憧憬


 僅かにカビの生えた麦パンを齧りながら、スピアは血反吐を垂れ流しながら逃げ惑う魔物ダークを何とも言えない気持ちで眺めていた。


「さすがにもう、この程度の魔物ダークじゃレベリング効率が悪いな。まあ、今回に関してはレベリングの前準備みたいなものだから仕方がないか」


「giee——」


 芋虫のような体に人に似た顔面と細長い手足が四本ついた魔物が、短い断末魔をあげて絶命する。

 魔蟲クリーピークリープ。

 このグロテスクな外見が特徴的な怪物の魔物適正階級レベルランクは5。

 魔物適正階級レベルランク1が武装した成人男性程度の能力と言われるため、十代前半のスピアからすれば全く歯が立たない危険な相手。

 そんな化け物を弄ぶように、何度も串刺しにした後、残念そうに止めを刺したのは黒髪赤目の痩身の男。

 “堕剣”ネビ・セルべロス。

 今や世紀の大罪人となった、かつて剣聖と称された加護持ちギフテッドだった。


(すげぇ。これが加護持ちか。同じ人間とは思えないな)


 クリーピークリープの頭部から赤く錆びた剣を抜くと、ネビは傷だらけの遺骸を手に取ると、これまで何度もそうしてきたように背中に負うと歩き始める。

 魔物を倒したことに対しては、何の感慨もないようで、表情も変えずに街の南に向かう。

 パサパサとした食感で嫌な粘性のある麦パンを急いで飲み込むと、スピアはネビの背中を追いかける。


「また、あそこに行くの?」


「ああ」


 顔を向けることもせず、簡潔な返事だけが届く。

 スピアがネビと出会ってから、三日が経とうしている。

 その間は、彼はほとんどネビと共に行動を過ごしている。

 というよりは、一方的にスピアが追いかけ回しているだけなのだが、それをネビが咎めることは一度もなかった。


「お前も行くのか?」


「え?」


「“底無しの産声エンドレスホープ”に」


「えーと、まあ、あんたが行くなら」


「そうか」


 底無しの産声エンドレスホープ

 深層都市ジャンクボトムの最南端にある立ち入り禁止区域。

 それは半径100m程の巨大な陥没穴。

 かつてはありとあらゆる廃棄物をその穴の中に放り込んでいたが、魔物の出現率があまりにも高くなりすぎて人の住まない廃墟地帯となった場所。

 スピアが出会ってからというものの、ネビは街に出没する魔物を倒しては、その遺骸をひたすらに底無しの産声エンドレスホープに投げ捨てるという行為を繰り返していた。

 その行為の意味を一度尋ねたが、レベリングのためだ、と一言返されただけで、意図はわからないままだった。


「なあ、ネビは何のために加護持ちになったんだ?」


「レベリングのためだ。レベリングをするには加護持ちになる必要がある。だから加護持ちになった」


 穴の淵に立ち、クリーピークリープを投げ捨てるネビの背中に、スピアが声をかける。

 すでに三日間一緒に時間を過ごしているが、ネビが何を考えているのかスピアには全くわからなかった。

 理解できるのは、とてつもなく強いということだけ。

 それ以外には、何も見えてこない。


(ネビが言うレベリングって、強くなるって意味だよな? なんか、順序が逆な気がするんだけど。普通、加護持ちになったから、強くなる必要があるんじゃないか?)


 疑問は尽きない。

 人生で初めて出会った、加護持ち。

 彼の憧れに辿り着いた人間。

 たとえそれが、始まりの女神から追放された堕剣だとしても、若さ故か、スピアの純粋な好奇心は真っ直ぐと輝き続けていた。

 

