剣帝



 その怪物の前に立つだけで、自らの何かが磨かれていくのが今の彼女には理解できた。

 迂闊にも受けてしまった傷は、嘘のように消えてなくなった。

 身体は信じられないほど軽い。

 物足りないほどに痛みはない。

 “黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンドは、一度だけ隣に立つ背の高い女に視線を送った後、目を地面に伏せながら走り出す。


(“剣帝”ロフォカレ・フギオ。ネビさんを狙っていたはずだけど、この状況から察するに先に優先順位を変えたようね。剣帝を削る作戦か。さすがネビさん。戦略面では剣帝を凌いでいる)


 ナベルは思考を高速で働かせる。

 今、自分に求められている役割は何か。

 自らが封印を解いた場所から現れた魔物ダークは、ナベルからしても規格外。

 一度捕食されかけてしまったことからも、少しでも気を抜けば容易く自らを屠り得る圧倒的格上の魔物だ。


(本来なら、私も剣帝を狙うべきだけど、この魔物はよそ見をするには強すぎる。それを剣帝も理解しているから、私に何かしらの回復作用を働かせて最低限の的になるよう仕向けてきた。なら、私がすべきは、なるべく剣帝を巻き込んで戦うこと。うふふ。上等。こんな難解な注文、私以外だったら、把握することすらできないってわかってる? お馬鹿で賢すぎるネビさん)


 要求されているのは、数ミリの綱の上でジャグリングをするような、あまりに緻密で命知らずなもの。

 それでも、ナベルは嬉々と笑う。

 彼女は嬉しかった。

 求められているものが大きいほど、期待されている気がして、胸の奥が赤く燻るのだった。


「まず、仕事をするにあたって、大切なのは状況整理だ。前提として、その目の前の馬鹿げた魔物に君は勝てない。だから、目指すべきは、勝利じゃない」


「うふふっ。もしかして、この状況下で説教ですかぁ? 本当に神下六剣って、頭の出来が違うんですね。あ、もちろん悪い意味で、ですぅ」


「MO」


 基礎の黒水牛カトブレパスが前脚を振り下ろし、地面を揺らす。

 たったそれだけで、地面を衝撃波が伝い、ナベルの身に襲いかかる。

 自らの剣想イデアである黄昏たそがれを振るうが、勢いを完全に殺すことはできず吹き飛ばされる。


「今の君にできることは、学ぶことだ。仕事のやり方を学び、生きて、そしてこれから先で私を楽させろ。わかったな? メモは取らなくていい。ファックだけしてろ」


 吹き飛ばされたナベルと入れ替わるように、剣帝ロフォカレが風のように駆け抜ける。

 ナベルが衝突したおかげで衝撃波の一箇所に、無風地帯が生まれていて、そこを的確にロフォカレは潜り抜けていく。

 

(ちっ。上手く私を使われた。クソが)


 利用されたように感じ憤慨するナベルだが、自らの身体に傷が増えていないことを確認すると、苛立ちを鎮めて体勢を立て直しロフォカレを追いかける。

 彼女の遥か先を走る剣帝は、感情の映らない鉄仮面のまま、淡々と紫紺に薄く色づく剣想を振り抜いていく。


「まだ臥るなよ、【紫陽花】。仕事は終わってないぞ」


「NoooooooooooooOOOOOOO!!!!!!」


 彼女が紫陽花と呼ぶ剣想が、基礎の黒水牛カトブレパスの瞳を切り裂く。

 黒く濁った血が迸り、怒り猛る太い腕がロフォカレを捉える。


「新人。ファック飛び込め」


「言われなくても、そこが死地なら」


 脳天が揺れる振動。

 ロフォカレが再度一撃を貰った瞬間、ナベルが剣の届く間合いに踏み込む。

 傷が増えれば増えるほど、異能を宿した瞳が増えるならば、狙うは一つ。

 

「多分、私が生身でまともに一撃でも喰らえば、それでもう終わるでしょうね。でも、不思議と恐怖はクソほど感じないんですよねぇっ! 美味そうなクソ牛さんよおおおお!?!?!?」


 絶叫しながら、ナベルが黄金の剣先を基礎の黒水牛カトブレパスのすでに赤く傷ついた瞳にさらに深く差し込む。

 血肉を抉る感覚。

 ナベルは確かな手応えに、口角を上げる。


「NO」


「え?」


 しかし、黄昏が突き刺さったまま、瞳が見開く。

 傷を、痛みを、確かに与えられてはいる。

 

 それは、ただただ、圧倒的に足りないだけ。


 基礎の黒水牛カトブレパスの無尽蔵の体力からすれば、吹けば飛んで忘れるようなあまりに些細な傷跡だったのだ。


「MO!」


「かはっ——」


 気づけば迫り来る黒い毛に覆われた前脚。

 避ける余裕はなく、簡単にナベルは捻り潰される。

 全身がペチャンコに潰されるような、異次元の衝撃。

 痛みはなく、外傷もないにも関わらず、一瞬頭の中が完全に真っ白になった。


「可愛い後輩を虐めるなよ、牛ファック野郎」


 漆黒のネクタイが、ナベルの視界の中で、揺れる。

 先ほど吹き飛ばされたばかりのロフォカレが、すでにまたもや剣を振り抜いている。

 鋭く、無慈悲な一閃は、確かに届く。


「Nooooo!!!!!」

 

