約束
燃え盛る煙幕。
その中から一匹の黒い獣が飛び出し、“33”と
温い風を切り裂き、白い牙を見せ笑う。
(想像より、速い。ロフォカレ姉様がこちらに向かっている気配はない。プランBですらなく、プランCですか。さすがネビくん。一筋縄ではいきませんか)
上級術式:
今回の堕剣討伐にあたり、聖女ヨハネス・モリニーは事前に火転魂葬の術式を刻んだ
「これほどの量の魔物、よく集めたなァッ! ヨハネスッ!」
「喜んで頂けて、何より」
「ああっ! 本当嬉しいぞ! ありがとうヨハネス!」
「……本当に癇に障る人ですね、貴方は」
歯軋りをしながらも、周囲の魔素をかき混ぜるように手繰る。
ヨハネスがこの量の魔物を集めたのは、剣聖ネビ・セルべロスの堕剣の知らせを受けてから。
それからというもの、彼女は人知れず魔物に洗脳型の魔術をかけては火転魂葬の術式を刻み、この日を待ち侘び続けていたのだ。
「だが悪いな、ヨハネス。まだ後が控えてるんだ。気持ちは嬉しいが、手短に行かせてもらうぞ」
「そうはさせません。せっかく昔馴染みと会えたんです。もっとゆっくり、楽しみましょうよ」
背後から二匹の魔物が飛び出すが、ネビは撫でるように一瞬で切り捨てる。
その瞬間に再び火転魂葬を発動させるが、術式の発動タイミングが読まれていて、致命傷を与えるには至らない。
「お前が俺を知っているように、俺もお前を知っている」
「それはどうでしょうね」
だが、それは覚悟の上。
ヨハネスは知っている。
ネビ・セルべロスが、どういう人間か。
剣聖ネビが、なぜ人類最強と呼ばれたのか、彼女は理解していた。
(相変わらず観察眼と予測能力がずば抜けている。他人に興味がなさそうなわりに、相手をよく見ている人ですね。でも、構いません。私が真っ向勝負でネビくんに敵わないことなんて、十分承知の上。私がすべきは、ただ、ひたすらに削ること。ネビくんの唯一の弱点は、そこにある)
堕剣ネビは、強い。
古くからの幼馴染であるヨハネスからすれば、最初から直接対決でネビに勝てないであろうことは簡単に予測できた。
なぜなら彼女が知る限り、ネビが誰かや何かに敗北を喫したことは一度としてないのだから。
しかし、ゆえに聖女は入念に策を練り、堕剣ネビを殺すためだけに全て時間を捧げたのだ。
「痛みを知らない貴方に、本当の痛みを教えてあげますよ。《特別上級術式:
身体の内側に炙るように刻まれた術式が輝き、魔物が悲鳴を上げる。
ぶちぶちと自らの腕を、もう片方の腕で引きちぎり、それを振りかぶるように投げつける。
それを赤く錆びた刃で弾いた瞬間、片腕を失った魔物が飛び込んでいく。
「……なるほどな。そう来たか。上手い使い方だ。俺も参考にしよう」
「iyaaaaaaa!!!!!!!!!」
ネビが魔物を切り裂く前に、目を漆黒に染めた魔物が、残った腕から伸びる爪で自らの喉を掻き切る。
僅かに、ズレる死のタイミング。
ネビが目を細め、ヨハネスが笑う。
「心酔する誰かのために、盲目的に死ねるなら、悪くはないと思いませんか? ……《上級術式:火転魂葬》」
風船のように膨れ上がり、肉片を撒き散らしながら破裂する甲虫型の魔物。
反応が遅れ、ネビは爆発に巻き込まれ、後ろに大きく吹き飛ぶ。
ゴミの山に背中から叩きつけられるネビを見て、そこでヨハネスは笑みを消す。
わかっていた。
こうなることは、わかっていた。
灰色の煙の後ろで、またもや立ち上がるネビが赤い瞳を爛々と輝かせながら、嬉しそうに舌舐めずりをするのを見て、ヨハネスは苛立ちに舌を噛む。
これが、ネビ・セルべロス。
どれほど自らの身が傷つこうと、止まることはない。
むしろ、より一層生き生きと、嬉々として死期に身を寄せるだけ。
「貴方は強い。でも、強いがゆえに、傷つくことを恐れない。むしろ、自ら自分を追い込むことに快感を覚えている。だから、死ぬのです。この街で、貴方は死ぬ」
それが、ヨハネスの考える、ネビの本質。
自らも、ある時は周囲すら巻き込み、ネビは破滅へと可能な限り近づいていくことを生きがいとしている。
どれほど、そんな彼の生き方に不安を覚え、心を痛める者がいたとしても、決して止まることはない。
だから、彼女は、この策を練ったのだ。
「狡猾な貴方は、必ず周囲を不幸にします。だから、決めていたのです。貴方を殺すときは、必ず貴方を一人にすると。獰猛な貴方は、必ず
剣帝ロフォカレを向かわせても、堕剣ネビを確実に殺せるとは思えなかった。
純粋な戦闘狂というわけではないネビだとすれば、その卓越した戦術構築能力を駆使して、ロフォカレから逃げ切る可能性は高いと推測できた。
だからまずは、分断を狙った。
事前に何者かはわからないが協力者がいるとわかっていたネビを、孤立無縁の状態にする。
とにかく、ネビの手札を減らさせる。
それが最初の一手だった。
そして次は、混乱。
深層都市ジャンクボトムに強大な魔物が封印されているという話を、昔直接ネビから聞いたことがあったヨハネスは、もし剣帝ロフォカレに追われる状態になればネビは必ずこの街に向かうと思っていた。
より大きな、破滅を求めて。
剣帝に追われながら、地上最悪の魔物の下に向かう。
常人ではあり得ない選択肢だが、ネビならば迷わずそれを選ぶとヨハネスにはわかっていたのだった。
