愚問
整備されていない道を走る、四人乗りの小さな馬車。
あまり人が住んでいない地域らしく、車窓から見える景色には誰も見えない。
白波が泡立つ海岸線を望みながら、腐神アスタ銀色の瞳を細めていた。
「アスタちゃん。好き。抱きしめたい、と思ふ。構わないか?」
「構うに決まっておる。だめじゃ。何度も言っておろう」
物思いに耽っていたアスタに、凛とした声がかかる。
アスタがうんざりした面持ちで対面に座る相手の方に顔を向けると、この馬車を手配した張本人であるグラシャラ・ヴォルフという女が、なぜか両手をワキワキと高速で動かしながら彼女のことを見つめていた。
「まだダメか。仕方がない。機を窺おう、と思ふ」
「勝手に機を窺うな。お主が私に触れることは未来永劫叶わん。私は第七十三柱の神じゃぞ」
「わかった。今はカイムで我慢する」
「へ? 私で我慢ってどういう意味——ってきゃっ!? ちょっ、ダメだってグラシャラちゃん! ひゃっ!? へ、変なところ触らないでっ!」
「よいではないか、よいではないか、と思ふ」
「何もよくないよっ! いっ、いひひひひひっっ!?!? ほんとダメだってグラシャラちゃん! 怒るよ!? ひゃんっ!? あひひひひひっ!? だめだめっ! ほんとむりっ!」
「……なんなんじゃこいつらは本当に。世界中から敵視され、追われているという意味がわかっておるのか?」
本能的に危険を感じる忙しない指の動きを、隣に座るカイムへと定めたグラシャラがどこか恍惚とした表情で襲いかかる。
あまりに緊張感のない様子に、アスタは大袈裟にため息を吐いた。
「ネビよ、本当にこいつ役に立つのか? なんか、ダメそうじゃぞ」
「選別試練以後、おそらく俺が次に柱の加護を手に入れられる階級の神々は、姿を隠し逃げ始めているはず。指神ハンニは対価を伴う情報交換に関して嘘はつかない。もし、グラシャラがハンニから他の神々の居場所を教えてもらったのなら、その情報は本物だ。だから、役に立つ」
アスタの隣の席では、彼女の唯一の剣である堕剣ネビ・セルべロスがいつもと変わらない無表情で、剥き出しの赤錆を手で撫でていた。
よく見るとなぜかネビは車内の席から、僅かに腰を浮かせていて、揺れの少ない馬車の中では明らかに苦しい体勢をとっていたが、意味がわからないのでそれをアスタは指摘しなかった。
「そもそもこいつ、何者なのじゃ? お主の友人か何かという認識で良いのか?」
「ああ、グラシャラは、俺の友じ——」
「いや、違う。セルべロスくんは私の友人ではない。烏滸がましくも言わせて貰えば、下僕、という表現が一番近い、と思ふ」
「え? ネビって、こんな美人さんを下僕にしてるの? まじ? 引くんだけど?」
「……同期だ。ギフテッドアカデミー時代は共にバルバトスから教えを受けていた」
どうしてか少し声のトーンを落として、僅かに落ち込んだ様子のネビを横目にしながら、アスタは改めてグラシャラのことを観察する。
女性にしては高い背丈に、聡明さを感じさせる佇まい。
すぐアスタやカイムを抱きしめようとする奇行を除けば、基本的には冷静沈着といった印象を受ける。
隙のない気配に、確かに迸る強者が放つオーラ。
これまでネビ以外に何人かの
「強いのか、こいつは?」
「ああ、強いよ、グラシャラは」
「うふふっ。セルべロスくんに言われても、皮肉にしかならないけれど、それでも嬉しい、と思ふ」
僅かに頬を紅潮させながら、グラシャラが嬉しそうに目を細める。
敵意は、感じない。
知人というだけで始まりの女神を裏切り、ネビ側につく理由がアスタにはまだわからない。
「一応問うておくが、お主、覚悟はあるのじゃな? 私たちと共に行くという意味は理解しているな?」
もうすでに手遅れ、とは思いつつもアスタは再度問いかける。
グラシャラ・ヴォルフがどこまでの覚悟を持っているのか。
古い知己を少し手助けしただけ、では済まない領域にネビは足を踏み入れている。
それは、アスタなりの優しさでもあった。
これはあくまで、彼女の戦い。
見境なく、他人を巻き込むつもりは最初からない。
「愚問、と思ふ」
刹那、鋭い狂気が、アスタに向けられる。
彼女は驚きを持って、白銀の瞳を瞬かせる。
静かに座っているだけなのに、目を離せない存在感。
グラシャラの藍色の瞳から、暗く、それでいて輝きを秘める視線が注がれる。
この感覚を、アスタは覚えている。
質こそ劣るが、初めてネビに出会った時と同じ感覚。
錆びつかない、狂気。
赤い錆は、伝播する。
「女神も、世界も、どうでもいい。地位も、名誉も、命も、セルべロスくんの為なら賭けていい。私に足りないのは、価値だけ。これまでの私は、セルべロスくんの役に立たなかった。でも、今は、役に立てるかもしれない。涙一粒程度の大きさでも価値があるなら、そのために私は全てを賭ける」
平坦で、淡々とした声色で、グラシャラは一気に捲し立てる。