「おっと失礼。雄とは限らないか。仕事に思い込みは禁物だったな」


 基礎の黒水牛カトブレパスが、憤怒する。

 その怪物は、我慢ならなかった。

 なぜ、この小さき生き物は、まだ自らに向かってこれるのか。

 何度も、何度も、叩き潰したのに、どうしていまだに耐え切るのか。

 黒髪に雪のような白を混ぜる矮小な雌の人間。

 王という呼称すら不相応なほど気高い牛の魔物は、雄叫びを上げながらもう一度その女を踏み潰す。



「……不死身ですか。これが人類最硬の加護持ちギフテッド。遠い、ですね。私の目指す場所は」



 ミシミシ、と音を立てて、基礎の黒水牛カトブレパスの前脚が持ち上げられる。

 その下では、口から血を垂らしながらも、涼しげな表情で自らの体より遥かに大きな前脚を持ち上げる女がいる。


 痛みはある。

 疲れもある。

 そして喜びも、快感も、興奮も、何もない。


 それでも彼女は、立ち上がる。

 なぜなら、まだが終わっていないから。


「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事」


 とん、と軽快な音を立てて、ロフォカレが地面を蹴る。

 頭痛がした。

 並の加護持ちであれば、一撃で死に至るほどの凶撃を何度も受けている。

 さすがの彼女でも、身体が重く感じ始めている。


「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事」


 しかし、足を止めることはできない。

 ロフォカレにとって、魔物狩りは義務。

 使命感だけが、彼女を急かす。


 もう、何十年も、毎日、毎日、戦い続けている。

 

 その闘争の日々の中で、これまで何人もの仲間たちが、死んでいった。


 救えなかった、命がある。


 ただ、後悔しているわけではない。


 常に最善は尽くしてきた。


 救えるものは、救ってきた。


 だから、剣帝ロフォカレは、それを今日も続けるだけ。


 過去の自分を、肯定するために、今の自分にできることを、やり続ける。


 仕事。

 仕事。

 仕事。


 目の前に積まれ続ける、魔物狩りという仕事を、一つ一つ、確実に終わらせていく。


 できる範囲で。

 背負えるだけ、背負って。

 全ては、救えない。

 だから、救えるものは、救う。

 生き残った者の義務として、剣帝は自らに伸し掛かる責任に耐え続ける。

 


「定時だ、ナベル・ハウンド。ご苦労様。君は十分、働いた」



 隙をついて、聡く基礎の黒水牛カトブレパスの間合いから抜け出したナベルに視線は合わせず、ロフォカレが労いの声をかける。

 ナベルは自らに宿っていた全能感が消えるのと同時に、すぐに悟る。

 今の実力では、たった一撃まともに貰うだけで、絶命する。

 これ以上は、ここに入れない。

 悔しさで、若き黄金姫は歯軋りをする。


「……いつか必ず、並びます。剣帝ロフォカレ・フギオ」


「並ぶとは言わず、追い抜いてくれ。今の所、私を楽にしてくれる奴は、一人しかいないからな」


 剣帝が、一歩前に踏み出す。

 くたびれた黒いスーツの背中が、一際大きく見える。

 気配が、変わる。

 一線が、引かれた気がした。

 ここから先に行けるのは、限られた者のみ。

 その限られた者を、神は、世界は、神下六剣と呼ぶ。


【MO?】


 基礎の黒水牛カトブレパスが、応えるようにその身に纏う圧力を一段階上げる。

 ザザ、ザザ、ザザ、とノイズに似た耳障りな音が剣帝の手元から響く。

 冷め切った紫紺の瞳が、目の前の怪物を真っ直ぐと見据える。

 魔眼の影響を受け、身体が硬直する。


「自分にできることを、確実にこなす。できないことは、できないと認め、手を離す。それが本当に仕事ができる奴だ」


 基礎の黒水牛カトブレパスは、動けない。

 ロフォカレの動きは、止めた。

 だが、本能がその怪物の動きを制止させている。


 今、その女に近づいてはいけない。


 底知れない力の渦が、塒を巻いているから。


「だから、本当は嫌なんだ。この力を使うのは。私は今から、。仕事ができない奴の、やり方さ」


 剣想イデアの奥底。

 神々すら計り知れない、深層に眠る本質。

 神下六剣に選ばれるための、たった一つの条件。

 剣帝ロフォカレ・フギオは、自らの思想と哲学の否定を代償に、絶大な力を解放する。



「【剣想想起アナムネーシス】」



 ——刹那、世界が震えた。


 ロフォカレからどろどろとした魔素が漏れ出し、そこに紫と紅の色が混じる。


 人智を超えた、理を凌駕する、人が背負うにはあまりに大きすぎる力。


「ファックファックファック仕事ファックファックファック」


 ごぽっ、ごぽっ、とロフォカレの剣想から毒々しい泡が煮立つ。


 不気味な斑点が刃に浮き出て、刀身がさらに伸びる。


 無駄な脂肪のない背中から、骨ばった黒い片翼が生え、外見すらも人の限界を越える。



 “剣帝”ロフォカレ・フギオ。



 現人類最強の加護持ちが、彼女しか持ち得ぬ狂気を顕現させる。




「惡いな、【紫薇縮緬百日紅しびちりめんさるすべり】。残業だ」

  

 

 

 

 

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