「俺の父さんもさ、加護持ちを目指してたんだ。実際、ギフテッドアカデミーにも通ってたらしい」


 ネビを見ていると、どうしてもスピアは今は亡き父の姿を思い出してしまう。

 深層都市生まれのスピアとは違い、彼の父は出身は別の街だった。

 本人の意思とは別に、流れ着いてしまった落伍者。

 それがスピアの父だった。



『もし、俺が加護持ちになれてたら、こんなクソみたいな人生じゃなかったのに』



 生活圏の近くに魔物が現れる度に、スピアは父と共に住む場所を変えた。

 恨めしそうな表情で、いつも彼の父は星の見えない空を仰いでいた。

 毎日、後悔と諦観を胸にゴミを拾い続けた彼の父は、そしてある日魔物に襲われて死んだ。

 あまりに残酷な現実。

 だが、スピアはそれを受け入れている。

 なぜなら、彼の父は加護持ちではないから。


「でも、父さんは、加護持ちになれなかった。卒業試練に、落ちたんだ」


「……そうか」


 ギフテッドアカデミーの卒業試練に落ち、加護持ちになれなかった少年少女の多くは故郷には戻れない。

 最序列の神々の一柱である、第八柱“廃神はいじんダンタリアン”の天啓によって、それぞれ決められた場所で決められた職業に就く。

 その中で最も多く選ばれるのが、この深層都市ジャンクボトムの廃棄物収集者スカベンジャーだった。

 スピアの父もその例に漏れず、ギフテッドアカデミー落第後にこの街に流れ着いた、かつて加護持ちを目指した若者の成れの果てだった。


「だから、ネビはすごいと思ってる。加護持ちになったんだ。俺の父さんが叶えられなかった夢を、叶えてる。今はなんか堕剣なんて呼ばれてるけど、それでも、素直にすごいと思う」


 それは、純粋な憧れだった。

 最初はあの堕剣だと知って、緊張に身を強張らせたが、ネビがスピアに対して危害を加えるような素振りは一切ない。 

 それどころか、一心不乱に魔物を狩り続ける姿は、まさにスピアが想像していた加護持ちの姿そのものだった。


「俺もいつか、ネビみたいな加護持ちに、なれるかな?」


 ぽつり、と思わず口にしてしまった憧憬。

 そこまで言葉にするつもりはなかったため、羞恥心でスピアは顔を赤らめる。


「な、なんてな! 俺みたいな凡人が加護持ちになれるわけ——」


「加護持ちになりたいのか?」


 真紅の瞳が、スピアを貫く。

 照れ隠しに笑って誤魔化す彼を、ネビは瞬きひとつせずに見つめる。

 空気が、変わる。

 これまでいい意味でも、悪い意味でもスピアに関心を持っていなかったネビが、この時初めて彼を捉えた。


「そ、そりゃ、なれるなら、なりたいけどさ」


「どうしてだ?」


「え?」


「どうしてお前は、加護持ちになりたい?」


 どうして加護持ちになりたいのか。

 ネビが改めて、問いかける。

 スピアの憧れの理由を、知ろうとする。


「だ、だって、加護持ちになれば、自由だろ? このサイアクな街から出て、好きなところに行ける」


「自由のため? 自由が欲しいから、加護持ちになりたいのか?」


 不意に通り抜ける、湿気の多いぬるい風。

 生臭い、掃き溜めの匂いが鼻につく。

 真っ暗で、底の見えない大きな穴を背にして、かつて剣聖と呼ばれた男がスピアに問いかけを続ける。

 

「自由に、なれるだけじゃない。力だって、手に入る。あんただって、剣想イデアを持ってるんだろ? それがあれば、今みたいに魔物に怯えて、隠れて暮らす日々から抜け出せる!」


「剣想が欲しいのか?」


「な、なんなんだよ、さっきから!? 別にいいだろ! ただ、憧れてるだけなんだ! 憧れるのすら、だめなのかよ!」


 なぜか責められている気持ちになり、スピアは声を枯らして叫ぶ。

 相変わらず真顔で彼を見つめ続けるだけのネビには、特に嘲るような様子はない。

 それでも、なぜか無性にスピアは自らが貶められているような気持ちになって仕方なかった。


 ただの、憧れ。


 別に、本気で加護持ちになろうとしているわけではない。

 魔物に挑む勇敢さは、持ちえていない。

 ネビのようには、なれない。

 そんなことは、わかっている。

 しかし、それでも憧れの気持ちを抱くだけで、ほんの少しだけ救われる気がしただけ。

 サイアクでタイクツな日常を、生きる言い訳が、見つかった気がしていただけだった。


「なら、貸してやろう」


「……へ?」


 不意に、ネビが赤く錆びた剣を、スピアに向かって放り投げる。

 ゆっくりと、宙に舞う堕剣の剣想イデア

 自らに向かって落ちてくる刃を、スピアは避けようとして尻もちをつく。


「うわぁっ!? い、いきなり何するんだよ!?」


「剣想が欲しいんだろう? 貸してやる」


 赤錆。

 ネビがそう呼ぶ、堕剣の剣想。

 目の前に突き刺さった、赤く錆びた片刃の剣を前に、スピアは狼狽えることしかできない。



「gieeeeeeeee」

 

