『岐路』



 暗い森の中を、ランプを片手に一人の少女が腹立たしそうな表情で歩いていた。

 頬にかかる前髪を片方編み込んだ金髪と、幼なげな黒い瞳。

 修道服を身に纏い、中型の鞄を小柄な背中に負っている。


「まったくあの人は、どうしてこうも自分勝手なんですかね……!」


 唇を尖らせて枯れ枝を踏み折る少女——ヨハネス・モリニーは注意深く足元に目を凝らす。

 重なる落ち葉の内、幾つかに泥が付着していることに目ざとく気づく。

 ここ数年で自然と向上した観察力を駆使して、探している相手の軌跡を追う。



「……ん? ヨハネスか。なんだ。今日は誘った時来ないと言ってたのに、結局お前もレベリングしたくなったのか? わかるよ。その気持ち」



 そして生い茂る木々の隙間を何度か掻い潜ると、少しひらけた場所に辿り着く。

 そこにはなぜか足首に蔦を絡ませて、非常に動きにくそうな状態で、魚型の魔物ダークに顔の上半分を齧られている少年がいる。

 キュポキュポと独特の音を立てながら口を開いては閉じてを繰り返す魚型の魔物は、すでに牙を全て抜かれているようで、実害は出ていないようだった。

 

「いえ、ネビくんは何もわかっていません」


「ああ、死んだか。もう終わりか。残念だな」


 キュポッという音が、段々と弱々しくなり、やがて止まる。

 呼吸がもたなくなったらしく、魚型の魔物は力尽きたらしい。

 すると、その魔物を頭から外して、ふぅと満足気に息を吐く少年が顔を見せる。

 うなじが見える程度に刈り上げられた黒い髪に、燃えるような赤い瞳。

 ネビ・セルべロス。

 ヨハネスと同じ孤児院で暮らす、今となっては彼女にとって幼馴染と言える相手だった。


「何度も言っていますよね? 門限は守ること。それがネビくんのその奇行を見逃す条件だと」


「もうそんな時間か。ハングリーカープに食べられるのに夢中で、気づかなかった」


「食べるのに夢中ではなくて、食べられるのに夢中になる人、この世にいたんですね」


「なるほど。さすがヨハネス。食べるのも、アリだな」


「余裕でナシです。魔物は食べ物ではありません」


 顔に噛まれ後が残るネビから目を逸らし、ヨハネスは大きく溜め息を吐く。

 自らの命の危険を度外視した、魔物狩りレベリング

 もう何年も一緒に過ごしているが、いまだに彼女はそのネビがレベリングと称して魔物の生息地に向かうたびに気が気でなかった。

 ネビが一線を超えないように見守るために、なるべく彼に着いていこうとしているが、限界はある。


「……あまり無茶をしないでください。貴方が傷つく時、他に傷つくものもあるのですから」


「俺が傷つくと、俺以外に傷つくやつがいる? 赤錆のことか?」


「はあ。もういいです。帰りますよ。ネビくん」


「ん? まあ、そうだな。頭痛と吐き気が止まらないし、そろそろ帰るか」


 足に複雑に絡まった蔦を赤く錆びた剣で丁寧に切り裂くと、ネビはそこでやっと帰路に着く意思を見せる。

 もうすっかり辺りは暗くなっている。

 ヨハネスは橙色のランプの灯りがあるため、かろうじて自らの周囲が見渡せるが、ネビは何も持っていない。

 どうやってこれまで夜目を保っていたのか彼女は不思議だったが、ネビだからという理由ですぐに自分を納得させた。


「知ってるか、ヨハネス。深層都市ジャンクボトムには、神すら手を出せないほど強大な魔物がいるらしい。いつかレベリングしてみたいな」


「深層都市ですか。よく知ってますね、そんなこと。前から思っていましたが、そういった魔物の情報をネビくんはどこから仕入れているのですか?」


「主に雑誌や記事からだな」


「確かに孤児院に来た頃から、よく読み物をしていましたね。最初から文字が読めたみたいですが、どこで学んだのですか?」


「最初から読めたわけじゃない。まともに文字を読めるようになったのは、ここの孤児院に来た後だ」


「え? そうだったのですか? 昔から普通に内容を理解しているように思えましたが」


「文字は規則性が顕著だからな。記号として認知して、あとはパターン分類を繰り返していけば内容は理解できるようになる。シンプルな作業だよ」


「……シンプル、ですかね、それ」


 長い時間をネビと共に過ごしているが、それでもその黒髪赤目の少年の底をいまだにヨハネスは計りきれないでいた。

 自らの命を賭すことを生き甲斐にしているという印象は強く受けているが、それ以外は秀才と言っていいほど賢いヨハネスを持ってしても理解が追いつかないところが多かった。


「待て、ヨハネス」


「なんですか? 本当にもう帰りますよ」


 ふと、ネビが足を止める。

 鋭い視線を細め、風が葉を揺らす音しか聞こえない暗闇に耳を澄ます。

 不審な様子にヨハネスは怪訝に眉を曲げるが、次の瞬間彼女の視界が真っ暗に染められる。


「——きゃっ!? ネビくんっ!? な、ななななにをっ!?」


「俺もまだまだだな。これほど近づかれるまで気付けないか」


 気付けばネビに抱きしめられていたヨハネスは、完全に思考が真っ白になる。

 想像していたより筋肉質な胸板を感じ、脈が不規則に波打つ。

 だが、思わず顔を上げてネビの顔を覗き込み、そこでやっと彼女は違和感に気づく。

 糸を引くように、ネビの口元から垂れる真っ赤な血。

 ポタ、ポタ、と知らない間に身長差がつき始めていたネビから、ヨハネスの顔面に血がこぼれ落ちる。


「え? ネビ、くん……?」


「こいつは多分、レベリングにならない。さて。どう次に繋げるか」


 地面を転がり、ランプの灯りが影を揺らす。

 闇に目を凝らせば、ヨハネスより背の高いネビより、さらに背丈の大きな細長いシルエットが見える。

 耳まで口が切り裂けた、棒切れのように身躯の細い人に似たナニカ。

 その手元には鎌のような物が握られていて、二つの瞳と頬の部分にも裂けるようにして瞳が二つある四眼の怪物。

 


「soooooooooooo」



 すでにその白い刃にはベットリと血がこびりついていて、ネビの背中に深い傷が刻まれていることにヨハネスは遅れて気づく。

 怪物が、笑う。

 充満する、死の香り。

 かつて親友を一人、魔物に奪われた時のトラウマが思い返され、ヨハネスの身体が金縛りにあったように動かなくなる。

 

