救い
その蒼白い光には、見覚えがあった。
“
「……なるほどなァ。堕剣が目にかけるだけあるってわけか。確かにこれはウゼェ」
ヴィンセントがこれまで何度も参加してきたこの試練を生き残るためには、決して破ってはならないセオリーがある。
それは、勇敢と無謀を履き違えないこと。
人が海の中で息をすることができないように、魚が空を飛べないように、鳥が剣を振るえないように、この世には決して覆せないものもある。
それを知ることが、第二選別の意義だとヴィンセントは考えている。
「——riiiiilllllllllllll!!!!!!!!!!」
耳を劈く凶悪な鳴き声。
衣囊に潜ませたクリスタルが小刻みに震える。
死の蒼白光。
決して触れてはいけないこの選別における最強の敵。
“鎧百足ニーズヘッグ”
孤島タルタロスの主である禁忌の魔物。
(ニーズヘッグ。第二選別の試練は、こいつから三日間生き延びること。まともに戦っても勝ち目はゼロ。単純な力だけなら、ニーズヘッグは選別試練を取り仕切る三柱の神より上。例年通りなら、速攻逃げかますところだが……)
まだ、僅かに距離はある。
しかし、たった一つの疑念点がヴィンセントの足を止めていた。
「……おい、こいつは現実か?」
「さあ、どうだろうな?」
ヴィンセントの視線の先で、口から血を垂らしながら大事そうに一振りの剣を抱える女。
コメット・フランクリン。
幻覚を操る
(もしこのニーズヘッグが本物なら俺は逃げ、この女は死ぬ。だが、もし能力によって創り出された架空の存在だった場合、俺はみすみすこいつを取り逃すことになる。それはさすがに、俺のプライドが許さねぇ)
ヴィンセントは注意深く状況を伺う。
近づくニーズヘッグ。
彼の
「お前は動かない。つまり、こいつは偽物ってことか?」
「だから、わからないって言ってるだろう。もうボクに現実と妄執の区別はつかない」
「二度は騙されないぜぇ! くそビッチがよォ!」
ニーズヘッグに遭遇したら死を覚悟するのはコメットも同様のはず。
それにも関わらず、女の方は余裕の表情で微動だに動かない。
この魔物は、
結論づけたヴィンセントは、前に踏み込む。
「ボクは、これでやっと——」
その瞬間、ニーズヘッグの数多ある腕の一本がコメットを捉え、無慈悲に吹き飛ばす。
——べチャリ。
果実が潰れるような音を立て、岩壁に叩きつけられたコメットは、そのままずるりと地面に落ち、その後動かなくなる。
「riillll」
「あ?」
蒼白い光は、消えない。
鎧のように身に纏われていた小さなクリスタルが宙に浮き上がり、その矛先をヴィンセントに向ける。
すでに、射程圏内。
判断を後悔するには、もう遅い。
「……こりゃ、まずったか?」
「ril」
クリスタルの嵐がヴィンセントに降り注ぐ。
髑髏の大鎌を振り回しながら、撃ち込まれる連撃から必死に逃れようとする。
(女が一撃で吹っ飛ばされたにも関わらず、ニーズヘッグが消えねぇ。こいつは本物ってことか? だとしたら、やべぇ。近づきすぎてる。逃げ切れるか?)