 

 カチカチカチ、とその時不気味な硬い音が聞こえてくる。

 振り返れば、目が合う。

 人形のように均整の取れた顔をした芋虫のような怪物。

 魔蟲クリーピークリープ。

 五本指の手足を四本生やしたその魔物ダークは、鋭く尖った牙をカチカチと鳴らしながらスピアの方に向かってゆっくりとにじり寄ってくる。


「だ、魔物ダークだ! ネビ! 魔物が出た!」


「ああ、今回は、譲るよ。この前は、横取りをしてしまったからな。加護持ちを目指してるなら、やっぱり悪いことをした。鍛錬レベリングをしたいのに、剣想が出せなくて困ってたということなんだろう? 今、やっと理解したよ。悪かったな。気づくのが遅れた。あの時の、借りを返そう。俺の剣想を貸すから、それで思う存分、レベリングするといい」


「は!? な、何を言って——」


「俺は剣想を出すのに苦労したことがなかったから、お前の苦悩に気づけなかった。すまない。レベリングがしたいのにできないのは、さぞ苦しかろう。ほら、俺の剣想を使っていいぞ。借りを返す。これで、自由に、レベリングができるはずだ」


 一方的に、ペラペラと饒舌にネビが喋る。

 これまでのように、動く気配はない。

 言っている意味は全く理解できないが、迫り来る魔物を倒す気が今のネビに全くないということだけはわかった。


(な、なんだよ!? 嫌がらせか!? 剣想を貸すってなんだよ! こんなものいきなり渡されても戦えるわけないじゃんか! そもそも他人の剣想って使えるもんなのか!?)


 意図は不明だが、スピアに戦うことを強制していることだけはわかる。

 ごくりと、生唾を飲み込んで目の前の赤錆とクリーピークリープを交互に見やる。

 口元以外全く動かない不気味な魔物の顔からは、粘っこい唾液が垂れている。


(やるしかないのか? 本当に、俺が、魔物と戦うのか?)


 スピアの焦燥を、怪物は待たない。

 カチカチと、歯を鳴らして、獲物に向かって歩を進める。

 半ばヤケクソになったスピアは、眼前に突き刺さる赤錆を手に取る。


「……って重っ! なんだこの剣想!? めちゃくちゃ重いぞ!?」


「gieeeeeeeee」


 だが、手に取った赤錆の重さに負けて、スピアはすぐに体勢を崩して再び座り込んでしまう。

 細身の刀身に見えるのにやたらと重く、柄の部分も変な歪みがあり非常に持ちづらい。

 もはや武器ではなく、足枷にしか過ぎないように思えてならなかった。


「giee」


「あ」


 隙だらけのスピアに、魔物は当然のように手をかける。

 咄嗟に逃走の体勢を取ったスピアの背中を、クリーピークリープの爪が容易く切り裂く。

 迸る血。

 これまでの人生で感じたことのない痛みが、スピアを襲う。


「うああああああ! 痛ってぇえええええええ! くそっ、くそっ、くそっ! 痛い痛い痛い! うぅぅううううっ!」


「gieeee」


 あまりの痛みに、涙が滲む。

 赤錆を引き摺るようにして、スピアは必死の思いで逃げ惑う。

 途中で縋るようにネビの方を向くと、その堕剣と呼ばれる罪人はこの日初めて微笑んだ。


「どうだ? 念願のレベリングは? 生きてるって感じがして、気持ちいいだろう?」


 気持ちいいわけ、ねぇだろ。

 とスピアは叫びたかったが、そんな余裕もない。

 激痛と死の恐怖で、呼吸をするので精一杯。

 クリーピークリープは楽しそうにカチカチと歯を機嫌よく鳴らしている。


(サイアクだ。堕剣ネビ・セルべロス。こんな犯罪者になんで俺はついてきちゃったんだ。憧れの加護持ちだからって、警戒しなさすぎた。この人は、ただ俺がいたぶられて殺されるのを見たいだけの嗜虐主義者サディストだ。こんな人気のないところに誘い込まれたのも、こうやって俺が魔物に喰われるのをゆっくりと鑑賞したかっただけなんだ!)


