『聖少女』


 宗教都市アトランティカの東部の片隅。

 そこには小さな孤児院が一つあり、物心つく頃には少女はそこにいた。

 両親の顔は知らない。

 だが、孤児院を経営する聖母マザーが少女の親代わりであり、彼女と同じように幼子の頃からこの孤児院に預けられた兄弟とも言える仲間たちがいたから、寂しくはなかった。

 このささやかな幸せは、いつまでも続くと思っていた。


「今日は皆さんに、新しい兄弟を紹介しようと思います」


 そんなある日、聖母が少女たちを集めて、いつもと同じ穏やかな声でそう言った。

 柔和な笑顔で教壇に立つ聖母の横には、一人の見知らぬ少年が立っていた。

 手入れのされていないボサボサの黒髪。

 爛々と輝く、赤い瞳。

 年齢は十に届かない程度だろうか。

 鞘に入った剣を背負っていて、それが小さく細身な体に不釣り合いで目立っている。


「彼はネビ・セルべロスくん。皆んなの新しい家族だと思って、仲良くしてね」


 観察するかのように周囲をゆっくりと見渡す少年と、少女の視線が交錯する。

 心の底まで見透かすような、真紅の眼差し。

 何かが、違う。

 自らの周囲にいる他の子供達とは、何かが決定的に違う。

 その違和感に気づいたのは少女だけではないようで、感じたことのない色めきが孤児院の中に広がっていくのがわかった。



「……にんげんしかいない。これじゃあ、あまりレベリングにならなそうだな」



 少女——ヨハネス・モリニーがネビ・セルべロスから聞いた初めての声は、少年相応の上擦ったもので、それが彼女には意外に思えたのだった。






 ネビ・セルべロスという少年は、明らかに他の子供達と比べて変わっていた。

 中庭でボール遊びをする少年たち、日当たりの良いベンチで思い思いに絵を描く少女たち。

 その両方と混ざることなく、ネビだけは少し離れた場所で、いつも肌身離さず持ち続けている剣を一人で素振りしている。

 剣は何故か刀身を包帯でぐるぐる巻きにしてあって、その刃は見えない。

 子供が持つには重いらしくまともに振るうことができず、一度素振りをするたびにふらふらと体勢を崩していた。


「ヨハネスちゃん。つぎはヨハネスちゃんのばんだよ」


「あ、すいません。ぼうっとしてしまって」


 一緒にカード遊びをしていた同じ孤児院育ちのトルテが覗き込むように声をかけてくる。

 茶髪の癖毛を指で弄りながら、トルテは目を細めてネビの方を見やる。


「ネビくんのことみてたの?」


「え? いや、そういうわけでは」


「なんか、きみわるいよね、あのこ」


「そうですか? たしかに、すこしかわってるとはおもいますが」


「いつもひとりでブツブツなんかいってるし。へんだよ。ヘン!」


 ネビが他人とは異なっているのは、明らかだ。

 そもそも、この孤児院に預けられる子はほとんど乳児からがほとんど。

 彼のように、ある程度大きくなってからここにやってくる子供は珍しい。

 ヨハネスのように孤児院で新しい姓名を貰う多くの子供達とは違い、すでにセルべロスという姓名を持っていることから、もしかすれば最近両親を失ったばかりなのかもしれない。

 ヨハネスには時々何かに耐えるような表情をするネビが、痛みを我慢しているように見えた。


「まだ、なじめてないだけかもしれません」


「そうかな? あのこ、そもそも、うちらとなかよくするきなさそうだけど」


「きっとそんなことはありません。わたしがなんとかします」


「でた。ヨハネスちゃんって、ほんとうにやさしいよね。あんなのほうっておけばいいのに」


「だめですよ。ここにいるみんなが、かぞくなのですから」


 本人が自ら積極的に孤児院の輪の中に入ろうしないこともあって、ネビを他の子供達が受け入れる気配はない。

 自分がなんとかしなければ、ネビはこのままずっと孤独なままだ。

 責任感の強いヨハネスはまず、ネビのことを知ろうと思い、彼を観察することにした。


(このこ、ふだんなにしてるんでしょう?)