「So」


「堕ちろ、【赤錆】」


 目にも止まらぬ速さで白鎌が振り抜かれ、再び血飛沫が闇に飛ぶ。

 驚異的な反応で、ネビが動けないヨハネスを抱えたまま横の大きく飛び退く。

 肩を僅かに切り裂かれたネビは、一切の迷いなく転がっていたランプを地面に叩きつける。

 灯る、炎。

 落ち葉に引火した火は瞬く間に燃え移り、得体の知れない四眼の怪物とネビの間に火の壁を作り出す。


「この程度じゃ、止まらないだろうな。腕の一本くらい、捨てとくか?」


「Sooo」


 燃え盛る森の中を、怪物を気にすることなく一歩踏み出す。

 身体が火が包まれるが、四眼の魔物は笑みを深めるばかり。

 ヨハネスは、理解する。

 このままでは、二人とも、死ぬと。


「逃げてください、ネビくん。わたしが足手纏いなのは、わかっていま——」


「ああ、悪い、ヨハネス。今はお前の言葉に意識を割く余裕がない。後で聞くよ」


 ——しかし、ヨハネスの絶望を容易く切り捨て、ネビは一歩前に踏み込む。

 激しい炎は当然の身も焦がし、焼き爛れて肌の皮膚が剥がれそうになる。

 狙うは瞳。

 腕の一本は、失ってもいい。

 魔物の視界を潰し、闇に紛れ、逃げ切る。

 その非情な判断を、秒で下したネビは、炎に炙られる痛みで集中力を研ぎ澄まし、牙を向く。



「君は変わらないな、本当に。そんな簡単に四肢を捨てるなよ。判断がファック早すぎる。《補陀落渡海ポタラカ》」



 実態のない骸骨が、唐突にネビの身体に憑く。

 ネビの焦げた身体が、瞬く間に無傷の状態へと変化する。

 振りかぶった魔物の白刃が、横から突如伸びてきた素手に掴み取られる。


「So?」


「臥るな、【紫陽花】」


 鋭利な鎌の刃を握りしめても、滲むのは僅かなかすり傷の薄い血だけ。

 その乱入者に対して視線を向ける前に、あっという間に四眼の魔物は首を断ち切られる。

 紫が薄く色づく細長い剣。

 若白髪の目立つ黒髪と憂いを含んだ深い藍色の目。

 シックなカーディガンを着込んだ若い女性が、酷く疲れた表情でネビの方に暗い瞳を注ぐ。



「久しぶりだな、ネビ君。元気そうで、ファック何よりだ」





————





 深い森の中で出会ったその女性の名はロフォカレ・フギオというらしく、ヨハネスは僅かにネビと似た気配を感じ緊張に身を強張らせた。

 ネビの方は純粋に嬉しそうに顔を綻ばしている。


「ロフォカレ姉さん! レベリングをし続ければいつかまた会える気がしてたんだ!」


「レベリング? なんとなく私の知っている加護集めレベリングとは違う意味に感じるが、私も君にはまたどこかで会える気がしていたよ」


 どこからともなく姿を現したロフォカレとネビが旧知の間柄らしいことを知り、ヨハネスは驚く。

 ネビが孤児院に来る前のことはよく知らなかったが、まさか姉と呼べるような相手がいるとは想像していなかった。


「ネビくんのお姉様? なのですか?」


「実際に血が繋がっているわけじゃない。私が仕事で野戦病院に寄ったことがあって、その時にまだファック赤ん坊のネビ君と出会ったんだよ」


「そう、なんですね」


 ネビが戦争孤児であることを唐突に知らされ、ヨハネスは息を呑む。

 確かにある程度年齢を重ねてから孤児院にやってくるネビのような子供は珍しかったが、それがまさか戦火出身とは想像していなかった。


「それから四年か五年くらいかな。そのままその野戦病院で仕事を続けて、そこで別れた。だからネビくんと会うのは大体十年振りくらいだ」


「お仕事というのは? 何をしていらっしゃるのでしょうか?」


「ただの魔物狩りだよ。私は加護持ちギフテッドだからな」


加護持ちギフテッド! す、すごい。本物は初めて見ました」


「まあ、そうだろうな。加護持ちはすぐに死ぬ」