 背中の痛みに耐えながら、涙と鼻水を垂らしてスピアは必死に逃げる。

 追いかける魔物は余裕の様子で、再び爪を振るう。


「gieee」


「うがああああああああっっっ!?!?!?」


 今度は右足のふくらはぎの裏側を、切り裂かれた。

 肉が抉れ、骨が露出する。

 痺れるような痛みに、スピアは倒れ込む。


 カチカチ、と石と石をぶつけう合うような硬質な音が鼓膜にこびりつく。


 生暖かい血の感触が、靴の中に流れ込む。

 耐えきれない痛みと恐怖に、思わず嘔吐する。

 絶望の中に、彼があれほど憧れていた加護持ちの姿を見る。


「順調だな。“感覚センス”と“耐久フィジックス”、あと“敏捷アジリティ”も上がったか? いい調子だ」


 死にかけのスピアを見て、彼に赤く錆びた剣を渡した男は嗤っていた。

 救いは、ない。

 改めて、自らの窮地を実感したスピアは、赤錆を握る手に力を込める。


(死にたくない死にたくない死にたくない……こんな惨めで、バカにされた死に方だけは、したくない)


 スピアは、悔しかった。

 魔物相手に一方的に嬲られるだけの自分が。

 そして、自らの憧れだった加護持ちギフテッドのネビが、ひたすらに傷つけられる自分を見て笑っていることが。


「こんな剣想イデアは、いらない」


 夢だった。

 加護持ちになることが。

 憧れだった。

 加護持ちという存在自体が。

 その夢や憧れを抱いたまま死ぬことすら許されないのが、スピアには受け入れられない。


「あんたは、加護持ちギフテッドなんかじゃない。俺は、認めない」


 魂の奥が、赤く燃える気がした。

 少年は、咆哮する。

 恨めしいほど重い赤錆を持ち上げ、全ての力を振り絞り、思い切りぶん投げる。


 その切先は、邪悪な魔物相手ではなく、彼の憧れを錆びつかさせた堕剣へ。


 遠心力を利用し、赤く錆びた剣想をその持ち主に投げ返す。



「……なるほどな。確かに、この魔素が満ちた底無しの産声エンドレスホープの近くで鍛錬レベリングするなら、その虫ケラより俺を狙った方が効率がいい。悪くない発想だ。いいな、お前。レベリングをわかってるじゃないか」



 堕剣が、これまでで最も嬉しそうに、口角を上げる。


 自らに向かって飛んでくる赤錆を、ネビは避けない。


 浅く突き刺さる、錆びた切先。


 抵抗することなくスピアの放擲を受け止め、元人類最強の加護持ちは、迷わず赤錆を胸元から抜くと地面を強く蹴る。


「でも、悪いな。次はない」


「giee——」


 ——ザクリ、と瞬く間にクリーピークリープの頭部が赤錆によって地面に縫い付けられる。

 後頭部から口を貫通する赤く錆びた剣想。

 そのまま鼻と額を掻き上げるように叩き切り、スピアを死の恐怖に追い詰めていた魔物を一瞬で絶命させる。



「そのレベリングは、一度限りだ。確かにそれはお前のレベリングにはなるが、俺のレベリングにはならない。借りは今回で、清算だ。ただ一つレベリングの先輩として助言をさせてもらえば、さっきの一撃、狙うなら、俺の頭だったな。そうすれば“筋力ストレングス”だけじゃなくて、“器用テクニック”もあげられたのに。もったいない」



 クリーピークリープの死骸を、再び真っ暗な穴に放り投げながら、ネビは指で自分の額をトントンと叩く。


 唖然とした様子でそれを眺めるスピアは、自らの恐怖が上書きされていくのを感じ取る。


 背中を裂かれ、脹脛を抉られたスピアを見て、腕の一本くらい折られておいた方が得だったんじゃないか、とネビは機嫌良さそうに声をかける。


 これが、加護持ちギフテッド

 

 少年の憧憬が、赤く錆びついていく。



(え、ヤバい。言ってる意味が、何一つ理解できないぞ? 加護持ちギフテッド、怖過ぎだろ。俺って、こんな頭のイかれた存在に憧れてたのか?)





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