 まず最初に思ったのは、そもそもネビの一日のスケジュールがよく見えてこないということだった。

 まず、ネビは異様に朝に強い。

 ヨハネスもどちらかといえば早起きな方だが、それでもネビには敵わない。

 孤児院の朝は、皆で食卓を囲むところから始まるが、ネビは必ず誰よりも早く席に着き、街の近況が記してある雑誌を読んでいる。

 そして勉強や礼拝で日中は過ごし、夕食の後は基本的に自由時間なのだが、そこで夜の就寝時間までの間、ネビは姿を消していることに気づいた。


(どこにいってるんでしょうね)


 ネビの観察をすること数週間、知らない間に姿を消しているネビがどうやら孤児院の外に行っていることにヨハネスは気づく。

 基本的には聖母の許可のない無断外出は禁止だ。

 だが、いつも就寝時間の前に人目につかないように孤児院に戻ってくるネビは、どこか満足気な表情をしているので、それをヨハネスが咎めることはできなかった。


(わたしたちといっしょにいるときは、あんなかお、みたことない)


 ニタニタとだらしなく頬を緩ませる表情は、孤児院の中では決して見せたことない顔だ。

 ヨハネスの知るネビは、常に無愛想な無表情をしているか、時折強い痛みに耐えるような苦悶を浮かべるだけ。

 それが外出して戻ってくる時だけ、穏やかなものに変わっている。


(やっぱり、ここにいばしょがないのでしょうか)


 ヨハネスは、きっとネビは孤独なのだと思った。

 そして皆に隠れて外に出ている時だけが、その孤独感を薄らませることができるのだと考えた。

 だから、彼女は声をかけることにした。

 孤児院の中に、せめて少しでも居場所を作れるように。

 

