走りながら再び日々泥々マディバイマディを発動させて、消え続ける街灯の道先へ逃げる身体を泥の人形と入れ替え、途中の下水代わりになった澱んだ河川に飛び込む。

 ネビに捕まるくらいならば、人間の排泄物塗れになった方がマシだと泥神プケルは本気で考えていたのだ。


(よし。このまま街の外に逃げるっちゃよ。さすがに下水までは追ってこないっちゃろ)


 身体を浮かせて、犬かきのような体勢をとりながら、静かに移動する。

 ブツンッ、と近くの街灯が、また消える。

 そしてそのまま、闇は大通りの先へと進んでいき、辺りは静寂に包まれた。


(やり過ごせた、っちゃか?)


 中性的な童顔を怯えさせながら、泥神プケルは波音一つ立てないようにしながら夜の水中を進んでいく。

 さすがにネビも人間のはず、水中で待ち伏せなどはできないだろう。

 尾行されている気配もなく、先ほどの次々街灯が消えていくような異変も見当たらない。

 やっと追跡を免れたと、泥神プケルは安堵の息を吐く——、



 ——ぽた。



 その時、鋭敏な泥神プケルの鼓膜が、奇妙な音を捉えた。

 それは、何かの水滴の音。

 普段ならばそこまで気にしない音ではあるが、今の彼にはそれが異様に気になった。


 ぽた。

 ぽた。

 ぽた。


 水滴の音は、不規則な間隔でやはり聞こえてくる。

 雨は降っていない。

 どこからか水漏れがしているだけだろうか。

 その些細な異音に、泥神プケルの生存本能が反応している。


 ぽた。


 少しばかりまた水中を進んで、ふと泥神プケルは視線をあげる。

 これまで意識を払っていた水の中ではなく、河川を跨ぐ小さな橋の裏側へ目線を移す。

 街灯もなく、星空の光も届かない、橋の下。

 そこに薄らと輝く、二つの光。

 その光の色は、血のように赤い。


「あ」


 全てに気づいた瞬間、泥神プケルは失禁していた。

 人間の排泄物の中に、神である彼のし尿も混ざり込んでいく。

 がたがたと全身が震え、痙攣が水面を揺らし白泡を立たせる。

 

 橋の裏側に赤く錆びた剣を突き刺し、蝙蝠のようにぶら下がる大きな影。


 ソレは黒い毛を逆立たせ、爛々と輝く赤い瞳を二つ分、泥神プケルに注いでいる。

 ぽた、ぽた、とその黒毛の影は口元から涎を垂らし、水面に波紋を広げていた。

 真っ赤な舌に刻まれた“37”の刻印タトゥー

 全てがただの誘導に過ぎない。

 初めから袋の鼠。

 夜が訪れる前から、逃げ道はすでになかったのだと、第三十二柱の神は知る。



「……星の綺麗ないい夜だな。レベリングでもしないか?」




————




 泥人形を潰した時についた汚れを丁寧に落としながら腐神アスタは、街の外れで一つだけ輝き続けている街灯に縛り付けられた小柄な神を見上げていた。

 少女のようにも少年のようにも見えるその神の名は第三十二柱“泥神プケル”というらしい。

 今は気絶してしまっていて、白目を剥いたまま口を半開きにした状態で首をだらりと垂れ下げていた。



加護数レベル39まで上げたら、“始まりの女神ルーシー”を討ちにいく」


 

 無惨な姿を晒す泥神の真下で、この状況を作った張本人である黒髪の男がいつものように、迷いなくそう宣言する。

 ついに、その時が近い。

 自らの唯一の剣であるネビ・セルべロスの言葉に、アスタは白銀の瞳を強く返す。


「……私が言うことではないかもしれんが、まだ少し、時期尚早なのではないか? ルーシーは、強いぞ?」


「もちろん効率の面ではあまり良くないのはわかっている。だが、時間がない。今はロフォカレ姉さんが一時的に休んでいるが、また力を取り戻したら俺を追うだろう。あの人はそういう人だ。ロフォカレ姉さんとルーシーを同時に相手するのは、不可能だ。狙うなら、今しかない。この限られた時間で柱の加護を集めるのは39までが限界だろうな」