 ロフォカレは特に感情を乗せずに、そう吐き捨てる。

 “加護持ち”。

 神々に認められた選ばれし者たち。

 魔物を打ち破る使命を持ったその超人たちのことを、そう特別に呼称することはヨハネスも知っていたが、実物を見るのは人生で初のことだった。 

 

「それで君は?」


「わ、わたしはネビくんと同じ孤児院で暮らしている、その、幼馴染みたいなものです。ヨハネス・モリニーと言います」


「孤児院? 野戦病院を出た後すぐにか?」


「いや、違うよ、ロフォカレ姉さん。野戦病院を出た後しばらくの間は、魔物の生息域で過ごした。そこで気づいたんだよ。レベリングの素晴らしさにね」


「……そうか。君を見つけたあの地域も十分魔物の生息域だったように思えるが、まあ、あまり深く聞かない方が良さそうだな」


 面倒な気配を感じ取ったのか、ロフォカレは意図的に目を逸らしてネビの過去を掘り下げるのをやめる。

 腰辺りから煙草を取り出し、地面に僅かに燻る火の粉から熱をもらう。

 白い煙を口から立ち上らせて、暗い瞳をネビの方に真っ直ぐ注ぐ。


「ネビ君。君は加護持ちに向いてるよ。むしろ君が他の道を選ぶと、なんとなくファックな結末につながる気がしてならない」


「加護持ち、か。正直あまりよく知らないんだが、神々から加護をもらうために試練を受けるんだったか?」


「そうだ。加護持ちになれ、ネビ・セルべロス。十年くらい前に初神バルバトスがギフテッドアカデミーを立ち上げてからは、加護持ちの死亡率も減ってきている。悪い話じゃないはずだ」


「ロフォカレ姉さんがそこまで言うなら、少し、試してみるか」

 

 しかし、そこまでネビとロフォカレの会話が進むと、ヨハネスは気づいてしまう。

 ネビの赤い瞳に、灯る好奇心の光。

 今のヨハネスにとって、ネビは生活の全てになりつつあった。

 言葉や態度では見せないが、彼女にとってネビだけがこの世界との関わりに近い。

 孤児院ではもう、他に会話を交わす者はいなくなった。

 そのネビが今、新しい世界へと踏み出そうとしている。


「ネビくん、孤児院を、出るんですか?」


「ああ、そうだな。そろそろ頃合いかもな。出るか」


 あっさりと、ネビはいつものように迷わず言い切る。

 冷たい風が、自分とネビの間に吹き抜けた気がした。

 ヨハネスは、縋るようにして震える喉を鳴らす。


「わ、わたしも、加護持ちになります!」


「いや、やめておけ。ヨハネス君、君はネビとは違う。加護持ちには向いていない」


「でも、それじゃあ、わたしは、これからどうしたら……」


 途端に涙目になるヨハネスを見て、ネビは不思議そうに首を傾げ、ロフォカレは彼女にしては珍しく驚きに目を見開いた。


「……驚いたな。ネビ君がいなくなることを、惜しむ人間がいるとは」


「ん?」


 ネビが何か言いたげに反応するが、ロフォカレは無視してヨハネスとの会話を続ける。


「それなら、いい場所がある。私が案内しよう。そこなら加護持ちにはなれないが、また別の役職を得られるだろう。ヨハネス君はそっちの方が向いてそうだ」


「いい場所、ですか?」


「ああ。もしネビ君の隣に立ち続けたいなら、それなりの覚悟がいるぞ」


「覚悟なら、いくらでも」


 薄らと滲む、狂気の種。


 資格は十分。


 この再会と出会いは偶然か必然か。


 どこに記されることもないが、これが歴史の岐路となる。


 ロフォカレは煙草の煙を肺に入れて、気持ちよさそうに息を吐く。



「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。頼んだぞ、二人とも。未来の私を楽にさせてくれることをファック期待しているよ」

 

 


 

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