「またひとりなのですか?」


「ああ、そうだよ」


「ひとりじゃなきゃ、だめなのですか?」


「……それはたしかに、まだ、ためしてないな」


「じゃあ、わたしがいっしょにいても、いいですか?」


「いいけど、きみも、すきなの?」


「え!?」


「おれは、すきだよ。ほかには、なにもいらない。なら、いっしょにいてよ。きみもすきなんでしょ?」


 しかし、いざ声をかけてみると、予想外の返事が戻ってきてヨハネスは混乱する。

 ただネビを孤独にさせたくない、家族として受け入れたいという気持ちで声をかけたが、どうやら彼はそれを違う意味で受け取ったらしい。


「わ、わたしは、まだすきとか、そこまでは……」


「だいじょうぶ。すぐにすきになる。すきになるにきまってる」


「す、すごい、じしんですね」


「ああ、そうだよ。だって、ほんとうにおれ、すきだから」


 迷わず言い切るネビは、そのままヨハネスの手を握って孤児院の壁をよじ登っていく。

 同年代とは思えない信じられない跳躍能力で、いとも簡単に壁の一番上に立つ。


「わ、わあ、たかいっ! ネビくん! あぶないです!」


「しょうがないよ。リスクのないレベリングなんて、ないから」


 そのまま今度はヨハネスを抱き抱えて、ネビは孤児院の外に跳ぶ。

 それなりに高さのある壁から地面に降り立ち、骨折や怪我をしたのではとヨハネスは心配したが、ネビは痛みすら感じていないようで涼しい顔で彼女を立たせるだけ。


「けが、してないんですね。すごい」


「このまちにはほとんどまそがないからね。ここでけがしても、いみないから」


 怪我する意味がある場合があるのかと、ヨハネスは疑問に思ったが、それを口にする前にネビが再び彼女の手を引き、走り出す。

 その表情は生き生きとしていて、孤児院の領地の中では一度も見たことのない顔をしていた。


「さあ、ダークをさがしにいこう。レベリングのじかんだ」





 窓を打ちつける雨粒を眺めながら、ヨハネスは物思いに耽っていた。

 ネビがこの孤児院にやってきてから、数年が経った。

 おそらく今日も、ネビは孤児院を抜け出して、魔物探しに勤しんでいるはずだ。

 最初の頃は、孤立しているネビが心配でその魔物探しという奇特な趣味に付き合っていたが、今では流石に毎日ついていくことはなくなった。


「あ、ヨハネスだ。今日はネビと一緒じゃないの?」


 談話室の隅で頬杖をつくヨハネスの隣に、一人の少女が座ってくる。

 仲の良い友人の一人のトルテだ。

 伸びた赤毛の先を、今日も指で弄くり回しながら、揶揄うような視線をヨハネスに送ってくる。


「知りませんよ、あんな人。何度魔物探しなんて危ないことはやめてくださいと言っても、全く他人の忠告を聞かないんですから。勝手にすればいいのです」


「あはは。ネビが来た頃はあんなに仲良かったのに」


「最初から別に仲良くなんてありませんよ」


「でもネビって、ヨハネスのこと好きなんでしょ? あの変な趣味にネビが誘うの、ヨハネスだけじゃん」


「さあ。どうですかね。他に誘う相手がいないだけでしょう」


「それは言えてる。ヨハネス、結局なんやかんやで週一くらいは、ネビと一緒に街の外行ってあげてるもんね」


「限度を超えてないか監視しているだけですよ。あれでも一応、わたしたちの家族なのですから」


「男の子って、危ないことするの好きだもんね」


「ネビくんはその危ないの限度を超えそうなので。あれはほとんど破滅主義者ですよ。このままじゃいつ死んでもおかしくありません」


「さっすが、様。優しいねぇ」


「やめてください。その呼び方」


「あはは。ごめんごめん」


 ネビがレベリングと称して、孤児院を抜け出して魔物狩りを行っていることは、今や共通認識となっていた。

 まだ十代前半の子供でしかないにも関わらず、どこからか魔物の出現情報を手に入れては遠征を繰り返すネビは、孤児院でも腫れ物扱いとなっていた。

 ヨハネスからすれば、それはほとんど自殺行為を繰り返しているだけ。

 彼のことを家族の一人として考えていた彼女にとって、止めようとするのは当然のこと。

 しかし聖母マザーすら見て見ぬふりをするだけで、まともに言葉を交わすのはヨハネスだけとなっていた。


「でも明日もメフィスト様が孤児院に来るって言ってるけど、絶対ヨハネス狙いだよねー。いいなー。超イケメンで大商人のお金持ち。勝ち組決定じゃん」


「なに言ってるんですか。あれほど若い方なら、わざわざ養子を貰う必要などないでしょう」


「そうかなー」


「そうですよ」


 宗教都市アトランティカに最近移り住んできた大商人メフィスト・フェレスが、ここ数週間、何度か孤児院に足を運んでいる。

 そのため、フェレスが養子を探しにきているのではないかともっぱらの噂だった。

 その中でも年々美貌を増し、その慈愛に溢れた性格から、今や街の聖少女と呼ばれるほど有名になったヨハネスこそがメフィストに選ばれるのではと人々は囃し立てていた。


「ネビとメフィスト様だったら、どっち選ぶの?」


「やめてください。縁起でもない」


「モテる女はつらいねぇ」


「そろそろ、怒りますよ?」


「あはは。ヨハネスがネビ以外に怒ってるところ、うち初めて見るかも。だけど揶揄うのはこれくらいにしなきゃだね。ヨハネスを怒らせたら、うちこの孤児院に居場所なくなっちゃうもん」


「……変なこと言ってないで、そろそろ寝室に行きましょう。もう就寝時間が近いですし」


「はーい。聖少女様の仰せのままにー」


 そう口にするトルテの瞳に僅かな嫉妬の影が含まれていることにヨハネスは気づいてしまったが、それを見て見ぬふりをする。

 今やヨハネスはこの孤児院の顔でもある。

 彼女の存在によって、多額の寄付が送られてきて、年々孤児院の環境設備が良くなってきていることを、誰もが知っている。

 それゆえに、段々と周囲の関係性に変化が生まれ始めている。

 その変化が、少しだけヨハネスを不安にさせていたのだった。






「あの赤毛の少女を、僕の養子にさせて頂きたい」


 紫紺の長帽子を被った、痩身の紳士が穏やかな笑顔を見せる。

 孤児院に大きなざわめきが広がる。

 昨晩の雨が続く朝。

 大商人メフィスト・フェレスが一人の少女を、自らの養子に選んだ。


「え、う、嘘。うち? ヨハネスじゃなくて、うち?」


「はい。君がいい。僕は、君がいいんです」


 ヨハネスの隣に立っていたトルテが、信じられないと言わんばかりに目を見開く。

 高級感の溢れるスーツ姿のメフィストは首元のスカーフを手で形を整えながら、聖母の方に近づくと分厚い封筒を一つ手渡した。


「……トルテ。準備をしなさい。あなたは今日から、メフィスト様の養子となります」


「は、はいっ! 喜んでっ! よろしくお願いいたします、メフィスト様っ!」


 友人の一人が大商人の養子となる。

 ヨハネスは素直にそれを喜ばしい出来事だと思った。

 しかし、トルテが不意に彼女に向けた視線の冷たさが、その喜びに水を差す。


「……最後の最後に大逆転だね、ヨハネス。実はうち、あんたのこと、あんまり好きじゃなかったよ。ばいばい」


「え?」


 嘲るように微笑むと、そのままトルテは軽やかな足取りで去っていく。

 言われた言葉の意味が、遅れてヨハネスの中に沈み込んでいく。

 笑って見送らなければ、とそれでも彼女は無理矢理に笑顔を作り上げる。


「それでは皆さん、トルテの門出を祝いましょう」


 ぱちぱち、と拍手の音が響く。

 トルテが瞳を潤ませながら、手を振る。

 メフィストが目を細めながら、トルテに真っ赤な花束を渡す。



「……あの男、人間じゃないな。擬態してるが、たぶん魔物ダークだぞ」

 