静かだが、燃えるように感じる熱量。
アスタは、苦笑する。
始まりの女神が、かつて剣聖と呼ばれた男を世界から追放したのは、どんな思惑があれ正しかった気がしてならなかった。
「覚悟なんて生優しいものじゃない。執念が私にはある、と思ふ」
そこまで言い切ると、グラシャラは口を噤む。
隣のカイムが何とも言えない表情でアスタを見つめ、それから逃れるように彼女はネビに視線を移す。
「……とんだ悪党のようじゃな、お主は」
「まあ、堕剣だからな」
グラシャラの言葉を受けても、特に何の感慨もないらしく、ネビはさらりと言葉を返すだけ。
世界から堕ちた剣聖。
或いは、世界を堕とす剣聖か。
少しでも油断をすれば、自制を知らないこの黒く赤い錆に、飲み込まれてしまう。
それは第七十三柱の神である自分も例外ではない、とアスタは自戒した。
———
闇夜に沈んだ深い森の中を、一柱の神が走っていた。
額に浮かんだべっとりとした脂汗に、前髪が張り付く。
息も絶え絶えになりながら、恐怖に駆られた表情を浮かべる彼は第三十九柱“
狐に似た細長い顔を歪めながら、周囲を忙しなく見回していた。
「チクショウ! なんなんよ! もう勘弁してくれ! 俺が何をしたってんだ!」
太い木の幹に身を隠し、止まることのない汗を手で拭う。
息を潜め、自らの自慢の両足を眺める。
張ち切れんばかりの発達した大腿筋。
“健脚”と、呼ばれる彼の特異体質。
その本来ならば彼の最大の武器である両足は、今や見るも無惨に傷だらけになっていた。
「あの悪魔めっ! 執拗に俺の健脚ばかり狙いやがって……ううっ。痛いよ痛いよママン。早く“
舞神は今、試練の最中にいた。
無数の刺し傷が見える足をさすりながら、シャズは神には存在しない母という概念に救いを祈る。
骨にまで到達した小さな傷が、幾つも穿たれた健脚を視界に入れるだけで、彼の心が折れる。
屈辱と苦悶。
本来ならば、試練を与える側の立場にいるはずにも関わらず、シャズは自分が試練を受けているように感じていた。
「こんなに苦しい試練は“ネビ”以来だぞ……本当になんなんよ。頼むからもう終わりにしてくれ。柱の加護はもう渡すって言ってるのに」
舞神の試練の合格条件は、背後に傷を一つ与えること。
いまだにシャズの背中には傷一つないため、試練は続いている。
しかし、それは今回の挑戦者が試練に苦戦しているわけではない。
ゆえに、彼には理解できなかった。
その金色の獣がなぜ、まだ試練を続けるのか。
「……見つけましたよ、舞神シャズ。わんわん」
どろり、と空気が澱む。
金色の獣が、血の混じった涎を垂らしながら、夜に目を光らせている。
ひっ、と小さな悲鳴を漏らしながら、舞神シャズは再びボロボロの健脚を走らせる。
「チクショウチクショウ! “
手入れがなされていないのか、泥まみれで汚れた金髪。
痩せこけた頬に、浮かんで見えるようなギョロギョロとした青い瞳。
黄金に輝く
“
黄金世代最強と呼ばれ、かつては生涯不敗を誇っていた若き天才加護持ち。
そんな彼女は今、片腕を失い、世間が知る気品溢れる姿とは程遠い獣じみた形相で神を追っている。
「どうして、逃げるんですかぁ? 私ともっと、もっと、一緒にぃ、いいことぉ、しましょうよぉっオオオオオ!?!?!?」
「ぎゃああああああ!?!? 助けてぇぇぇっっっ!?!?!?」
恐怖に駆られたシャズは、痛みを押し殺しながら、必死に逃げ回る。
それを見たナベルは飢えに駆られる獣ように牙をむき、地面を強く蹴る。
「さっきからぁ、吐き気が止まらないんです。
「なんなんよこの子!? 俺の柱の加護あげるから、剣想しまって、試練終わりにしようって言ってるだろっ!?」
「だからあっ! それじゃあ届かないって言ってんだろクソ狐!? 飢えが、足りないんだよっ! あの人に追いつくためには、痛みが足りねぇって言ってんだろうが! だからもっと斬らせろよおおおおお!!!!!!」
「ヒィイイイイイイイイッッ!?!? 無理無理怖すぎるんよ! もう神辞めたいよママン!」
試練の最初から一貫してナベルは、シャズの健脚だけを狙って戦い続けた。
舞神にとって最も硬度のある武器の健脚を狙いに定めるのは、戦い方のセオリーとしては大きく外れているが、それを徹底的に突いた。
途中で左肩を蹴り潰された時も、ナベルは邪魔の一言で迷わず自らの左腕を自分で切り捨てた。
すでに全身満身創痍の状態なのは、むしろ黄金姫と呼ばれる若き加護持ちの方だったが、それでも彼女は狩りを続けようする。
「憂いなさい、【
長時間使用に伴う副作用が、限界に達する。
耐えきれなくなった吐き気に、嘔吐をしながら、それでもナベルは剣を握り続ける。
飢えだけが、彼女を急かす。
自らの心を錆び付かせた元剣聖の背中以外は、もう何も見えていない。
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