猟犬



 この女は、ヤバい。

 アスタの本能が警鐘を鳴らしている。

 枯れ枝を踏み折り、まずは駆け出す。


(ネビとは知り合いのようじゃが、敵意は明らか。間違いなく、これまで出会ってきた人間の中でも圧倒的に強い。神域を使ってもいいが、今の私の神域は範囲が狭い。前回のように暗く狭い洞窟内でもないと無駄打ちになるかもしれんな)


 思考は動きながら。

 アスタは手を地面に伸ばし、土を削り取りながら疾走する。

 女が横目でアスタを視認し、気怠げそうに青い唇を動かす。


「“銀髪”のアリタ、か」


「アリタではなく、アスタじゃ。なぜどいつもこいつもそのふざけた言い間違いをする?」


 至近距離まで近づくと、目くらまし代わりに手のひらに削り取った泥土を顔に向かって投げつける。

 女——ロフォカレが億劫そうにそれを手で防いだ瞬間、無防備な腹部にアスタは思い切り掌底を叩き込む。


「気合い入ってるな。眠気覚ましにちょうどいい」


「なっ!?」


 しかし、手に伝わってくるのはまるで鉄の塊を殴ったかのような硬質感だけ。

 むしろ自らの拳を痛めてしまいそうな手応え。

 表情一つ変えないロフォカレがお返しとばかりに、痛烈に拳を撃ち抜く。


「ぐが……っ!?」


「気をつけて、この人は加護持ちギフテッド、と思ふ」


 またもや吹き飛ばされるアスタと入れ替わるように、今度はグラシャラが背後から切り掛かる。

 音一つない滑らかな太刀捌き。

 それに反応したロフォカレが、裏拳で剣を弾き飛ばす。


「グラシャラ君か。相変わらず綺麗な剣筋だな」


「剣想を素手で弾くとか人間じゃない、と思ふ」


 淡々と繰り出されるロフォカレの蹴撃。

 一度は交わすが、息継ぐ間もない二段蹴りは友禅の刃腹で受けてしまう。

 勢いを殺すことはできず、再び吹き飛ばされる。

 そして次の瞬間、黒い獣が動く。

 爪を立て、牙を剥き、ネビが異様に低い前傾視線で飛び込んでいく。


「昔からそうだが、加護数レベルの割に速いよな、ネビ君は」


「場所が悪いな。ここには魔素が全くない。ロフォカレ姉さんと鍛錬レベリングするにはもったいない」


 ネビが肌を抉るようにして、爪を伸ばす。

 爪先が狙うのは、ロフォカレの眼球。

 躊躇のない目潰し。

 それすら無視して、剣帝は拳に力を込める。


鍛錬レベリング、か。懐かしいな。そういえば、君は仕事のことをそう呼ぶんだったか」


 ロフォカレの拳より先に、ネビの爪が深紫の瞳に届く。

 グチョリ、という濁音と共に彼女の目元に血がこびりつくが、その瞳は薄暗く揺蕩うまま。

 潰れたのは、瞳ではなく爪先の方。

 剣帝と呼ばれる女傑は瞬きをするだけで、ネビの爪を潰したのだ。

 

「常識外れの耐久傾向フィジカル! ハハッ! やっぱりロフォカレ姉さんは最高だ——」


「そして相変わらず楽しそうに仕事をする。ネビ君のそういうところは羨ましいよ、本当に」


 メキィとネビの顔面にロフォカレの拳撃がめり込む。

 饒舌に喋るネビを殴って黙らせる。

 だが、もう一度吹き飛ばしたと思った瞬間、殴りつけた腕をがっしりと掴まれる。

 

「足だッ! 足を狙えグラシャラッ!」


「御意、と思ふ」


 手にしがみついたネビを振り落とそうとした瞬間、三度グラシャラが迫る。

 僅かな、迷い。

 優先順位をつけること、コンマ数秒。

 グラシャラを無視し、ネビを地面に叩きつける。


「がっ、は……っ!」


「【友禅】」


 地面に叩きつけられ、血を宙に吐くネビ。

 その横から、グラシャラがロフォカレの足に一閃を刻む。

 