 万雷の拍手の中、ヨハネスの隣に静かに立つ少年が一人いる。

 他の子供達が興奮を顕にする中、一人だけ冷静を保ち、赤い瞳を真っ直ぐとメフィストに注いでいる。


「何を言ってるんですか、ネビくん。メフィスト様が魔物なんて。本人に聞こえるところで言わないでくださいよ」


「だが、少し、強すぎるな。今の俺じゃ、レベリングにならない」


「人に斬りかかったら、犯罪ですからね」


「いや、でも意外にそっちの方が効率がいい場合もあり得るか?」


「ちょっとネビくん、他人の話、聞いてます?」


「ん? ああ、聞いてるよ。とりあえずあの魔物に手を出すのはやめておく。死んだら、もうレベリングできないからな」


「魔物じゃなくて、人間です」


「違う。あいつ、魔物だぞ」


 なぜかメフィストを魔物だと言い張るネビに、さらに注意しようと口を開きかけるが、そこでヨハネスはふとトルテの方を見てしまう。

 うっとりとした恍惚とした表情をするトルテ。

 そして、そのトルテを目詰めるメフィストの黄金の瞳が爬虫類のように縦に割れる。


「……あり得ない」


 直感が、囁く。

 ネビの言葉に、嘘はないと。

 これまで何度もネビと魔物探しに出かけた中で、彼女の中に経験として魔物への危機察知能力が育ち、まさに今そのセンサーが反応を示したのだ。


「魔物が人間を養子にとって、何するんだろうな。レベリングかな」


 そのまま踵を返し、歩き去っていくトルテを、ヨハネスは見送ることしかできなかった。

 そんなわけが、ない。

 頭ではわかっていても、心が否定する。

 黒く濁った翳りが聖少女と呼ばれる少女の胸に、残っていて、それが酷く不愉快だった。





 トルテが孤児院を去った夜。

 ヨハネスは街の中心部にある大豪邸の前に立っていた。

 メフィスト・フェレスの住む豪邸。

 彼女は自らの胸内に残った不安の種を取り除くために、深い夜にその身を投げ出していた。

 

(ただ、確かめるだけです。ネビくんが間違っていることを、確かめるだけ」


 ネビと一緒に過ごす日々の中で、自然と育ってしまった運動能力を活かし、メフィストの邸宅の塀を乗り越える。

 まだ就寝に着くには早い時間帯にも関わらず、敷地内は音がなくひっそりとしている。

 玄関には僅かに光が灯っているようだが、その光量は頼りなく、外から中は見通せない。


(少しくらい、いいですよね? わたしも、ネビくんの悪い影響が出ているかもしれません)


 養子を迎えた初日とは思えない静けさに、不安が募るヨハネスはゆっくりと玄関のドアノブに手を伸ばす。

 ガチャ、と彼女の想像とは異なり鍵のかかっていない扉が開く。

 最初の確認程度のつもりで手をかけたのにも関わらず、開いてしまい思わず前のめりに家の中に踏み入れてしまう。


(もう、寝ているのでしょうか? やけに静かすぎる気が……)


 家の中に入っても、いまだに音は聞こえない。

 橙色のランプが灯された廊下を、小さな歩幅で進んでいく。


 カチャ。

 カチャ。

 カチャ。


 やがて聞こえてくる。硬質な何かがぶつかり合う音。

 その音に惹かれるように、ヨハネスは歩みを進めていく。

 廊下を一度曲がり、そのまま進むと広間のような場所に通りがかかる。


 カチャリ。

 カチャリ。

 カチャリ。


 強張った音が、より明瞭に聞こえる。

 顔を覗かせれば、端正な顔をしたメフィストが上品な仕草でナイフとフォークで食事をしているのが見えた。


(食事中? トルテはどこ?)


