受胎告知
選択
グリモワール大陸の外れにある小国パウリナ。
氷河の侵食作用によって細長い形状に湾が入り組んだ半島国家。
大陸最大規模の連合大国ゴエティアなどに比べれば、規模も人口も十分の一以下しかない小国パウリナのさらに寂れたとある田舎町。
そこに一軒の古書店があり、看板もない店の奥で一人の女が静かに瞑想をしていた。
「……彼が来る」
ふっ、と息を吐き、女はゆっくりと閉じられていた目を開ける。
藍色の髪は几帳面に結われていて、面長の顔からは理知的な瞳が覗く。
一切の無駄なく鍛え上げられ、豊かな胸部を除き引き締まった肉体。
絹地のゆったりとした服装で身を包んだ彼女は、近くの机の引き出しから、黄金色の液体が入った小瓶を取り出す。
「波が、荒れている。まるで私の心のよう」
窓の外に望む海岸線を眺めながら、彼女は小瓶の蓋を取る。
瓶を逆さまにすると、油っぽい水滴を二粒ほど手の甲に垂らす。
それを白い指先で、薄っすらと伸ばすように肌に馴染ませ、香りを嗅ぐ。
——コンッ、コンッ。
そこで、思い切りの良いノックが二度響く。
少し屈めていた顔を上げ、黄金の液体が詰まった小瓶を再び机の中にしまい込む。
彼女の返事を待つこともなく、おもむろに開かれる扉。
期待に藍色の目を細めるが、その向こう側から現れたのは彼女が待ち望んでいた客人ではなかった。
「邪魔するぞ、下層の神。私の名は、第七十三柱“腐神”アスタ。畏れるか、敬うか、好きな方を選ぶといい」
「ちょっとアスタちゃん!? いくらなんでもいきなり失礼すぎだって! あ! ごめんなさい! お邪魔します! 用事があってきました! うちは第六十一柱“渾神”カイムです! ネビに脅されて嫌々誘拐されてます!」
最初に声を上げたのは、銀髪が目立つ傲慢な態度を隠そうともしない少女。
次に焦った様子で唾を飛ばすのが、頭から真っ赤な羽根を二本生やした童顔の女。
一人、足りない。
両者の存在は知っていたが、肝心の客人の姿が見つからない。
「……残念ながら、あなた方が探している方はいない。第十二柱“
「なに?」
「ってあれ? ハンニ様いないじゃん。しかもなんか、この子、どっかで見覚えが……」
彼女が待ち望んでいた客人に、二人の従者がいることはすでに知っている。
グリモワール大陸の果ての名もなき古書店。
本来ここは、第十二柱の神の数ある隠れ家の一つだが、今ここに店の主人はいない。
「お久しぶり、渾神カイム。数十年ぶり」
「あ、わかった! 君、グラシャラちゃんだ! わー! すごい大人になったね!」
「大人になった、か。そんな台詞が似合う歳はとうに超えた、と思ふ」
「カイムが知っているということは、この女、“
「私はあなたのことも知っている、と思ふ」
「お? 私のことも知っているのか? ふっふっふっ! 選別試練での私の活躍が名を轟かせたか? 僥倖! 当然じゃな!」
彼女——グラシャラは目の前に立つ、二人の女を注意深く眺める。
堕剣。
その
神殺しの知らせから、選別試練の号外。
様々な情報が氾濫する世界で今、堕剣には二人の仲間がいるとされている。
まさに彼女の目前にいるのは、第一柱に剣の切先を向ける件の狂人。
「知っている。“銀髪”のアリタ」
「そうとも。この私こそが第七十三柱にして終わりの女神アスタ——っていや誰っ!?」
“銀髪”アリタと“狂神”カイム。
今やこの二人は堕剣と共に、
「アリタじゃなくて、アスタじゃ! 何をどうしたらそんな間違い方をする!?」
「ふふっ。アリタはウケるんですけど。なんか庶民的だね」
「笑うな! カイム!」
「なんでもいいが、あなた方が今日、ここに来るという情報は事前に得ていた。指神ハンニから、他の神々の居場所を聞きにきたのだ、と思ふ」
「なんでも良くない! 絶対に良くないぞ!」
指神ハンニは神算鬼謀と呼ばれ、脅威的な情報網を持つことでよく知られる。
住む場所を幾つも持ち、見つけ出すことすら困難と呼ばれるこの第十二柱の神は、試練関係なく、対価を払えばそれに応じた情報を渡す。
グラシャラは先んじて指神との遭遇を果たし、ここに“堕剣”が来る情報を事前に手に入れたのだった。
「あなた方が来たということは、彼も、直にここに来るはず、と思ふ。違うか?」
「あれ? 今思ったんだけど、これって、待ち伏せってやつ? うちら、嵌められてる?」
「相変わらず、呆けてるな、カイム。私たちは、世界から見れば反逆者じゃ。今更何を言っておる。行く先、向かう先は敵ばかり。味方などおらぬぞ」
「まじ? つらぽよなんだけど?」