「……ああ、そいうえば君の剣想は、疲れるんだったな」


 傷こそないが、斬りつけられた右足が、ほんの僅かに重くなる。

 疲労蓄積。

 斬りつけた部位に対して疲労を上乗せする。

 それがグラシャラの剣想である友禅の能力。


「最初から、逃走前提か。仕事のできる奴だ」


 ロフォカレはその一連の動きで、ネビの狙いを看破する。

 グラシャラとの間合いを詰め、回し蹴りを叩き込む。

 初めから、自らに勝利する気はない。

 賢明な判断だと、彼女は思った。

 

「カイムッ! 固有技能ユニークスキルだッ! アスタッ! 隙を作れッ!」


「えぇっ!? ここでうちっ!?」


「偉そうに命令するでないっ! 私は私の意思でお主を守る!」


 ネビの一声で、アスタの思考が整理される。 

 ここはまだ、命を賭ける場面ではない。

 死ぬ気で、この窮地を脱する。


「ええい! これでうち死んだらネビのこと一生恨むからね!」


「渾神カイムの固有技能だと? どんなだったかな」


 ロフォカレはネビの指示に眉を顰める。

 渾神カイムは弱くはないが、決して武闘派というわけでもない。

 自らを害するような能力も持っていた記憶はない。


「或いは、フェイクか?」


 これまで静観に徹していたカイムと、迷いを消したアスタが向かってくる。

 より危険に思えるのは、強いていえばアスタの方か。

 蹴り飛ばしたグラシャラと、何かを計るように自らを観察するネビ。


「いや、やはりどう考えても一番危険なのは君だな、ネビ君」


 フェイクだろうと、関係ない。

 意識をカイムやアスタに向けるのは、二の次でいい。

 この圧倒的優勢状況下でも、目が離せない男は一人しかいなかった。


るな、【紫陽花】。仕事だ」


 刀身が異様に長い剣想。

 ロフォカレの全身から、また一つ次元の違う覇気が放たれる。

 剣聖ネビ・セルべロス。

 それは彼女にとって、明確に敗北を認めた唯一の相手。

 確かに過去の力を失っているとはいえ、油断は全く許されない。

 僅かでも手を抜けば、喰い破られる。

 かつて、そうだったように。


「手の抜けない仕事は、疲れるよ、本当に」


 向かってくるアスタとカイムに背を向け、この戦況をコントロールしつつあるネビを潰すことに集中する。

 他は全て後回し。

 優先順位は、間違えてはいけない。

 一瞬でネビとの距離を詰め、紫陽花を振り抜く。

 

「これでまずは、半分だな……《編集エディット巻き戻しリワインド》」


 ——瞬間、時空が歪む。

 全く経験したことのない感覚。

 ネビの能力は把握している、つもりだった。

 気づけば、目の前にいたはずのネビが消え、代わりに銀髪の少女が掌底を振りかぶっている姿が見えた。


「……なにが起きた?」


「どうじゃ、凄いじゃろう? この固有技能ユニークスキル


 反射的に剣を振り抜くと、アスタの掌底と衝突する。

 圧縮した空気を掌に溜める独特なアスタの掌底。

 パァン、と弾ける高音。

 手を切り裂かれる事こそなかったが、空気が破裂し、皮膚が剥け血が滲む。

 それを見てアスタは、どこか自慢気に笑う。


「これでもう見失わない。《渾針ピンドロップ》」


 剣と掌底が互いを弾き合ったその瞬間、真っ赤な二つの羽根が目に入る。

 何か、見えない針が体に打ち込まれた不気味な感覚。

 それを振り払うように剣想を握っていない方の手で、カイムの腹部を痛烈に殴りつけ、アスタごと吹き飛ばす。


「ぼげぇっ!? 超痛いんですけどっ!?」


「おいっ! 私の方に吹き飛ばされてくるでない!?」

 