冷や汗が、ヴィンセントの額に滲む。
狩る側から、狩られる側へ。
自らの立場が変わるのが理解できる。
蒼白の光を纏う魔物の無機質な複眼が、彼に注がれる。
「オラァ!」
背中を見せたら、その瞬間に嬲り殺される。
苦肉の策で間合いを詰め、髑髏の凶刃を振り抜く。
しかし得られるのはあまりに硬質な手応えだけ。
(硬すぎる。真っ向勝負じゃまるでダメージが通らねぇな)
一撃入れただけで、手が痺れた。
ニーズヘッグの鋭い前脚が襲い掛かり、それを紙一重でヴィンセントは避ける。
(段々と剣想の副作用も出だしてきてる。クソが。諦めて
ニーズヘッグが威嚇するように大きな口を開ける。
酸性の唾液が糸を引き、腹を空かせた魔物の牙が輝く。
「ril」
「がぁっ!」
ニーズヘッグが再び前脚の爪を立てる。
髑髏で受け止めるが、衝撃を受け流し切ることができずに身体が浮く。
(あ、やっべ)
クリスタルが浮遊し、中空に散りばらめられる。
そこに向かって撃ち込まれる蒼白の矢。
これまで直線的だったクリスタルの射出が、宙に浮かぶクリスタルとぶつかりあい、不規則な軌道を描く。
(ただでさえ馬鹿強ぇのに、知恵まであるのかよ)
無差別に近いランダムな動きをするクリスタルを弾こうとするが、全てを捌き切ることはできない。
何個かの真っ青な硬い矢が、ヴィンセントの身体を貫く。
「ぐがァっ……!」
内臓を傷つけられたのか、勢いよく吐血する。
髑髏の異能で痛みは抑えられているため、冷静さは保てているが、戦況は明らかな劣勢。
ヴィンセントは、小さな溜め息を吐く。
彼は一つ夢を、諦めることにした。
「……死に永らえろ、《
からから、と骨が笑うような音がした。
ヴィンセントの顔と身体に、皺が刻まれる。
隆々とした筋肉質な身体が、僅かに萎む。
彼の
「あーあ、堕剣、殺したかったなァ」
ぽつり、と心底残念そうにヴィンセントが呟く。
身体に幾つかの穴を開けた彼は、口についた血を手の甲で拭きながら、ぼんやりと顔を上げる。
「riiiilllll」
ニーズヘッグが大口を開け、ヴィンセントに喰らいつく。
抵抗するように髑髏を大振りするが、クリスタルの鎧に弾かれ、その勢いを削ぐことはできない。
「オトハの乳も揉んどきゃよかったぜ——」
——ぐちゃり、とそこでヴィンセントの上半身が噛み潰され、一瞬でニーズヘッグの体内に取り込まれる。
腰から上を失った加護狩りは、そのままバランスを失い地面にへたりと倒れ込む。
グチャ、グチャ、グチャ、と何度か咀嚼したあと、ニーズヘッグはその複眼を別の方向に向ける。
そこにいるのは、特徴のない平凡な剣をいまだに握ったまま地面に倒れ込む一人の女。
そして蒼白い光を輝かせ、ヴィンセントの残された下半身をニーズヘッグは踏み潰した。
————
朦朧とする意識の中で、コメットは魔物を眺めていた。
鎧百足ニーズヘッグ。
彼女では傷一つ付けらない鉄壁の肉体に数え切れない足。
視野の広そうな複眼からは本能的な恐怖を感じ、生き物としての格の差を感じてしまう。
(この魔物が、ボクの幻想か現実か、本当にわからないな)
躙り寄るニーズヘッグを霞んだ視界で捉えながら、コメットは段々と体温が失われていくのを感じていた。
もはや彼女は自分の能力の制御を失ってしまっていた。
まだ能力を発動させたままなのか、もうすでに解いているのか。
自分自身ですら感覚が消えてしまった。
(でも、これでいい。これで、いいんだ)
地面に溜まり始めた自らの血が、傾斜を流れてコメットの頬に触れる。
鉄臭い香り。
きっと、これは本物だ。
酷く冷たく感じる肌触り。
やっぱり偽物かもしれない。
取り止めのない思考が点滅する。
『いつかお前の妄執が現実と区別がつかなくなったら、その時、それは俺の
『どういう意味だ?』
『幻想を殺しても現実を殺しても、どっちみちレベリングになるからな。殺してしまえば、もうそれが幻想だったのか現実だったのか区別はつかない。残るのは、レベリングできたという事実だけだ』
『それがボクを、救った理由か?』
