馬鹿
歩き慣れた暗い洞窟内を、一柱の神が憂鬱そうな表情で歩いていた。
筋肉質な肉体と精悍な相貌に似合わない沈んだ気配。
(ああ、戻りたくないでござる。でも戻らないとネビに見つかる可能性もあるでござる。行くも退くも地獄でござるよ。もう、神やめて苔になりたいでござる)
彼の名は第四十二柱“地神ガープ”。
本来は第二選別の開始を宣告した後は、最奥の大広間に戻れば良いだけなのだが、あえて彼はできる限りの遠回りをして帰る時間をなるべく引き延ばしていたのだった。
(そもそも、あの
ガープが大広間に戻りたくない理由はただ一つ、第十一柱“鬼神ベレト”の存在だった。
堕剣ネビ討伐を名目に、ガープの下に現れた鬼神ベレトはその幼い外見とは裏腹に高圧的な態度だった。
彼と共にいた第四十一柱“海神ウァラク”をあたかも下僕のように扱い、全服従を要求してきたのだった。
(でも、めちゃくちゃ強そうだったでござるな。鬼神に拙者が逆らっても、瞬コロ間違いないしでござる。うんざり
裏切りの容疑をかけられた同胞、第四十三柱“空神グシオン”は見せしめとして、岩壁に
海神ウァラクは椅子の代わりにされていて、鬼神の腰の下でブリッジを強制されている。
そして第二選別の宣言前にはガープも、なぜか大きな丸石を一つを持たせられた状態で全裸にさせられ、股間の前に掲げた石の裏と表を高速で入れ替えるという奇妙な技を練習させられた。
ガープは不思議な芸を中々上手く成功させることができず、何度も股間部の粗末なものを露出させてしまった。
その度に鬼神に急所を蹴られ、『これじゃあガープ0%』だなという謎の誹りを受けた屈辱は今でも覚えている。
(でも我慢、我慢でござるよ。あの
ガープは『精密攻撃のレベリングだァッ!』という、かつて初めて出会った時に堕剣ネビ・セルべロスが叫んでいた謎の言葉を思い出し、身体が勝手に震え出すのがわかった。
あまりにも思い出したくない光景が多すぎて、彼は無理やり思考を止める。
堕剣ネビとの邂逅を思い返すくらいならば、鬼神に蹴られた股間の痛みを思い出す方がマシだった。
(……ん? 誰か、来るでござるか?)
すると、そこでガープは何者かの気配を感じ取る。
どこまでも続く闇に目を凝らすと、遠くに人影が薄らと見える。
こつ、こつ、と聞こえてくる足音。
どことなく自分と似たその人影の気配に、彼はある程度の予想をつける。
「……ね、ね、てか前から思ってたんだけど、ネビってもしかしてうちのこと好きなんじゃね? だってさ、だってさ、おかしくない? 自分で言うのも何だけど、うちって、あんまり役に立たないよね? それなのに、わざわざ一緒に行動したがるのって、それもう恋じゃね? かぁー! モテる女はつらぽよなんですけど! って誰が役に立たないじゃ! うち、神やぞ! もっと共に居れること自体に感謝しろ!」
闇の奥から現れたのは、なぜか頭に麻袋を被った女。
当然のように前が見えていないのか、壁に手をつけながら、不安定な足取りで歩いている。
周囲には誰にもいないのにも関わらず、大きな声で独り言を喚き散らすその姿はあまりに異様だった。
(なんか変なの来たでござる)
関わってはいけない。
本能が拒否するその感覚は、堕剣ネビに対するものとほとんど同じ。
どこか照れたような調子で独り言を言っていたと思えば、いきなり怒号のような叫び声を上げる。
明らかに異常だった。
「というかなんかもう疲れたー。ちょっと休憩していい? お腹空いてきたし。あ、言っておくけど、うちは魔物とか絶対食べないからね! ほんとグルメな
ガープは静かに後退りしながら、どうこの場を切り抜けようか思案する。
すでに堕剣ネビに仲間がいるという事前情報は得ている。
この異常性、おそらくこの女が堕剣の一派であろうことは明白だった。
(おそらくこの女、裏切りの狂神カイムでござるな。どうして真っ暗な洞窟で麻袋を頭に被っているでござろうか。さすが始まりの女神を裏切ってネビについた異端の神。だいぶイッちゃってるでござる。てか普通に怖いでござるよ。遠隔でネビと喋っているのでござるか?)