 ナイフで切り裂かれるのは小ぶりのステーキ。

 表面はこんがりと焼けているが、中はまだ赤くレアなのが見て取れる。

 それを口に運ぶと、味を堪能するようにメフィストがゆっくりと咀嚼する。


「——っ!」


 その時、不意にメフィストの視線が自分の方を向いた気がして、急いでヨハネスは身を隠す。

 ドクン、ドクン、と胸が高鳴る。

 ナイフと皿がぶつかる硬質な音が、止む。

 自分の心臓の音だけが響き渡り、ヨハネスは息を押し殺す。


(気づかれて、ない?)


 しかし、身動きを止めるヨハネスの方を覗き込んでくる気配はない。

 おそるおそるもう一度広間の方に顔を向けてみるが、そこには先ほどまで座っていたメフィストの姿が消えていた。

 

(いったいどこに——)


 顔を広間の方に伸ばし、周囲を見渡すが、そこには誰もいない。

 大きなテーブルには、一食分の準備しかされておらず、そこにはステーキ以外にも肝臓レバーや、他にもヨハネスでは種類のわからない肉が並べられていた。



「僕の家に、何か御用かな?」



 ——背筋に、ぞくりとする悪寒が走る。

 気づけば背後に立っている、背の高い男。

 家の中だというのに関わらず、長帽子を深く被り、黄金の瞳を冷たくヨハネスに注いでいる。


「……す、すいません。どうしても、わたしの友人に会いたくて」


「友人? ……ああ、あの孤児院の子か」


 メフィストは舐め回すようにヨハネスを足元から頭まで、視線で辿る。

 相変わらず異様な静けさに支配された家からは、他の何者の気配もしない。


「彼女は、どこですか?」


「ああ、彼女はもう先に夕食を食べ終わって、寝てしまったよ。初日だからね。疲れが溜まっていたんだろう」


 食卓には、トルテの気配はない。

 メフィスト曰く、もうすでに就寝してしまったらしい。

 ポタ、ポタ、と広間に入ると、どこからか聞こえる水滴の音が気になった。


「だけど、勝手に他人の家に入るのは感心しないなあ」


「すいません。でも、どうしても彼女に会いたくて。今日まで、ずっと一緒だったので」


「なるほどね。わかったよ。でも、今日はもう遅い。また、明日来るといい。会わせてあげるから」


「……わかりました。今晩は勝手に押し入ってしまい、申し訳ありません」


「いいさ。気にしてないよ」


 メフィストの言う通り、また明日くればいい。

 ヨハネスは胸騒ぎが収まらないままだったが、無理矢理にそう自分を言い聞かせる。

 ポタ、ポタ、ポタ。

 水滴が零れる音は、奥のキッチンから聞こえてくる。

 広間と廊下の際で、一度足を止めて、ヨハネスは最後にメフィストの方を振り向く。

 孤児院からずっと感じていた違和感、それを打ち消すために。


「……どうして、彼女を選んだのですか?」


「……難しいことを聞くね。そうだなあ。なんでと言われると、答えに困るね。まあ、明日には答えを用意しておくよ」


 どうして、トルテだったのか。

 本当はその理由に、そこまで強い関心があったわけではない。

 ただ、ふと気づいてしまったのだ。

 ある決定的な違和感に、ヨハネスは気づいてしまい、彼女は震える声でその大商人を試す。


「……わかりました。に、よろしくお伝えください」


「ああ、わかったよ。伝えておこう。友達思いの子が君に会いに来たよって」


 ごくりと、生唾を飲み込む。

 ミランダ。

 そんな名前の少女は、孤児院にはいない。

 

 ヨハネスは気づいてしまっていたのだ。


 これまでメフィストが一度足りとも、“トルテ”を名前で呼んでいないことに。


(まさか本当にっ!)


 廊下の方へ行くと見せかけて、ヨハネスは広間の奥の厨房へと走り出す。

 あれほど沢山の子供達の中から、わざわざトルテを選んだのに、その名前すら覚えていない。

 つまり、トルテ自体には無関心ということ。

 このメフィストが興味を持っているのは、子供自体。

 トルテじゃなくても、よかった。

 誰でも、よかったのだ。



「あ」



 ポタ、ポタ、ポタ。

 真っ赤な水滴が、垂れ続けている。

 薄らと漂う血の香り。

 整然と並べられたサイズの異なる包丁が数本。

 その横に、歪な形の箱のようなものが置かれている。

 