『違う。お前が俺を救うんだ。お前一人いれば、いくらでもレベリングできるかもしれない。そんな日が来たら、俺はお前に感謝してもしきれないだろうな』
どこまでも純粋な期待を込めた視線が、コメットに注がれていた。
自分自身すら自分に期待できなくなってしまった彼女に、救いを求める堕ちた剣聖。
闇の地の底に這いつくばりながら、彼女は小さく笑う。
「ありがとう、ネビ・セルべロス。ボクを救ってくれて」
それは、救いだった。
希望という名の、救い。
誰かに期待されたい、そう願い続けた彼女を堕剣だけが信じていた。
「rilll」
ニーズヘッグが、ついにコメットの目の前にまで辿り着く。
これが現実か幻想か、確かめる術はない。
判断する力を失った彼女は、死を持って確認する以外の方法をもう持たない。
カチカチ、と歯を鳴らして顔を近づけるニーズヘッグ。
咽せ返るような魔素を感じ、それだけで全身が潰されるような圧迫感を覚えた。
だが、この異次元の怪物ですら、あの堕剣には敵わないような気がして、それだけがコメットを最後まで笑わせる。
「……ril!?」
しかし、顔を近づけていたニーズヘッグがビタリと動きを止める。
無数に空いた鼻腔を引きつかせ、何かのサインを嗅ぎ取ったようにして顔面をのけ反らせる。
「riiillllllllll!!!!!!!」
次いで絶叫。
何かを感じ取ったのか、ニーズヘッグが大きく飛び退く。
怪物の唐突な叫びに鼓膜が痺れる中、コメットは自らの目の前に一人の男が立つ姿が見えた。
「……よく頑張ったな、コメット」
黒い髪に、赤い瞳。
赤く錆びた剣を持った男が、ニーズヘッグの前に立ち、穏やかに微笑んでいる。
怯えたように後退りするニーズヘッグは、青白い光を一層濃くさせながら、身体を震えさせる。
「ネビ、なのか?」
「他に何に見える?」
堕剣ネビ・セルべロス。
魔物を追って洞窟の奥に消えたはずの元剣聖が、黒い髪を靡かせている。
「riiillllll!!!!!」
鎧百足は、もう一度金切り声を上げると、最初に遭遇した時と同じように踵を返して逃げ出す。
それをゆっくりと見送ったネビは、真っ赤な瞳をコメットの方に向ける。
「いいレベリングになったか?」
僅かに暖かみのある真紅の視線。
そこで、コメットは気づく。
何が幻想で、何が現実なのか。
「……ああ、そうか。そうだよな」
「な、に?」
最後の力を振り絞り、コメットは自らの剣想を振り抜く。
ザクリ、と軽い手応えが響く。
その薄汚れた平凡な鉄剣が、本当に自分の剣想なのか、まだ判別はつかない。
しかし、区別のつくものもある。
「本物のネビなら、まずは自分のレベリングのことを考える。ボクじゃなく、あの魔物を追うさ。そっちの方が、いい
「アア——」
コメットの
堕剣ネビは
ニーズヘッグは
やっと判別のついたコメットは、そこで今度こそ力尽きたように座り込む。
ヴィンセントから受けた一撃はどう考えても致命傷。
流れ続ける血が止まる気配はない。
「はぁ、はぁ、はぁ。もし、本物のネビなら、今のボクを見て、何て言うだろうな。まず、よく頑張ったな、コメット、じゃないよな。それはボクの言われたい言葉であって、言われる言葉じゃない」
ついに限界が近づいているのか、目が重くなり始める。
手元の剣想は、まだ消えていない。
それが、コメットは嬉しかった。
この剣想が現実か幻想か、彼女は判別したくなかった。
「……“腹は減ってるか、コメット”、だろうな、きっと。うん、お腹が空いたよ、ネビ。とても、空腹、だ……」
コメットはそこで、ゆっくりと瞼を閉じる。
空腹が、全身を満たす。
それでもどこか、満足感がある。
掌の中にある剣の感覚だけを残して、あとは全てが闇に溶けていく。
堕ちていく意識。
底の見えない闇の奥に、最後、誰かが自分の方に向かって歩いてくる姿が見えた。
だが、そこで瞳は閉じられ、それ以上はもう何も見えない。
現実も幻想も存在しない静かな闇に、そこでコメットは完全に堕ちた。
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