沐浴


 ふけ込んだ夜に、冬の寒さが沁みた風が通り抜ける。

 しずしずと流れていく清流。

 ヒメモリバトの神森の奥地。

 穏やかな川の近くの岩場で、星々だけが光源となる闇夜の中、霧のように朧げな影が宙空に浮かび上がっている。

 その薄らと黄色に色づいた影を眺めながら、渾神カイムが大きな欠伸をしていた。


「……うん。大丈夫そー。剣帝さんはまだ遠くにいるみたい。そんなに移動速度も早くないから、追いつかれる心配は今のところなさそうだよ」


「そうか。やはり、ポイントを絞ってる感じだな。この森の中で本気で俺を捕まえる気はもうないな。狙うなら、次のポイント。俺でもそうする」


 赤く錆びた自らの剣想イデアに夜空を映しながら、ネビが首を鳴らす。

 剣帝ロフォカレ・フギオの強襲後、一心不乱に休む事なく一日中走り続けた結果、それなりに距離を稼げたらしい。


「でもなんでうちらの居場所がわかったんだろうね?」


「俺の思考、行動パターンがある程度把握されてるな。動きが読まれてる」


「え? まじ? 剣帝さんってそんなに頭良いの?」


「いや、おそらく別手だろう。俺の動きを高精度で予測できる仲間が他にいるんだろうな。なんとなく想像はつくが」


「うっわ。もう緊張で吐きそうになってきた。超追われる身じゃん。しんどいんだけど」


「今更だろ。俺たちは世界中から追われている」


「ほら! 見てこのお腹!? この赤く腫れ上がったうちのお腹見て何か思うことはないわけ!?」


「太ったか?」


「はあああああ!?!? まじ舐めてる! 違うから! 殴られてるんだっての! 剣帝さんにもう一回殴られたらうち、もうお腹なくなっちゃうよ!」


「むしろ増えてるだろ」


「ふざけろ! 増えてねーし! まじこいつ頭オカピなんですけど!」


 服を捲り上げ、痛々しく打撲跡に腫れ上がった腹部をカイムは顕にするが、ネビは全く興味なさそうに一瞥だけするとすぐに視線を外した。

 カイムは唇をすぼませ不服をアピールしていたが、ネビが全く意に介す様子を見せないので、すぐに諦めたように空を仰ぐ。


「あー、うちの癒しのアスタちゃんもいないし。もうむり。耐えられない」


「アスタなら大丈夫だ。あいつは強い。それにグラシャラも一緒だからな。あの二人は相性がいい。よほどのことがない限り、敗北はない。そもそも、狙われているのはあくまで俺だからな」


「いや耐えられないのはうちって話なんだけど。まあ、いいや。てか、アスタちゃんってそんなに強いの?」


「ああ、強いぞ。少なくとも今の俺よりは強い」


「えぇっ!? まじっ!? さすがにそれはないでしょ!」


「俺より強い奴なんて、いくらでもいる。俺の加護数レベルがもう少し上がれば、アスタにも鍛錬レベリングを手伝ってもらえると思うんだがな」


「ダメだからねネビ。アスタちゃんでそのレベリンなんちゃらするの禁止」


「なぜだ?」


「年齢対象外です! ネビは存在が18禁なのでアスタちゃんには指一本触っちゃダメだからね!」


「……言ってる意味がさっぱりわからない」


 カイムが胸の前で両腕をクロスさせバツ印を作るのを見て、ネビは首を傾げる。

 だがその第六十一柱の神が要領の得ない発言をすることは珍しくないため、ネビはすぐに彼女との会話に意味を見出そうとすることをやめた。


「でも剣帝さんがアスタちゃんの方追っかけたらどうするの? それでも大丈夫?」


「いや、今のアスタはおそらく全力を出せない。理由は知らないが、力を制限されている気がする。その状態でロフォカレ姉さんと戦えば、まず勝てないだろうな」


「やばいじゃん」


「心配はない。言っただろ。狙われているのは、あくまで俺だ。ロフォカレ姉さんは俺を追う。ロフォカレ姉さんや他の神下六剣以外なら、アスタとグラシャラで対処できる」


「なるほどね。じゃあ、安心だ……って待ってっ!? 今、気づいたんだけど、うちめっちゃ外れ引いてない!? なんでうちがアスタちゃん達じゃなくて、ネビと一緒なの!?」