「あ、あ、あ、あ」


 表面がでこぼことした箱は、赤い毛に覆われていて、ヨハネスのよく知る友人と同じ色の瞳を二つ付けていた。

 青白い肌には、見え覚えのあるそばかすが浮かぶ。

 頭では理解できていても、心がその現実を拒絶する。

 トルテと全く同じ顔をした箱からは、ポタポタと赤い水滴が滴り続けていた。



「あれ。なんでバレたんだろう。処女の肉は大好物だけど、僕、大食いじゃないからな。一人分で十分なんだけどな」

 

 

 金縛りのように、突如体が動かなくなる。

 ヨハネスの小柄な体が宙に浮かび、そんな彼女の前にメフィストが薄笑いを浮かべて近づく。

 ちゃかちゃかと、手元でナイフを回しながら、舌を舐めてヨハネスの顎を掴む。


「今、君をここで殺してもいいけれど、それじゃあ、面白くない。僕は“知恵”だ。もっと頭を使って、愉快なことをしよう」


 ナイフの切先を、メフィストがそっとヨハネスの額に当てる。

 強く押し当てられ、激痛が走り、血が滲む。


「い、いやぁ……」


「まだまだ、本当に苦しいのは、これからさ」


 悲鳴すら、許されない。

 痺れて動かない喉。

 顔に大きな切り傷をつけられたヨハネスは、血が瞳に染み、そこでまた痛みに呻く。


「知恵を、あげよう。君はこれから、人間の愚かさを学ぶ」


 火が、灯った。

 広間の中心に、蒼い炎が灯る。

 瞬く間に、広がっていく炎。

 豪邸が猛火に包まれ、見えるもの全てを青く染め上げていく。



「さようなら、賢い人の子よ。全てを失う君には、知恵だけが残るよ」



 蒼い炎はメフィストさえも包み込み、意思を持つかのように蛇行しながら、絡みつくように火を広げていく。

 そして火は夜が明けるまで燃え続け、ヨハネス以外の全てを焼き尽くした。

 





 “メフィスト・フェレス邸炎上! 犯人は孤児院の聖少女か!?”


 全てが灰となったメフィスト・フェレスの豪邸で、唯一生き残ったヨハネスを待ち受けていたのは、謂れのない誹りだった。


 たった一日で、世界は変わってしまった。


 一種の英雄のように日々ヨハネスを担ぎ上げていた街の人々は、ヨハネスを見るたびに顔を背け、陰口をとびかわせるようになった。

 孤児院でも聖母マザーさえヨハネスとろくに顔を合わせることもなくなり、他の子供達も彼女から距離を取るばかり。



「……トルテに嫉妬して、家に火をつけるなんてな」


「……聖少女だとか言われてチヤホヤされて、自分以外が幸せになるが許せなかったんじゃない?」


「……やめとけやめとけ。近づくなって。俺たちも燃やされるぞ」


「……うっわ。なにあの顔。酷い傷。見てられないわ」


 

 最初は、否定しようと思った。

 流れる噂は、嘘ばかり。

 そこに真実はないと、声を大にして主張しようと思った。


(違う。真実なんて、どうでもいいのです。この人たちにとっては、そんなものは、どうだっていい)


 しかし、ヨハネスは気づいていた。

 真実は大して、重要ではないと。

 街の人々にとって、孤児院の家族たちにとって、もう自分は必要ない存在。

 誰にでも優しく、美しい完璧な聖少女。

 彼らが望んでいたのは、誰かに、世界に自慢できるような偶像があればそれでよかった。

 たとえ、メフィストの正体を証明する証拠が見つかったとしても、ヨハネスが友人を殺され、顔に酷い傷を受けた悲劇の少女だという事実は変わらない。

 そして、彼らが望むのは、そんな不幸な過去を持つ醜い少女ではないのだ。


 

「最近はいつも沢山の人に囲まれてたのに、今日は一人なのか」



 しかし、そんな一度全てを手に入れて、その後全てを失い、絶望に打ちひしがれていたヨハネスに、声をかける少年が一人だけいる。


 ぼさぼさの黒い髪に、爛々と輝く赤い瞳。


 刀身に包帯をぐるぐる巻きにして、背丈に合わない剣を持つ少年だけが、これまでと全く同じように、彼女に手を伸ばす。


 ヨハネスの顔に大きくついた傷跡を見ても、その少年が目を逸らすことはなく、いつも通りに微笑む。



「まあ、そんなことはどうでもいいか。行くぞ、ヨハネス。レベリングの時間だ」



 そして初めて言葉を交わし合った日と同じように、またその少年が壁に取り囲まれた少女を、無理やり外に連れ出すのだった。


 

 





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