革命前夜



 少し、昔のことを思い出していた。

 “聖女”ヨハネス・モリニーは、意識を現在いまに引き戻す。

 全身に伸し掛かる倦怠感。

 深層都市ジャンクボトムの南端で、彼女は世界に静寂が戻っていくのを感じ取っていた。


「何をやっているんでしょうかね、わたしは」


 目の前に広がる、真っ暗な大穴。

 底無しの産声エンドレスホープ

 火はもう消えた。

 僅かに残る熱気。

 その向こう岸には、身体中傷だらけでぼろ布のようになった剣帝ロフォカレが見える。

 ゆっくりと闇の縁を歩くようにして、ヨハネスは反対側へ歩いていく。


「ネビ君を殺すんじゃなかったのか、ヨハネス君」


 地面に座り込んで煙草の煙を吐く剣帝の下へ、時間をかけて辿り着く。

 痣と血に塗れた現人類最強の加護持ちギフテッドは、どこか晴れやかな表情でヨハネスに笑いかける。


「……ロフォカレ姉様が皮肉だなんて、珍しいですね」


「今はオフだからな。少し、働きすぎた」


 普段の剣呑な気配を消して、ロフォカレは二本目の煙草に火をつける。

 満身創痍。

 立つことすらままならないようで、灰色の煙を口に含んでは、時々吐血していた。


「しばらく剣想イデアは使えない。その間は休ませてもらう。もちろんまた使えるようになれば、ネビ君を再び追う。そういう契約だからな。それでいいだろう?」


「……はい。構いません」


「思えば、こういう風に束の間の休息を得られるのは、いつもネビ君絡みの時だな。まさか、ネビ君なりの私に休暇を取らせるための粋な計らいか? ファック優秀な後輩だな」


「考えすぎですよ」


「そうか? まあ、なんでもいいさ。加護持ちの世界は、結果主義。あいつはまた一つ、やり遂げた。その事実は変わらない」


 穏やかな眼差しで、ロフォカレは底無しの産声エンドレスホープに目をやる。

 その暗闇からは、もう何の音もしない。

 別れの言葉もなく、堕ちた剣聖は闇の向こう側へと消えてしまった。 



「……ネビ不在確認ヨシ! ふぅ。危なかったぜ。あいつに認知されずに済んだ。視界にあいつがいるだけで命が幾つあっても足りやりしないぜ」


「どうも、おつです、聖女先輩。堕剣いなくなっちゃったんすか? 初めて見ましたけど、確かにパンチあったっすね」



 ヨハネスとロフォカレの下に、二人の聖騎士が近づいてくる。

 “火の騎士”オルフェウス・イゴールと“地の騎士”クリコ・デュワーヌ。

 聖騎士協会ナイトチャーチにおいて次席に位置する最高幹部の二人だった。

 

「それにしてもあの牛の魔物まじで半端なかったっすね。あんなに存在感の強い魔物、うち初めて見ました」


「そうですね。おそらく、王族階級ロイヤルズの更に上の存在でしょう」


「がち? やばすぎ。あの“塔王バベル”より上ってことすか? えぐすぎ」


「深層都市の怪物は元々長い間封印されていたようですからね。全盛期の力は取り戻していない状態。かつロフォカレ姉様とわたしの存在、そこに堕剣ネビが共闘した結果、奇跡的に勝てたと言えます。再現性のない、ほとんど自殺行為ですよ」

 

「なんか堕剣ノリノリすぎて危機感なかったっすけど、意外にギリギリだったんすね」


 感心したようにクリコが目を丸々とさせるが、ヨハネスは暗い表情のまま、ぽっかりと空いた黒い穴を眺め続ける。


(またわたしは、止められなかった)


 最終的に、ヨハネスは堕剣ネビに限定的に協力することを決めた。

 それは、彼女の心の中の良心がそうさせたのだ。

 まず、あの魔物を止めなければ、街が崩壊する。

 実際に一目見れば理解できた。

 ここで止めなければ、数え切れない犠牲が出る。

 自らの目的より、人々の命を優先させたのだった。


「ロフォカレ姉様、やはりあなたは正しかった」


「何の話だ?」


 自分ヨハネスは加護持ちには、向いていない。

 どんな状況下においても、迷わず自らの意志エゴを優先させる者。

 加護持ちに向いている資質。

 ヨハネスにはそれが欠けていると、昔ロフォカレから指摘されたことを思い出し、彼女は苦笑するのだった。


「……わたしはネビ君とは違うという話です」


「何だそれは。ファック当たり前だろ。あんな奴が二人といてたまるか。君は、君のままでいい。君が後ろにいるから、ネビ君は迷わず前に進めるんだ」


 慰めるような、優しい声色でロフォカレが声をかける。

 剣帝の言葉が、じわりじわりと身に染みる。

 目頭が熱くなり、額に手を当てそのほとぼりを誤魔化す。


「どれだけ恨んでも、憎んでも、捨て切れないのですね、この感情は。ネビ君に認められたいという、不必要な燻りは」


「……ヨハネス君。君こそ考えすぎだよ。とっくのとうに、君はあいつに認められているさ。最後の炎、あれは君の能力を最大限に生かすためにネビ君が準備したものだろう? 最初から、あいつは君と一緒に戦うつもりだった。ネビ君は、君を見ていたよ」


