感覚


 苔むした大地。

 滂沱の雨が降り注ぎ、匂い立つような白霧が地面から湧き上がる。

 崖に挟まれ、大小様々な灰色の岩が入り組む谷底。

 悪天候で勢いを増した川の側で、一人の少女が荒い息を必死に整えながら周囲を注意深く警戒していた。


「匂う。匂いますね。美味しい獲物の匂いがぷんぷんしますよ」


 疲労を隠せない顔を、無理やり笑わせる彼女の名は“黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンド。

 自慢の金髪は泥に汚れ、雨に濡れ切った身体は芯から冷え込み、太陽のように輝く彼女の剣想イデアである黄昏は剣先から水滴を零している。


 ざあ、ざあ、ざあ、ぱしゃ、ざあ、ざあ、ぱしゃ。


 途絶えぬ雨音の中に、僅かに紛れ込む何かが跳ね回る音。

 発熱のせいで朦朧とする意識の中で、限界まで神経をナベルは擦り減らす。

 振り絞るような過集中。

 そうまでしなければ、一瞬で、全てが終わってしまう。



「uruuuuuu!!!」


「ちっ!」



 突如、背後から尖ったナイフのような何かがナベルに襲いかかる。

 反応が僅かに遅れ、肩口が鋭く切り裂かれる。

 すぐさま反転し、振り向き際に黄昏を振り回すが、空を切るだけ。


「……あー、もう、ムカつく。ちまちまと。クソ魔物ダークがよ」


 顔を歪めて、ナベルは歯軋りをする。

 疲労で霞む視界の中、悪態をつきながらも目を凝らすが、自らを狙う敵の姿は見えない。


 “迷彩豹カメレオパルド”。


 魔物適正階級レベルランク40に指定されるこの魔物は、周囲に擬態し、姿をくらます能力を持つ。

 ただでさえ強靭な身体能力と、鋭い鉤爪に加えて、この擬態能力によってこれまで数えきれないほどの人間を屠ってきた獰猛な怪物だった。



「五つある見えないレベルの要素の中で、“感覚センス”は他とは違う独特な成長の仕方を見せる。その特徴的な性質のせいで、鍛錬レベリングの仕方を間違えると、最も成長に支障が出やすいのが“感覚センス”なんだ」


 

 崖の上から、黒髪赤目の男がナベルを見下ろしている。

 手には赤く錆びた片刃の剣を持ち、暴雨の中でも背筋よく仁王立ちする男の名は、ネビ・セルべロス。

 今や堕剣と呼ばれるようになった世紀の大罪人であり、ナベルをこの場に導いた張本人だった。


「……それで、私にはその“感覚センス”とやらが、足りないと?」


「ああ、そうだ。“感覚センス”は総合的なレベルが低い時ほど上がりにくく、その代わりに“感覚”自体のレベルが上がれば上がるほど、さらに上がりやすくなる異質な要素パラメータだ。だから、本来なら全体のレベルの低い最初に全力で“感覚”を上げにいく方が効率が良い。しかし、“感覚’を上げるためには、死の間際の本能を感じる必要がある。おそらくお前は、これまで総合的なレベルが低い時に、死の縁に立たされた経験が少ないんだろうな。だから、“感覚”が上がりにくい」


「普段無口なくせに、そのご自慢のご高説を披露する時だけは本当によく喋る人ですよね、ネビさんは。私は賢いので、何を言っているのか理解できますが、そんなんで普段周りの人と会話になるんですか?」


「なっている、はずだ」


「本当かなあ」


「……」


 ベラベラと一方的に喋り倒すネビを見上げながら、ナベルはジトっとした視線を送る。

 今もネビはなぜか、もう一匹の迷彩豹カメレオパルドに喉元を噛みつかれながらも、それを無視して逆にその魔物の首を締め返すという、酷く無駄が多く被害の大きい戦い方をしている最中だ。

 そんな状況で、ナベルに向かって上機嫌に話しかけてくるのは、はっきり言って異常としか思えない。


 しかし、共に過ごすようになって、理解できたことがある。


 堕剣ネビには確固たる独自の理論があり、その持論に従ってありとあらゆる行動を取っているらしいということだ。

 一見すると奇行にしか思えない行動の数々も、ネビにとっては全てが鍛錬レベリングと彼自身が呼ぶ加護持ちとしての能力を上げるためのメソッドのようだった。


「まあ、いいですよ。あなたの全てを喰らうと決めたので。どれほど醜く、不味そうでも、綺麗に食べ尽くしましょう。一度噛み付いたら、噛みちぎるまで、死んでも離しません」


「ああ、そうだな。死ぬなよ、ナベル。死ぬほどレベリングをするのはいいが、死んだらもうレベリングできないからな」


「喉を魔物に噛みつかれている人に言われたくありません」


 そこで、ナベルは意識をネビから切り離し、再び自らの周囲に息を潜めている怪物に戻す。

 ネビと一緒に行動をするようになってから、緊張のせいかまともに眠れていない。

 数日前に、真冬の川底に全裸で潜ってからというもの、明らかに体調を崩していてコンディションは最悪と言っていい。

 そんな状況下で、魔物適正階級40の魔物との戦闘。

 これまでのナベルであれば、間違いなく撤退を選ぶような場面だった。


(でも、退かない。ここで退けば、二度と、追いつけない気がしている)