「お前の固有技能ユニークスキルがないと、いざという時、対応が難しくなる。ロフォカレ姉さんの位置は、俺が把握しておくべき。それは最低条件になる」


「ぎゃああああ! 騙されたあああ!」


「いきなり何だ。誰も騙してないだろ。本当に騒がしい奴だな」


 剣帝ロフォカレに襲われた後、ネビとカイム、アスタとグラシャラの二手に別れて逃走を続けている。

 その際、カイムの“渾針羅盤グルグルマップ”という接触した任意の対象相手、物体の位置を把握できる固有技能の特性上、ネビは自らと共に行動させることを選んだのだった。


「俺たちの動きは読まれている。なら読まれていることを前提に、対応を取る。それだけだ」


 喚き続けるカイムを横目に、ネビは再び自らの思考の海に潜る。

 ここから、どうレベリングするか。

 今選ぶことのできる、最も効率の良いレベリング方法は何か。

 想像するだけで、血沸く。

 僅かに湧き上がる興奮を鎮めるために、堕ちた剣聖は赤錆を握り痛みで自分を落ち着かせる。


「それでさ、ネビ」


「何だ?」


「ずっと気になってたんだけど」


「ああ」


「……あの子、どうするつもり?」


 この先に自らを待ち受けるだろう苦難レベリングを妄想して、涎に喉を鳴らしていたネビが、カイムの声で現実に戻る。

 焦点を取り戻した視線の先では、カイムが訝しむような表情で少し離れた場所を見つめていた。

 ほとんど音もなく静かに流れていく川の向こう側。

 そこには、金髪碧眼の少女が一人、無表情で立ちすくんでいる。



「ナベル・ハウンド、か」


「なんか剣帝さんに襲われてから、ずっと着いてきてるけど、どういうこと?」



 “黄金姫エルドラド”ナベル・ハウンド。

 剣帝ロフォカレの下から逃げ始めてから丸一日中、森の中を走り続けた。

 そんなネビとカイムの後ろを、一切の遅れなく着いてきた天才と称される加護持ちギフテッド

 しかし、ナベルの方から声をかけてくることはなく、いまだに沈黙を保ち続けている。

 その少女がいくら可憐な外見をしていたとしても、不気味でならなかった。


「もしかして、寝首狙われてる? 恨まれてるもんね」


「恨まれるようなこと、したか?」


「はああい!? ネビ・イカレロスに名前変えた!? あんな可愛い顔をめちゃめちゃボコって、乙女のお腹ぶち破っておいて、どの口が言ってんの!? 末代まで恨まれてるに決まってんだろ!」


 カイムからすれば、ナベルの目的はネビへの復讐以外思いつかない。

 歓楽都市マリンファンナで一方的にネビいたぶられていた印象が強い。

 あれで恨みを買わないという方があり得ない。

 無言で付き纏われている理由がわからなかったが、いい傾向ではないことだけは確かだとカイムは思っていた。


「ナベルは、レベリングがしたいんだろうな。直接話しかけてこないのは、レベリングをおそらく学ぶのではなく、見て盗む、と言いたいんだろう」


「いやいや、絶対違うと思うけど」


「だいたいわかる。あいつと俺は、少し似てるからな」


「どこが!? 二足歩行くらいしか共通点ないでしょ。何ならそれすら怪しい」


 斜め上の好意的な解釈すぎるとカイムは思ったが、ネビは自らの意見に自信があるようで楽し気に微笑むばかり。

 そして、次の瞬間、何を考えたのか、ネビは唐突に衣服を脱ぎ出す。

 雑に脱ぎ捨てられる、ぼろぼろで至る所がほつれている上着。

 その内側から露わになるのは、一切の無駄な脂肪のない筋肉質な肢体。

 大小様々な傷が全身に刻まれていて、古傷からついたばかりの生傷まで数え切れないほどだった。


「きゃああああっ!? な、なんでいきなり脱いでんの!? この世の犯罪コンプリートしようとしてる!?」


「まず鍛えるべきは、環境適応だ。普通、生まれたら最初のレベリング相手はこの世界そのものだからな」


「言ってる意味わけわかんないけど、とりあえず服着てくれるっ!?」


 カイムの言葉には全く耳を貸さず、そのままネビは下半身の服も脱ぎ捨て、全裸になる。

 それは、ありのままの姿。

 夜風で、縮れた毛が靡く。

 体のどの部分も全く隠さず、威風堂々とした態度で夜の闇に立つ。

 そして何を思ったか、そのまま赤錆だけを手に持って川の中へゆっくりと進んでいく。

 両手を顔のところまで持ってきて、カイムは指と指の隙間を僅かに開けてそんなネビの奇行を見守ることしかできない。



「……な、舐めないでください。その程度で、私が怖気付くとでも思ってるんですかぁ?」



 しかし、次の瞬間、カイムはさらなる衝撃に襲われる。

 覚悟を決めたように、呼吸一つ。

 黄金姫は、その白い手を自分の胸元へ伸ばす。


「は? え、え、え? どどどどどどういうこと?」


「試してるつもりですか? ら、楽勝ですよ、これくらい」


 なんと対岸のナベルまでもが衣服を脱ぎ出し始めたのだ。

 緊張したように手を震わせながらも、それでも一枚一枚と重ねていた衣服を剥がしてく。

 女性らしい曲線が目立つ肢体は雪のように白い。

 筋肉と脂肪の調和の取れた、美しい絵画のような姿。

 さすがに恥じらいが残っているようで、顔は赤面し、豊満な胸元と股間部こそ手で隠しているが、最後はネビと同じように全裸の状態になった。

 そして、頬から額まで赤く染まった顔で、おずおずと川の中へ進んでいく。


「……んっ。冷たい」


「ンパァ。これだよ、これ。レベリング前には、凍えるくらいの沐浴がいいんだよ。効くぞ」


 顔だけが水面から出る程度まで浸かると、そこでナベルは目の前で気持ちよさそうに目を細めるネビを睨みつける。

 手を伸ばせば、届く距離。

 だが、その間を埋めるためには、幾千の壁を乗り越えなければいけないと、彼女は自覚している。



「あなたを喰い尽くす覚悟は、できていますよ、ネビ・セルべロス。憂うには、もう遅い」


「ん? そうか。つまり、レベリングがしたいってことだな」



 満足そうに口角を上げるネビは、川の中にゆっくりと沈んでいく。

 真冬の森の清流。


 とくん、とくん、と内側から響く水音。


 寒いという言葉では言い表せない川底へ、進んで消えていく堕ちた剣聖。

 そんな堕剣を追って、黄金姫もまた暗く冷たい闇へと迷わず沈んでいく。



「……わぁ。加護持ちって、変な子しかいないんだね」



 それを生暖かい目で見送ったカイムは、そこで目の前で繰り広げられている奇行の鍔迫り合いに関して考えることをやめるのだった。


 

 


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