「……ぐずっ。は、はい。ありがとうございます。ロフォカレ姉様」


 ついに涙の堰が決壊し、ヨハネスはボロボロのロフォカレの胸元に顔を埋める。

 捨てられたと、思っていた。

 もう自分は、過去の存在なのだと。

 約束を忘れられ、記憶の片隅に追いやられた哀れな存在。

 そう自らを認識していたヨハネスは、溢れ出す感情の勢いを止められない。


「は? なんだこれ? なあ、クリコ。なんでヨハネス様いきなり泣き出し——っ痛てぇっ!? 何すんだよ!?」


「はぁ。オルフェウス先輩まじでイカクサなんですけど。この激エモが理解できないなんて。口臭いんで、ちょっと黙っててもらっていいすか?」


「え? いきなり言い過ぎじゃね?」


 突如泣き出したヨハネスの機微を不思議に思ったオルフェウスが声を上げるが、すぐに横のクリコが脇腹に鋭い拳骨を飛ばし強制的に黙らせる。


「それで、これから君はどうする、ヨハネス君?」


「……そう、ですね」


 一息分、涙を流し切る。

 そこでロフォカレの胸から顔を上げると、赤くなった目元を擦る。


 もう、ここには何も残っていない。


 ネビの後を追って、“赤狼ブリード”グラシャラ・ヴォルフ、“銀髪”アリタ、“黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンドの三名も闇の向こう側へ堕ちていった。

 なぜかガラスの空き瓶を投げ続けていた幼い少年が、呆然自失の様子で、遠くに座り込んでいるが、残った者といえばそれくらい。

 嵐は、去った。

 微かに残るのは、革命前夜の不自然なほどの静寂だけ。



「傷が癒えたら、また追いかけます。一生追いつけないかもしれませんが、追い続けることに、意味がある」



 いつか彼が立ち止まって、振り返った時に、最初に見えるのが自分でありたい。


 そうヨハネスは心の中で言葉を結ぶと、どこか晴れ晴れとした顔で星の見えない空を見上げる。

 


 胸に空いた錆びついた深傷が、今だけは少し心地よく感じた。






—————

 





 気が狂うほど長い間、この時を待っていた。

 連合大国ゴエティアの七大都市の一つ、宗教都市アトランティカ。

 世界でも有数の神々への信心が深い者が住むこの街は今、喧騒に包まれていた。

 黒灰の煙が大きく立ち昇り、悲鳴と炎禍が色めき立つ。

 そんな混沌に包まれた宗教都市の中央部に聳え立つ、聖騎士協会ナイトチャーチ本部棟。

 偶然にも幹部全員が出払っている聖騎士不在の教会の最奥で、一柱の神が椅子に座していた。



「やっと、なのね。待ちくたびれたわ」



 宝石のような輝きを秘める美しい金髪。

 海より深く、空より明るい澄んだ青の瞳。

 絵画ですら劣る寓話染みた美貌。


 第一柱“始まりの女神ルーシー”。


 森羅万象全ての頂点に立つ、七十二柱の神々の頂点に立つ女神。

 創世を司るとされる、最前の神。

 白皙の長い足を組み替え、蒼目を細くさせる。



「やっと、じゃな。待ち侘びたぞ」



 ぎぃ、と擦れた音を立てて、扉がゆっくりと開く。

 その奥から姿を現すのは、口元まで隠すような漆黒のロングコートを着込んだ少女。

 艶やかな銀髪を揺らし、同じく白銀の瞳を真っ直ぐとルーシーに突き刺す。

 果てのない怒りが滲んだ眼差し。

 今にも暴発しそうな感情を抑え込んでいるのが、一目見ただけでも窺い知れる。

 それを、ルーシーは、嬉しく思った。

 これほど憎んでいるのならば、迷わないだろう。

 

「初めまして、でよかったかしら? お姉様?」


「その減らず口も、これが最後じゃ、我が妹よ」

 

 第七十三柱“腐神アスタ”。

 記憶と違わぬその姿を青い瞳に焼き付け、優雅な仕草でゆっくりと立ち上がる。

 もう、これ以上、座して待つ必要はない。

 待ち望んでいた者は、自らの下に届いた。

 切れ味鋭く磨かれた、赤く錆びた剣を手に、復讐の女神が舞い戻る。



「今度は剣を持ったまま、お前の前に立つことができる。その意味がわかるか?」



 神聖な空気が、赤黒く澱む。

 ぼたぼた、と涎を垂らしながら、一匹の獣が教会に紛れ込む。

 不揃いに伸びた黒髪と、爛々と輝く燃えるような赤い瞳。

 だらりと、垂れた長い舌には“39”と刻印タトゥーが深く刻まれている。

 

「……ネビ・セルべロス。貴方ならアスタをここに連れて来れると思っていたわ」


「ほざけ。ネビがではない。私がこいつをここに連れてきたのじゃ」


 “堕剣”ネビ・セルべロス。

 元人類最強にして、全ての魔物と神々が一目を置く、異端の加護持ちギフテッド

 世界から忘却された神と追放された剣聖が、揃って始まりの女神に牙を向く。


「つまり、今の俺は、お前と鍛錬レベリングできるってことだ。お前の加護ギフト、もう一度貰うぞ」


「借りは返させてもらう。返すのに時間がかかりすぎて、少し錆びついてしまったようじゃが、受け取って貰おうぞ」


 堕ちた剣聖が飢えを隠すことなく、大きな口を開き始まりの女神に迫る。


 腐神が怒りを露にして、小さな掌を握り締め第一柱の神を睨みつける。


 その赤と銀の瞳を受けて、一瞬彼女の青い瞳に黄金の影が差す。


 そしてルーシーは小さく息を吐くと、満足そうに頬を緩めた。



「……いいわよ。それじゃあ、始めましょうか。始まりの女神の、最後の試練を」

 





 

 



 

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