永眠


 実に長い時代を生きてきた。

 基礎の黒水牛カトブレパスはモノクロの世界を睥睨しながら、すでに今は埃被りとなった過去を思う。

 目の前では、小さなイキモノが彼に向かって剣を奮い続けている。


「ファックファックファック仕事ファックファックファック」


 その小さなイキモノは、頑丈だった。

 基礎の黒水牛カトブレパスの知る世界には存在しなかった力を使い、彼の身に毒を染み込ませる。

 腹立ちと共に何度も叩き潰そうとしたが、決して倒れることはない。

 最初は目障りなだけだったが、基礎の黒水牛カトブレパスは賞賛の感慨を覚えるようになり始めた。


【MO!】


 眠りから目覚める前の時代の中、基礎の黒水牛カトブレパスを封印した、自らを“悪魔”と称する外から現れた存在を除けば、挑まれることすらほとんどなかった。

 それゆえに、怒りは段々と収まり始めている。

 身体の傷は増える一方、確実に毒牙が身を蝕み続け、無尽蔵に思えた体力が確実に削られている。

 この矮小な身にこれほどの力が秘められているとは。

 基礎の黒水牛カトブレパスは魔眼を使いその小さなイキモノの身動きを止めて、再び叩き潰そうとしたが、黒い片翼がその動きに反応して身を防ぐ。

 圧倒的な体力と破壊力、そして魔眼。

 その単純な力だけで、この力に繁栄していたイキモノ達から崇められ、畏れられ、“天使階級アンゲロス”と呼ばれていた彼にとって、それは新鮮な痛みだった。


「ファック」


 しかし、基礎の黒水牛カトブレパスには理解できていた。

 その毒牙は、僅かに自らに及ばないと。

 小さなイキモノは確かに頑丈だった。

 それでも限界は見え始めている。

 すでに息は荒く、全身は傷だらけ。

 通っている痛みの量は同程度かもしれないが、元々の体力に差がありすぎる。

 このままこの状態が続けば、確かに基礎の黒水牛カトブレパスも瀕死の状態に陥るだろうが、その前に小さなイキモノが先に限界を迎える。

 魔眼に毒が回り、痺れるような痛みを感じるが、死には届かない

 基礎の黒水牛カトブレパスは賞賛するが、許しはしない。

 自らに刃を向けた代償は、命を持って取らせる。

 この小さなイキモノは、潰す。

 彼は、無慈悲に前脚を再び振り下ろす。



「アハッ! イッツァレベェェェェリングタァイム!」

 


 その時、何かの鳴き声が聞こえた。

 基礎の黒水牛カトブレパスの知覚範囲内に、ざらついたノイズが混じり込む。

 それは、小さなケモノだった。

 確か、一度退けたはずの、覚えのある気配。

 気配自体は、大きくない。

 だが、長い時代を生きてきた彼ですら感じたことのない、異質さを感じ取れる気配。


 あれを、近づけさせてはならない。


 自身ですら違和感を覚えるほどの、奇妙な拒絶反応。

 基礎の黒水牛カトブレパスは本能的に動く。

 口腔から舌を鞭のようにしならせ、小さなケモノに向けて放つ。

 目の前の頑丈な小さなイキモノに比べたら、気配は小さい、おそらく一撃で屠れるだろう。

 なぜこの程度の存在に、自身が危険性を感じ取っているのが理解できないほどだ。


「ああいいね。これで、よく見える」


 しかし、基礎の黒水牛カトブレパスの予想とは異なり、その初撃は回避される。

 その小さなケモノは魔眼を警戒してか、全く関係ない方向に視線を向けていた。

 それにも関わらず、完璧な回避。

 基礎の黒水牛カトブレパスの身に回る毒が、重くなる。

 届かないと思っていたはずの刃が、少し近づいた気がした。

 

 「やっと戻ってきたか。自由な働き方で羨ましいよ、本当に」


 小さなイキモノの、気配も変質する。

 これまでの鬼気迫る緊張が解け、どこか安堵した雰囲気に変化する。


 なぜ? 安堵する?


 基礎の黒水牛カトブレパスには理解できない。

 戦況は大きく変化していない。

 小さなケモノが加勢したようだが、頑丈な小さなイキモノに比べれば、気配はずいぶんと小さい。

 脅威には、ならない。

 そのはずなのに、もうすでに勝負は決したと言わんばかりの微笑みを見せる小さなイキモノ。

 基礎の黒水牛カトブレパスは、異質な違和感を拭い去るために、暴力を振りかざす。


「アハハッ! 一発でも喰らったら死ぬなコレェ! それそれッ! ありがとうおおおおおお!?!?!?」


【NOOOOOOOO!!!!!!!!】


 道理のわからないことを宣いながら、小さなケモノが駆ける。

 涎を散らかしながら、錆びた刃を基礎の黒水牛カトブレパスに突き立てる。

 