 ざあ、ざあ、ざあ。


 ざあ、ぱしゃ、ざあ、ざあ、ぱしゃ、ざあ、ざあ、ざあ。


 立っているだけで、ほとんど限界。


 ぱしゃ、ざあ、ざあ、ざあ。


 それでもなお、気力を振り絞り、迷彩豹の気配を探る。


 ぱしゃ、ざあ、ざあ、ざあ。


 雨が地面から跳ね返り、霧が揺れる。

 咄嗟に嗅ぎ取った、危険な匂い。

 反射的に、振り返る。

 黄昏を握る手に力を込め、剣閃を刻む。


「uruuu!」


「ちっ! ちょこまかちょこまか鬱陶しいなァッ! クソ猫がよぉ! 早く斬らせろよあああああん!?!?」


 再び、空振り。

 僅かに、カメレオパルドの体毛が宙に舞うが、傷は与えられない。

 代わりに、再び魔物の爪を右太腿に貰い、痛みと共に赤い血が滲む。


(ダメだ。こんなんじゃ、だめ。このままじゃ、嬲り殺されるだけ。もっと、集中しないと。見えないなら、見えないなりの戦い方を選ばないといけない)


 満身創痍。

 それでもナベルは高熱で沸騰しそうな脳をフル回転させる。


 ざあ、ざあ、ざあ、ぱしゃ、ざあ、ざあ、ぱしゃ、ぱしゃ。


 雨と霧で、視界は不明瞭。

 ぐずついた足元と、苔に覆われた岩場。

 どれほど集中力を掻き集めても、完全に擬態し、ナベルの隙を窺う迷彩豹カメレオパルドを捉えられるとは思えない。


(考えろ考えろ考えろ考えろ。どうするどうするどうする)


 極限の集中。

 限界寸前の体力。

 意識が段々と薄れていく中で、逆に五感が研ぎ澄まされていく。



『飢えが、足りてない。生きるということに対しての、飢えがな』



 いつかの堕剣の言葉が、ナベルの脳裏によぎる。

 そして、黄金姫は、自らの目を閉じる。

 だらり、と身体を弛緩させ、無防備に棒立ちする。


 ざあ、ざあ、ざあ、ぱしゃ、ざあ、ざあ、ざあ——、



「どうせ見えないなら、見えるようになるまで、閉じておきましょう。匂いも、音も、役に立たないなら、捨ててしまえばいい」

 


 ——耳を澄ますのは、やめた。


 これまで黄金の光の中で生きてきたナベルは、真っ暗な暗闇の中に沈む。

 何も感じない錆びた感覚の中で、唯一赤く輝くものを、彼女は掴む。


「憂うには、もう遅い」 


 次の瞬間、迷わずナベルは自らの左手首に黄昏の刃を押し当て、血を撒き散らす。

 勢いよく飛び散る血潮。

 軽やかに腰を捻り、自らの血で雨を赤く染める。



「uruuu——」


「……みぃつけたぁ」



 血走った青い目を、ゆっくりと開く。


 唐突に撒き散らされた血が、ある一箇所をべっとりと濡らす。


 魔物の雄叫びが、途中で掻き消される。


 全く無駄な力の乗っていない、光のような一閃。


 ちょうどナベルに飛び掛かろうとしていた迷彩豹カメレオパルドの擬態は、黄金姫の血を浴び、深紅に暴かれる。



「ああ、やっと少し、理解わかったかも」



 襲いかかる相手の体重と、振り抜いた黄金の剣閃の相乗効果により、滑らかにその頭部を切断する黄昏。

 

 ざあ、ざあ、ごとり、ざあ、ざあ、ざあ。


 降り頻る雨音の中に、鈍い音が混ざる。

 首から先を失った迷彩豹カメレオパルドの擬態が解け、まだら模様の姿がよく見えるようになる。

 その瞬間、自らの中に何かが流れ込むのを、敏感になったナベルの“感覚”が捉え、彼女は熱い吐息を漏らす。


「はぁ、はぁ、はぁ、これが、ネビさんの言っていた、……あっ」


 だがナベルは、そこでふっと視界がブラックアウトする。

 完全な意識の、強制終了。

 自らの身体の制御権を失い、膝から崩れ落ちる。

 

(まずい、やっと、少し近づけたのに——)


 暗闇の中で、ナベルは焦燥に喘ぐが、声すら出ない。


 血を流しすぎたせいか、最低限の集中力すら保てず、思考が解けていく。


 割れるような頭痛も、凍えるような寒気も、感じなくなる。


 底のない闇に堕ちていきそうになる彼女を、しかし繋ぎ止める者がいる。



「一撃で仕留めるなんて、勿体無いな。もっとゆっくり、死にかけた方がいいレベリングになるのに」



 僅かに、戻ってくる暖かい感覚。

 闇に染まっていた視界に、光が戻る。

 拓けた先では、赤い瞳が爛々と輝いている。

 

 

「……わんわんうるさいですよ、馬鹿剣聖ネビさん。死にかけの美少女にかける言葉、もっといいのが他にいくらでもあると思うんですけど?」



 とうとう限界に達したナベルを抱き止めるのは、いまだにもう一匹の迷彩豹カメレオパルドに首元を噛みつかれままの堕剣。


 理解できたのは、本当に、少しだけ。



 それでも、この赤く脈動する感覚を忘れることは、もう二度とないのだと黄金姫は理解わかっていた

 

 

 

 


 

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