風穴
その街には、空がなかった。
連合大国ゴエティアの七大都市の一つ、深層都市ジャンクボトム。
切れかけのヘッドライトを頼りに、一人の少年が石造の階段を降りている。
「この街は、いつだってサイアクだ」
道端に唾を吐きながら、少年——スピアは足元に転がっていた空き缶を拾うと、背中に負った壊れかけのリュックサックに放り込む。
じゃら、じゃら、と一歩踏み出すたびに不愉快な音が鳴る。
彼の職業は
この街で生まれた彼が、この職業に就くことは神々によって決められている。
世界中のガラクタが運ばれてくる深層都市ジャンクボトム。
自らの生まれ故郷でもあるこの街が、彼は心底嫌いだった。
「毎日毎日ゴミを拾うだけの日常。生きる意味、あんのかな」
至る所に穴の空いた手袋越しに、油が染みた紙切れを手に取る。
その紙切れはどうやら、とある記事の一枚のようだった。
僅かな好奇心に惹かれ、スピアは丸まった紙を広げ、中に記されたしわしわの文字に目を通す。
「……堕剣、か。そういえば、あの剣聖が世界を裏切って、今やお尋ね者なんだっけか」
記事の内容は、“堕剣”ネビ・セルべロスについて記されたものだった。
始まりの女神に追放された大罪人。
今や世界の宿敵となった元剣聖。
スピアも
「“
ある程度記事に目を通すと、それを几帳面に折り畳んでしまい込む。
文字を読むことができる教養は、スピアにとって数少ない自慢できるところだ。
こうやって何かしらの読み物を見つければ、それが何であろうと私物として収集する習慣があった。
「いいなぁ、加護持ち」
道端にうずくまる、生きているのか死んでいるのかわからない中年の男性を横目に、スピアは溜め息を吐く。
彼にとって、加護持ちは憧れだった。
神々にすべてを定められる世界において、唯一住む場所も行く場所も自由に決めることの許された存在。
一般市民では手も足も出ない
階段を降り切って、平坦な細道を進み、転がり落ちていた瓶を拾いながら、彼は上を仰ぐ。
翠色の瞳の先に見えるのは、どこまでも広がる果てのない暗闇の天蓋だけ。
夜の時間帯は、神工照明が光量を落とし、ポツリ、ポツリと辺りを照らすだけになってしまうため、ヘッドライトがなければほとんど何も見えなくなってしまう。
この深層都市ジャンクボトムの外に出たことのないスピアは、本物の夜空というものを見たことがなかった。
「俺も、加護持ちになれたらこの街から、なんてな。ムリに決まってるよなぁ」
その最低限の才能を、自らが持ち得ないことを、スピアは強く自覚していた。
所詮は、憧れ。
深層都市に住む他の多くの市民と同じように、これから先も遠くの街から運ばれてきたゴミを拾い続ける毎日。
それが永遠に続くのだと、彼はそう諦観し切っていた。
「あ、あ、あああ、あ、あああああ」
「……え?」
その時、真っ暗な曲がり角から、一人の男が顔を出す。
おでこの部分が頭頂部まで広がった、無精髭が目立つ痩身の男。
名前は知らないが、何者かは知っていた。
スピアと同じ
何度か顔を見かけたことがある。
しかし、明らかに様子がおかしい。
「た、たたたたたタタタ、タスケテェ……」
「サイアクだ。これはマズイ」
違和感には、すぐに気づけた。
一目でわかる、明確な異変。
その男は、自らの胸の中心に、大きな穴を開けていた。
抉り取られた骨肉と内臓がこぼれ落ち、すぐにその男は力なく倒れ込む。
ゆっくりと、路地に流れていく赤黒い血。
びちゃ、びちゃ、びちゃ。
血溜まりを踏みつけ、闇からぬっと顔を出すのは、白目を向いた馬面。
胸部だけつるりとした生肌を見せる上半身は、筋骨隆々。
四脚の下半身は、黒い体毛で覆われている。
「nuuuuuuuu」
神々の時代において、神と人類の天敵とされる異形の怪物。
スピアは迷わず踵を返し、細い道を駆け出す。
「くそッ……はぁっ……はぁっ……!」
動揺は、少ない。
なぜなら、深層都市ジャンクボトムにとって、魔物が出没することは珍しいことではないから。
世界で唯一、魔族の生息域と隣接しているのがこのガラクタの街の特徴だった。
(この街は、いつだってサイアクだ)
魔物に街の人間が殺されることも、そう珍しいことではない。