 アスタとカイムをまとめて弾き飛ばす。

 ロフォカレは今度こそネビに追撃をしようと、振り返る。

 紫陽花を握る手を強め、一歩踏み込もうとする。


「……なぜ、目を瞑っているんだ?」


 だが、そこでロフォカレはこの日最大の違和感を覚える。

 視線の先であろうことか目を閉じて、何かの合図を待つかのように意識を集中させるネビ。

 どうして。

 ロフォカレが疑問に答えを出すより早く、そのは瞬いた。


「もう一度、鍛錬レベリングがしたいなら、手伝え。お前がもう半分だ」


 薄暗い霧の奥で、何かが煌めいている。

 浮かび上がるのは、始まりの女神に似た金髪碧眼のシルエット。

 獲物を見つけた猟犬のように、並びの良い歯が微笑みと共に露わになる。

 これまで隅で座り込んで呆けるだけだった舞神シャズが、突如全身をガタガタと震えさせ嗚咽を始める。



「いつから私のことに気づいていたのかは知りませんが、いいですよ。手を貸しましょう。これで、あの日の借りはチャラですよ。わんわん」



 ネビが目を閉じたまま、そこでいきなり踵を返し逃走を始める。

 あまりに無防備な隙。

 一歩あれば、追いつける。

 それほどまでに、今のロフォカレとネビには基本的な身体能力に差がある。

 距離を詰めるべく、右足を踏み出そうとする——、


「ああ、我慢我慢。涎が止まらないが、ここじゃ味を感じられない。それに今の俺には上物すぎる。悪いな、ロフォカレ姉さん。俺の舌が肥えたら、また会おう」


「ファック。天才め。どこからここまで組み立てた?」


 ——が、その一歩が、重い。

 ほんの数コンマの遅れ。

 あまりに僅かなその差で、剣帝は堕ちた剣聖の背中を見失う。



「憂うには、もう遅い。《金環日食イクリプス》」



 ロフォカレの視界全てを埋め尽くす、焔えるような光。

 黄金の輝きが、世界を照らし出し、剣帝である彼女ですら目を奪われる。


 数十秒ほどの、眩い静寂。


 やがて光が収まり、目を眩ませる明滅に微かな酔いを覚えるロフォカレは溜め息を一つ吐く。

 本人の意思とは関係なく、すでに彼女の剣想は勝手に消えてしまっている。

 そして、くたびれた動きで胸元から煙草を一本取り出した。


「五人目は聞いてないぞ、ヨハネス君。いきなり前段取り通りいかないじゃないか」


「……うぅっ、うぅっ、嫌だ、嫌だ、もう黄金はやめてくれ。俺を照らさないで、俺の足を、これ以上、傷つけないで。うぅっ、うぅっ、うぅぅぅ……」


 やっと完全に戻った視界。

 もうそこには、ロフォカレが探していた堕ちた剣聖の姿はどこにもない。

 聞こえてくるのは葉々が風で擦れる音と、疼くまるように座り込んだ舞神が啜り泣く声だけ。



「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。やっぱり残業決定か。ネビ君が関わる仕事はいつも長引くんだよな」



 もう黄金の光は収まったにも関わらず、いまだに両目を抑えて泣き続ける舞神シャズから視線を外して、彼女は地面を暗い気持ちで見つめる。

 かろうじて追える足跡は、二人分と三人分がそれぞれ別方向に伸びている。


 カチッ、カチッ、カチッ。


 しけたライターは、中々火がつかない。



 癖の溜め息をまた一つ吐くと、吸おうとしてた煙草を胸ポケットに仕舞い込んで、ロフォカレは数が多い方の足跡を追って歩き始めた。

  

 




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