ゆっくりと、滑らかな動きでグラシャラは瞑想をしていた体勢を解く。
音もなく、すっと背筋の伸びた立ち姿。
彼女は、波のさざめきを感じる。
指神ハンニは、対価に応じた情報を与える。
彼女は、この瞬間のために、全てを賭けた。
「ほお? カイム、こいつ、雰囲気があるな。ネビを除けば、これまで出会ってきた人間の中では、最上じゃ」
「うっわ。めちゃめちゃ強そうだし、なんかやる気満々じゃない?」
選別試練以後、世界中で民衆から加護持ちと神々に対してとある声が上がるようになった。
選択、せよ。
堕剣を殺すか、堕剣に殺されるか。
その熱気は凄まじく、これまで以上に堕剣討伐への熱気が高まっていた。
「……来た。さすが、指神ハンニ。私の全てを賭けた甲斐があった、と思ふ」
そして、ついに選択の時が訪れる。
遠くから、大波が岩礁に当たる水飛沫の音が届く。
突如、吹き荒れる強風が古書店を揺らし、高く積み上がった本が一冊床に落ちる。
グラシャラが気配を張り詰めさせてから少し遅れて、何かを感じたようにカイムが扉の前から身を避け道を開ける。
「あ、やっと来た! 遅いよ! せっかくウァラク様が舟貸してくれたのに、なんで途中から泳ぎ出したの? 暑がりなの?」
「おい、我が剣よ。どうやら、ここにはお前の目当てがいないようじゃぞ」
びちゃ、びちゃ、と水の滴る音がする。
曇天の荒れた海を背景にして、現れたのは全身を濡らし切った黒髪の男。
全体的に痩身で、赤く窪んだ瞳だけが爛々と炎のように輝いている。
手には赤く錆びた剣を持ち、身体が濡れていることをまるで気にしていないようで拭うこともしない。
「……久しいな、グラシャラ。“死王”とレベリングした時以来か?」
堕剣ネビ・セルべロス。
始まりの女神に追放され、神を殺し、選別試練を終わらせた元剣聖。
今や世紀の大罪人となった同期の姿を見て、彼女は僅かに口角を上げる。
「ハンニは、いないのか」
心が、疼く。
自らと同じギフテッドアカデミー十三期生の中で、最低成績で卒業し、やがて全世代の頂点に立った旧知の男。
挨拶を返すより先に、身体が動いた。
気流の間を縫うような、抵抗を最低限に抑えた無駄のない動き。
吐息より静かな足運びで、一瞬で間合いを詰める。
「
顕現する、薄らと朱色が波状に色づいた片刃の
柔らかく美しい軌道を描く無音の一太刀。
僅かに前傾をとったところで、胸元の
そこに刻まれていたのは“39”の数字。
神下六剣を除けば、上に立つ者のいない力の証明。
本気で命を奪うつもりで、彼女は一閃を放つ。
そうでなければ、自らの心が届かないと、知っていたから。
「濡れろ、【
距離あと薄皮一枚分、首を切り裂ける、と思った直前、赤く錆びた刃に当てられ軌道がズレる。
たったそれだけで、十分だった。
知りたいことは、知れた。
二閃目は、必要ない。
彼が求めるものは、ここにはないと、彼女は知っていたからだ。
「……お久しぶり、セルべロスくん。好き。抱いて欲しい、と思ふ」
「変わらないな、グラシャラ。そんなことより、ハンニから何の対価を得たんだ? 俺の情報は今や、最も価値が少ないものとなった。俺に関する情報共有は義務だろうからな」
これが、彼女——グラシャラ・ヴォルフの選択。
人類の敵である堕剣ネビの情報は、今や共有することが義務。
指神ハンニから大きな対価を払って得たものは、堕剣が本来ハンニから手に入れようとしていた情報。
彼女は、ただ入れ替わりたかっただけ。
堕剣を導く役割を、第十二柱の神から奪いたかっただけだった。
「神々の居場所の情報を、指神ハンニから得た。私と同じ
—————
荒れ狂う吹雪の中で、一人の女が歩いていた。
北の大国クスコの国境近く。
「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事」
ぶつぶつと一定のリズムで独り言を呟きながら、そこら中に散らばった魔物の死骸を踏まないように避けながら、女が歩き続けている。
着込んだ上質のスーツは返り血塗れで、至るところがほつれている。
「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事」
ぐちゃり、とまだ辛うじて息をしていた魔物の頭蓋を踏み潰しながら、他にまだ息のある魔物がいないかを神経質そうに窺う。
目の下に大きな隈ができた深い紫色の瞳。
顔は動かず視線だけがギョロギョロと忙しなく動いている。
そして時々生きている魔物を見つけては、再び躊躇いなくその頭蓋を踏み潰す。