事実、スピアの両親も数年前に、魔物に殺害されている。
だが、彼にできることは、この両親を殺した街で、ゴミを拾い続けることだけ。
なぜなら、それが神々が彼に定めた人生だから。
(死にたくない死にたくない死にたくない)
涙と鼻水を垂らしながら、スピアは夜の深層都市を駆け抜ける。
彼を急かすのは、恐怖だけ。
死ぬのが、怖い。
普遍的なその感情だけが彼を生かし、そして同時に絶望させた。
(だから俺は、加護持ちになれないんだろうな、きっと)
魔物の気配は、消えない。
かつ、かつ、と蹄の音が背後から聞こえる。
加護持ちになるための最低限の才能、それは魔物を恐れないこと。
街に住むスピアの周りの大人たちは、皆口を揃えて言った。
『加護持ちになるには、あの恐ろしい魔物に立ち向かう必要があるんだぜ? 魔物と戦うくらいなら、ゴミを拾う方がマシだろ』
魔物は、死の象徴そのものだ。
無機質に人を屠り、その死肉を喰らう。
あんな化け物相手に、迷わず剣を振るうことのできる狂人だけが、
自由を代償に、永遠の闘争と恐怖への挑戦が強要される。
その重圧に耐え切れる自信が、スピアにはなかった。
「nuuu」
「なっ!?」
死に物狂いで走り続けていたスピアの前に、先ほどの魔物が宙から現れる。
凄まじい跳躍力で、彼を飛び越え前に立ちはだかる。
「nuuuuuuu!」
「あ、あ、あ」
馬面の鼻息を荒くして、ざらついた舌をべろりと垂れ下げ、体毛のない胸筋をぶるぶると震わせる。
恐怖に足が竦み、スピアは腰をつく。
勝てる、勝てない、以前に挑む気にならない。
「ああ、そうか。ゴミは、俺の方だったんだ」
深層都市の底辺で、名もない魔物に誰にも知られずに殺される。
そんな自らの運命を悟ったスピアは、なぜか無性に腹が立ち出した。
背中のリュックサックから薄汚れた空き瓶を取り出し、目の前の魔物に思い切り投げつける。
「……nunnnn?」
パリィン、と砕け散る空き瓶。
尖った破片が、魔物の肌を僅かに切り裂き、小さな血が滴る。
傷とも言えないような、小さな傷。
だが、どうしてかスピアは何とも言えない満足感を得る。
「なんだ、魔物の血も、赤いんだな」
「nuu」
魔物が、不愉快そうに馬面の瞳を歪ませる。
蹄を鳴らし、見るからに脆弱な餌を捻り潰すべく、拳を握り締める。
スピアはそれをどこか落ち着いた気持ちで見つめ、僅かに微笑む。
「今だけはなんか、お前のことが、怖くないぜ」
「nun!」
スピアの言葉が気に障ったのか、魔物が鼻息を荒くして突進する。
一瞬で、ゼロになる間合い。
蒸れた息と共に顕になる、牙。
それを最後まで、目を瞑ることなく、スピアは見届ける。
死ぬ時くらい、勇敢でありたいと、思ったからだ。
「濡れろ、【
——しかし、見届けようとしていた最後の光景に、風穴が空く。
ヒヒンッ、という短い鳴き声を最後に、馬面の魔物の生臭い呼吸が止まる。
ぼた、ぼた、と聞こえる血の滴る音。
気づけば、目の前の魔物の体毛のない胸から、赤く錆びた刃が突き出ている。
「悪いな。他人の
返す刃で、スピアにとってあれほど恐ろしく感じた怪物が、容易く半身に斬り撫でられてしまう。
倒れ伏した魔物の背後に立つのは、黒い髪をした痩身の男。
赤い瞳を爛々と輝かせ、赤く錆びた剣の血を指で拭う。
「この魔物、欲しいか?」
「え?」
「先に手をつけたのはそっちだからな。欲しいなら譲る」
「いや、いくら
「じゃあ、もらうぞ」
「は?」
「これ、使うんだよ」
何に、とは訊けなかった。
たったの一撃で絶命させられた馬面の魔物を、スピアが空き缶を拾う時と同じような気軽さで、ひょいと背負い込むと男は彼を静かに見つめる。
「あ、あんたは一体何者なんだ……?」
「ん? ああ、俺か」
その赤い瞳はどこまでも澄んでいて、底知れない何かを感じさせる。
ガラクタの街の、タイクツな日常に、突如空けられたあまりに大きな風穴。
世界で最も自由自在で、最も重罪な男。
少年が憧れた存在の頂点に立ち、そして最底辺に堕ちた男。
その男は恐怖を知らず、恐怖そのものだとされた。
「俺の名はネビ・セルべロス。ただの
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