「いや、私は効率の話をしているわけではないのじゃが……つまり、勝算はあるということか?」


「ああ、効率にこだわらなければ、勝つ方法はいくらでもある。俺はお前に、ルーシーを斬ると誓った。誓いは、守る。俺に再びレベリングする機会を与えてくれたお前の恩は、返す」


 始まりの女神を討つ。

 この世界において想像するだけで罪に問われるような世迷言を、ネビは力強く言い切る。

 自信に満ち溢れた赤い瞳は、初めてアスタが彼と出会った時と全く変わらない。

 導いていたつもりが、気づけば導かれている。

 第七十三柱の神は、穏やかに笑う。


「はっ! ルーシーに勝つ方法は幾らでもある、か。世紀の大馬鹿者か、狂気の大うつけ者のどちらかしか言わんようなことを平然と言いよるのう、お主というやつは」


 それは不思議な感覚だった。

 始まりの女神の実力をよく知るアスタからすれば、今のネビがルーシーに勝てる術は全く思いつかない。

 しかし、それでもネビが勝てると口にすると、なぜか本当に勝てる気がした。

 根拠も理由もないのに、決定事項に思えてしまうのだった。

 

「アスタちゃん、心配はいらない。セルべロスくんは、負けない。それは夜が必ず明けるのとほとんど同義、と思ふ」


 ネビの指示の下、街の街灯の光を消して回っていたグラシャラ・ヴォルフが闇から恍惚とした顔を出す。

 第十二柱“指神ハンニ”から得た情報を下に、ネビに逃げ隠れしている神々の居場所を教える案内人の役割を果たしている彼女もまた、堕剣と呼ばれるようになった同期の勝利を微塵も疑っていないようだった。


「いいじゃろう。そこまで言うなら、お主の判断に従おう。私とお主で、始まりの女神ルーシーを討つ。世界への復讐を完遂させようぞ」


「復讐とやらに興味はないが、お前が望むもの全てを斬ろう。そう誓ったからな」


 夜風が吹き込み、アスタの銀髪とネビの黒髪を揺らす。

 最後の時は、近い。

 ふと、アスタの脳裏に考えがよぎる。

 

 ——最後の、あとは?


 これまで一度も想像すらしなかった、始まりの女神ルーシーを討った後のことを、ネビの自信に満ち溢れた言葉に引き摺られつい考えてしまった。


「そういえばカイムちゃんとナベルちゃんは? せっかく加護数レベル39まで上げるなら、一緒に連れてくればよかったのに、と思ふ」


「あの二人には別のことを頼んでいる。一つ、気になることがあってな。俺の予測の範囲外の出来事が起きた場合の、保険みたいなものだ。ナベルには時間があるからな。効率悪く急いで加護数レベルを上げる必要はない」

 

「予測の範囲外のことじゃと? 珍しいな。いつでもなんでもわかってますよ、見たいな顔をお主はしてるのに」


「相手が始まりの女神ルーシーだけなら問題ない。だが、違う可能性がある」


「別手か? 仲間がいるということか?」


「いや、少し違うが。まあ、似たようなものだ。とにかくその場合、犠牲が出る」


 未来に流れそうになった思考が、ネビの含みのある言葉で今に引き戻される。

 “黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンドと渾神カイムは、ネビに何かを頼まれていて、深層都市を出る際に別行動をとっていた。

 その際には理由を深く訊かなかったが、どうやらそれはネビにとって何かしらの予想外の出来事が起きた場合に対する準備らしい。

 驚異的な予測能力と状況把握能力を持つネビが、ここまではっきりと想定外の出来事が起こる可能性を危惧するのはアスタが知る限り初めてのことだった。


「犠牲、とはなんじゃ?」


「ああ、まあそんな大したことじゃないが、準備はしておかないと面倒なことになる」

 

 犠牲という言葉が気になったアスタが問いかければ、ネビはいつもと同じ無表情で答える。

 だがその仏頂面から続く言葉は、アスタにとってはあまりに予想の範囲外の言葉だった。



「俺かアスタ、どちらかが死ぬ。ただそれだけだよ」

 





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