 こいつは、ダメだ。


 本能が、存在を拒絶する。


 基礎の黒水牛カトブレパスは僅かな焦燥と共に前脚を振り下ろすが、それはまたもや奇跡的な回避によって無効化される。

 相変わらずケモノは彼のことを見ていない。

 

 気配は小さい。

 

 ただ、異質。

 

 毒は回り続ける。

 

 だが、毒よりも危険な気配が、彼の身を齧り始めている。


「お楽しみのところ悪いが、ネビ君。私の剣想イデアはそろそろ限界だ。働き方ファック改革を推進してるんでね。あと少しで私は一時的に剣想が使えない状態になるが、引き継ぎはいるか?」


「問題ないよ、ロフォカレ姉さん。状況は全て頭の中に入っている。こんなに質のいい鍛錬レベリングは滅多にできない。それもロフォカレ姉さんのおかげだ。ありがとう」


「普段はあまり命の危険なんてものは感じないんだが、なんだか君に感謝されるたびに死にかけてる気がするよ」


「残りの鍛錬レベリングは俺に任せろ。大丈夫さ。食べ残しはしない。喉が焼けても飲み込むよ」


「ふふっ。そうか。ならいいが。働きすぎるなよ、ネビファッ君」


 小さなケモノが、もう何度目かわからない錆びついた剣閃を基礎の黒水牛カトブレパスに刻む。


 痛みはほとんどない。

 ただ、何か魂の欠片を奪われている気がした。


 異質なケモノはその度にこれ以上ないといった笑顔を浮かべる。

 ぱりん、ぱりん、とこのケモノが現れから断続的に響くガラスの割れる音。

 宙に跳ねる破片だけを視線に収めながら、上機嫌なケモノが基礎の黒水牛カトブレパスの周囲を縦横無尽に駆け回る。


【MOOOOOOOOO!!!!!!!!】


「フゥーッ! お前も楽しいかっ!? 盛り上がってきたなァ!? いいねぇッ! これだけロフォカレ姉さんの毒を喰らっても死なないなんてッ! 最高すぎる! もっとレベリングしたい! お前でもっともっとレベリングしたああああいい!!!!」


 基礎の黒水牛カトブレパスの焦燥はやがて怒りに変わる。

 

 目障りだ。

 煩わしい。

 こいつは殺す。


 何度その錆びた切先で切り付けられようと、ほとんど痛みはない。

 だが、確かに何かが奪われ続けている。

 死が、近づいてきている。

 自らには無縁だと思っていた、最期の気配が、死角から迫りきている。


「ああ、労働規制だ。あとは、任せたぞ」


「もうデザートの時間か。楽しい時間は過ぎるのが早いな」


 瞬間、小さなイキモノの気配が一気に萎む。

 黒い片翼は消え、唯一基礎の黒水牛カトブレパスに痛みを蓄積させ続けていた毒の刃も消失する。


 均衡が、崩れた。


 唯一基礎の黒水牛カトブレパスに、僅かでも対抗できていた気配が引いた。

 もはや、意識をそちらに割く必要はない。

 まずは全力で、この異物を取り除く。

 小さなケモノの息の根を、止める。

 


「《上級術式:竜咆紅蓮》」


「《上級術式:千年水晶》」



 身軽な動きで、不敬にも自らの頭上に駆け上がった小さなケモノを捻りつぶそうと上体をあげた瞬間、凄まじい魔素の奔流を感じ取る。

 掲げた腕を鋭いクリスタルが貫き、腹部に竜を形取った炎が炸裂する。

 その隙に頭部に赤く錆びた刃を一度突き刺すと、あはっ、と一声笑って、ケモノは宙返りして火炎渦巻くクリスタルの切先に立つ。


「最悪だ。レベリング地獄に着いちまった。超絶帰りてぇ」


「うっわ。あれが噂の堕剣すか。相手にしてる魔物、なんか強すぎません? やべー。一目見ただけで関わっちゃいけない感ぷんぷん丸わかり。てかひとの上級術式の上に勝手に立つなよウケる」


 他愛もない気配が、また増えた。

 脆そうな小さなイキモノが、二つ分。

 基礎の黒水牛カトブレパスの焦燥が、加速する。

 毒は、消えない。

 果てがないと信じていた自らの体力に、底があったことを自覚する。

 どれもこれも、矮小だ。

 一捻りで、命を奪える程度の存在感しかない。


「ああ、剣想の恒常使用で、幻聴が聞こえるぞ。お前の体が囁いてるんだ。レベリング、レベリング、もっとレベリングしてくれって、囁いてんだよなあああ!?!?」


「……なんかあの人ウケ超えて怖いんすけど。オルフェウス先輩、もしかして堕剣って、アタオカすか?」


「目は合わせないようにしておけよ。レベリングされるぞ」


「てかさっきから当然のように使ってるそのレベリングってなんすか? 謎用語すぎて怖すぎウケる」


 自らの身を貫いたクリスタルの槍を、力任せにへし折る。

 頑丈だが、あの小さなイキモノほどではない。

 毒が身を蝕み、ケモノが心を齧りつづける。

 魔眼から流れ出る血の勢いは増すばかり。

 小さなケモノは、いまだに恍惚とした笑みを浮かべ続けている。



「やっと見つかったと思ったら、また厄介そうなものを相手にしておるようじゃな、我が剣よ」


「追いついた。さあ、私を好きに使って、と思ふ」

 