「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。何で私ばかり。他の神下六剣は何をしている? 仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。いつもいつも私ばかり働いてる気がしてならない」
白髪塗れの黒髪をぐしゃぐしゃと手で掻き毟ると、雪のようにフケが舞う。
くたびれたネクタイを緩めると、女はそこで足を止める。
うんざりした表情で、胸ポケットから煙草を一本取り出し、口に咥えた。
「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。これでやっと一服できそうだ。一週間は寝てない気がする」
女が足を止めた前には、腕が四本ある大柄な魔物が下半身を失った状態で地面に横たわっていた。
充血した瞳で女を睨みつけ、いまだに全身から周囲を潰すようなプレッシャーを放っている。
“戦王チャリオット”。
しかし今や息絶え絶えに、傷だらけの身体を僅かに身じろぐことすらできないほど弱っている。
「死ネ」
戦王が口元にありったけの魔素を貯め、燃え盛る炎として最後に解き放つ。
女はそれを醒めた目で見やるだけ。
避けることはせず、ただ億劫そうに手を振ろうとして、そこで何かに気がついたようで不機嫌そうに舌打ちをした。
「また勝手に消えてる。
毒々しい紫紺が色づいた長剣。
それを軽く振れば、炎が一瞬で掻き消える。
同時に、戦王の顔面が真っ二つに切り裂かれ、顔の上半分が雪の上を転がり、歪な白い泥団子のようになる。
「火、ありがと。仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。はぁ、それにしても疲れたな」
煙草の先に火がつき、女は気持ちよさそうに灰色の煙を雪空に混ぜる。
王族階級の魔族を倒しても、特に感慨はなさそうにぼんやりと虚空を見つめるだけ。
しゃり、しゃり、しゃり。
しかし、生命の気配のなくなった血みどろの雪原で、遠くから足音が聞こえる。
その音と気配に気づかない振りをして、女は黙々と煙草を吸い続ける。
また本人の意思と関係なく剣想が消失していたが、それも彼女は気に留めない。
「仕事の時間です。ロフォカレ姉様」
「ファック。勘弁してくれ。どれだけ私を働かせるつもりだ」
女——“剣帝”ロフォカレ・フギオはうんざりしたように煙草の煙を吐く。
振り返らずとも、誰が背後にいるのかは、わかっていた。
すでに実の親族全てを失くしている彼女のことを、姉と呼び慕う人間はこの世界にたった二人しかいない。
「各国の王から連名による召喚状です。拒否する権利は、いくら神下六剣といえどもありません」
「挨拶もなしか。いつからそんな仕事人間になったんだ、ヨハネス君?」
そこでやっと振り返り、ロフォカレは想像通りの相手の冷たい表情を、降り注ぐ雪の中で見つめる。
聖騎士協会の所属を示す純白の外套と銀色をした十字架のネックレス。
編み込まれた金髪と、顔についた大きな傷跡。
“聖女”ヨハネス・モリニー。
幼少期からよく知る儚げだった少女は、今や聖騎士協会の最高幹部となり、その漆黒の瞳に怒り以外の感情が覗くことはほとんどなくなった。
その原因に心当たりのあるロフォカレは、溜め息に煙草の煙を乗せることしかできない。
「堕剣ネビを、殺してください」
堕剣討伐。
いつかはこの日が来るとわかっていた。
ロフォカレは、咥えていた煙草の火を自らの手の甲に擦り付けて消す。
火傷の痕は、全くつかない。
「本気か?」
「はい」
「……仕事なら、仕方ない。受けよう」
「ありがとうございます」
瞬きすることなく自分を睨み続けるヨハネスの瞳から逃げるように、ロフォカレは視線を逸す。
北の大国を一つ救ったと思えば、今度は元人類最強の加護持ちを殺せと命じられる。
どうして私ばかり、と愚痴りたいが、気軽に話せる相手はいない。
なぜなら、彼女もまた、超越者の一人だから。
並び立つ者は、今や誰もいなくなってしまった。
「仕事仕事仕事ファック仕事仕事仕事。ネビ君相手の仕事か。これは残業になりそうだな」
諦めたように、火の消えた煙草を握り潰す。
緩んだネクタイの隙間から覗く、“52”の
神下六剣を含んでも、
現人類最強の
“剣帝”ロフォカレ・フギオは、今日も仕事を選べない。
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