「……楽しめてるか、ヨハネス」
ここから先は、我慢比べ。
魔術の行使を続けようとするヨハネスに、だがネビが不意に話しかける。
眩く光る赤い瞳には、どこか慮るような影が差し込んでいて、それを彼女は不穏に思った。
「なんですか、いきなり」
「俺は、今、最高に楽しいよ」
「意味がわかりませんね」
「でも、わからないんだ」
「何がでしょう」
「俺だけじゃなく、お前も楽しめてるのか、がだよ」
——ビキリ、と何かにヒビが入った感触がした。
どこか懐かしすら感じる鳥肌。
まだ用意した魔物は数え切れないほど残っている。
それにも関わらず、ヨハネスはほんの僅かに気圧され後退りしてしまう。
何かが、来る。
ネビの中に眠る、その底知れない力の源をヨハネスは測り切れない。
「前から少し、試したいと思っていたんだ」
「……何をするつもりですか。貴方の
ネビ・セルべロスの固有技能と、神下六剣にのみ許されたもう一つの剣想。
そのあまりに強大で凶悪な能力をヨハネスは知っている。
しかし、前者は発動条件を満たしておらず、後者はネビ本人が使用することを酷く嫌っている。
ゆえに、後は削るだけ。
その、はずだった。
「終わりの加護とやらの中に刻まれていたこの力は、どこまで戻せるのか。それで、今後のレベリングが変わってくるからな」
赤い瞳の中で、刹那白銀の光が瞬く。
空気が重くなり、呼吸をすることすら億劫になる。
重力が変数を帯び始め、塵芥が宙に浮いては沈みを繰り返す。
「これで終わってもいい。だから、今、ありったけを……《
——歪む、時空。
全く感じたことのない異質な力に囚われ、身体の自由を奪われる。
(魔物が、空に落ちていく?)
ヨハネスは転移型の魔術を発動させ、集め込んだ魔物を深層都市に出現させたはずだった。
それにも関わらず彼女の意思に逆らい、流星の如くガラクタの街に降り注いだ魔物たちが、天蓋の亀裂に向かって吸い込まれていく。
ゆらゆらと、空中をぎこちない動きで浮かび上がっていく黒々しい魔物たちは、ヨハネスが生み出した時空の切れ目の闇に溶け込んでいく。
「戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れ戻れぇぇぇぇッッッッッアハハハアハハハハハハっっっッッッッ!!!!!! ハハッ! 魂が軋む軋むぅッ! この固有技能の負荷が、俺の
時空の歪みは、広がりを続ける。
魔物たちは見えない黒い引力に引かれるように、軌跡を描いて空の漆黒に喰われていく。
ヨハネスは、それをただ、仰ぐだけ。
流れ星に願いを祈る乙女のように、ただただ、静謐と顔を宙に向ける。
(ああ、前にも一度、こんなことが、ありましたね)
満天の星。
かつて一度見た夜空とは異なり、星は黒く染まっているが、それでも見覚えのある光景だった。
「——堕ちろ、【赤錆】」
パチン、と何かが弾け飛んだ。
気づけば消え去っている、深層都市の上空にあった亀裂。
ネビの姿がぶれ、一瞬で間合いを詰められるのがわかる。
でも、それでも構わない気がしていた。
すでに、十分削った。
先ほどの異能は明らかに、限界を超えた出力を見せていた。
ヨハネスは、どこか寂しい気分で、堕ちていく彼女にとってたった一人の幼馴染を眺めていた。
「濡れろ、【
「《等級除外術式:
純粋な身体能力では、
手駒の魔物を失い、魔術で反撃する間合いも潰されたヨハネスは、出力を最小限に抑えた転移型魔術を発動する。
伸びる、赤く錆びた刃。
それを漆黒の亀裂で受け止め、ネビの背後からその切先が飛び出るように転移先を指定する。
「悪いな、ヨハネス。お前とのレベリングは、ここまでだ。また、一緒にやろう」
「ああ、そうか。そうでしたね。貴方は、そういう人だった」
だがそれでも、止まらない。
ネビはさらに一歩強く踏み込み、赤錆の突き込みをより深くする。
迸る血潮。
堕剣の背中を貫いた錆びた赤刃は、血で濡れながらそのままヨハネスの胸元に伸びる。
届く赤錆。
堕ちた剣聖の身ごと貫かれる、聖女の柔らかい肢体。
痛みに喘ぐが、不思議と苦しくはない。
ゆっくりと赤く濡れていく自らの身体に、燃え上がるような熱がこもるばかり。
「どうして、約束を破ったのですか?」
また、同じ質問を繰り返す。
諦観と、寂寞と、縋るような悲哀が混じる。
先ほどまでの興奮を消し去り、ばつの悪そうな表情が、ヨハネスのよく知る黒髪赤目の少年の面影に重なる。
『……私が、30になってもまだ一人だったら、今度はネビくんが私を迎えに来てくれると約束してくれますか?』
『30? ……いや、たぶん32だな。32になったら、迎えに来る。約束しよう』
それはヨハネスがまだ聖女と呼ばれる前のこと。
全てを持っていなかった少女が、一度全てを手に入れて、その後全てを失い、絶望に打ちひしがれていた時に、たった一人の少年だけが変わらずに、彼女にいつも通り手を伸ばした。
『最近はいつも沢山の人に囲まれてたのに、今日は一人なのか。まあ、そんなことはどうでもいいか。行くぞ、ヨハネス。レベリングの時間だ』
あの日の約束を、一人ぼっちの聖女はまだ覚えている。
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