 さらに気配が、二つ分増えた。

 その内の片方に、どこか懐かしい匂いを感じ取る。

 古き時代の記憶。

 基礎の黒水牛カトブレパスを封印した悪魔を、ふと思い出す。

 しかし、小さなケモノはセピア色の懐古を許さない。

 


「堕とせ、アスタ、グラシャラ」



 言葉短く、小さなケモノが端的に命じる。

 たったそれだけで意図が伝わったようで、新たな気配が動く。

 片方は姿勢低く猛然と駆け出し、もう片方は迷わず自らが持つ刃を自身の太腿に突き刺す。

 

「挨拶もなしに悪いな、強き魔物ダーク! 我が名は第七十三柱、腐神アスタ! 崇める必要はない! ただ畏れ敬え!」


「溢れて溶けて交わりて、《赤縄繋足ゲルニカ》」


 懐かしい小さなイキモノが、勢いよく掌底を基礎の黒水牛カトブレパスに叩き込む。

 小柄な体に似合わない、凄まじい衝撃。

 嵐のような突風が吹き荒れ、意識を小さなケモノに注ぎすぎた彼は、大きく吹き飛ばされる。

 

 底無しの産声エンドレスホープの真上に、基礎の黒水牛カトブレパスの身体が浮く。


 気づけば魔眼に毒が回り、視線を向けられなくなっている。

 真っ暗な穴の真上に吹き飛ばされた基礎の黒水牛カトブレパスは、その底の見えない闇の奥から感じたことのない怨嗟に似た魔力の渦を感じ取る。



「……言われた通り、準備は完了しましたよ、ネビくん」



 深い穴の対岸で、知らない間にまた気配が増えている。

 小さなケモノほどではないが、それも僅かな異質を含んでいる。

 胸元に深い傷をすでに負っている傷ついた小さなイキモノは、この場において最も強大な存在であるはずの基礎の黒水牛カトブレパスのことは一切視界に入れず、異質なケモノだけを見つめている。


「どうだ、ヨハネス。俺からの贈り物は気に入ってくれたか? お前は俺に生きた魔物をくれたからな。代わりにお前には死んだ魔物を贈らせてもらった。気が利いてるだろ?」


「どこに幼馴染に魔物の死体をプレゼントする人がいるんですか。気が触れてるの間違いでしょう」


 傷ついた小さなイキモノが、両手を掲げる。

 それはどこか、祈りに似ていた。

 祈りの先は、赤く錆びている。



「《上級術式:火転魂葬》」



 数えきれないほどの術式が、同時に発動する。

 数字の羅列が、闇の底辺で光輝く。

 夥しい量の魔物の死が、火葬に転化される。


 燃え盛る炎。


 一つの火なら、火傷程度で済む。

 しかし、それはあまりに数が、質が、桁違いだった。

 どれほどの死を焚べれば、ここまでの炎が焚き上がるのか。



「熱いね。やっぱりレベリングは、こうでなくっちゃ」



 地獄の業火に焼かれる基礎の黒水牛カトブレパスに向かって、小さなケモノが飛ぶ。

 気づけばその身には、真っ赤な血で作られた狼の鎧のような纏い、そのまま勢いよく跳躍する。

 赤く錆びた剣を、基礎の黒水牛カトブレパスの瞳に突き刺し、舞い散る血飛沫はすぐさま炎に蒸発させられる。


「もっともっともっともっともっと」


 眼空に突き刺された剣の柄底を、ケモノは笑いながら拳で叩く。


 回り続ける毒と、異次元の業火に焼かれ、基礎の黒水牛カトブレパスの身に死が間近に迫る。


「もっともっともっともっともっと」


 そして、毒も炎も無視して、剣を拳で殴り続ける異質なケモノ。


 拳で叩くたびに、少し、錆びた刃が身に押し込まれる。


 何度も、何度も、何度も、拳を振るう。


 ごん、ごん、ごん、と拳が剣を叩き、少しでも深く刃が突き刺さるようにする鈍い音だけが聞こえる。


 手の皮が剥け、血が滲み、それでも剣の柄の底を狂ったように叩き続ける。


 


「あああああああああアアアアアアアアアレベリングゥゥゥゥぅゥ!!!!!!」




 実に長い時間眠り続けていた。


 目覚めた世界は、血と炎によって彩られている。


 基礎の黒水牛カトブレパスは、自らの最期を悟る。


 そして最後に思う。


 自ら眠っている間に、随分と世界は異質なものに変わってしまったのだと。


 

 こんなケモノが野放しにされている世界ならば、永遠に眠っている方がマシだと。

 

 

 

 

 

 

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