ガープは悩む。
相手は堕剣の一派。
神々の敵として、ここで捕縛等をするのがベストという気もしたが、その決断が彼にはできない。
なぜならこの洞窟内はすでに堕剣ネビの
どこにその狂犬が潜んでいるかわからない。
罠の可能性もある。
下手に手を出して、その瞬間影から堕剣が現れ、自らの首を引き千切る可能性もゼロではないようにガープには思えた。
(うん。やめとこ。絡むのやめておくでござる。触らぬネビに祟りなしでござるよ)
そしてガープはカイムから全力で距離をとることにする。
あまりに危険すぎる。
位としては自らの格下の神にはなるが、そのあまりの異常性とチラつく堕剣の影に怯え、ガープは無視して逃げることにした。
「なんかこの洞窟、雰囲気が薄気味悪いよねー。もっと明るいところでやればいいのにね」
(お前の方がよっぽど不気味でござる。鬼神といいコイツといい。神も神でろくなのがいないでござるよ)
この
————
大切なのは優先順位だ。
まず、自らの命を一番下に置く。
次に、妻の命を一番上に掲げる。
あとはその間を、命懸けの取捨選択によって決めていくだけ。
(マズハ、引キ剥ガス)
鎧百足ニーズヘッグは、自らの全身を覆う蒼白のクリスタルを浮かび上がらせ、狙いを定める。
視線の先にいるのは、苦痛と恐怖で泣き叫ぶ愛する妻の姿。
そして、その妻の臀部に牙を突き立てる黒い獣。
“アレ”から妻を守るためには、幾つもの大きな犠牲がいる。
(スマナイ。許シテクレ。君ヲ傷ツケルコトヲ)
命以外は、守れない。
必要なのは優先順位。
全てを守ろうとすれば、そこを狙われ、獣に食われてしまう。
「……ほお? 仲間ごとか? やはり、
「riiiiiilllllll!!!!!!!」
宙に浮かせたクリスタルを小矢の嵐のように、妻の臀部に向かって一気に撃ち出す。
ニーズヘッグの強固なクリスタルは鎧にもなり、また刃にもなる。
攻守一体。
鋭い蒼白の乱撃が、愛する妻の身に降り注ぐ。
「射出速度と物量は中々だな。受け切るのは、さすがにきついか?
唇をベロりと真っ赤な舌で舐め回すと、そこで黒い獣は大きく飛び退く。
赤く錆びた剣を口に咥えると、四つん這いの状態で壁に飛びつき、そのまま凄まじい速度で壁を走る。
「どうだッ! 前の
前回遭遇した時より、速い。
そのまま壁を駆け抜けていく黒い獣に向かってクリスタルを連射していくが、一撃も当てることができない。
(速イ。ソレニクリスタルノ弾道ガ読マレテイル)
予測能力の高さに関しても、以前より数段向上している。
このまま遠距離から攻撃を繰り返せば、そのまま押し切れると前に戦った時は考えたが、その試みは失敗に終わっている。
(コイツノ集中ガ切レル事ハナイ。ソレハ知ッテイル)
愛する妻と獣の距離が十分とれたことを確認すると、ニーズヘッグはクリスタルの乱射をやめ、自らの肉体に引き戻し鎧を再び纏う。
そのタイミングで妻にアイコンタクトを飛ばし、逃げるように促す。
“一緒に、逃げましょう?”
“駄目だ。先に行け。ここは僕が時間を稼ぐ”
妻が瞳に涙を浮かべ、共に逃走することを訴えてくるが、ニーズヘッグはそれを断腸の思いで切り捨てる。
大切なのは、優先順位だ。
本当は、一緒に逃げたい。
慎ましく二匹で暮らし、たまに他の魔物や人間を食べるだけの平和な暮らしに戻りたい。
こんな異常な怪物とまた戦うことなんて、避けられるなら避けたい。
(コレ以上、君ヲ、傷ツケルワケニハイカナインダ)
しかし、その選択肢は選べない。
かつて、共に逃げたこともある。
その時の結末は、筆舌に尽くし難い悲惨なものだった。
長い、長い時間をかけ、唯一クリスタルで守られていない腕を一本残らず切り飛ばされ、身動きのできなくなったニーズヘッグ。
そんな彼の前で、ゆっくりと時間をかけて、赤く錆びた剣によって傷つけられた妻。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
あれほどの屈辱を受けるくらいならば、自らの命など安いものに思えた。
“でも、貴方を置いて——”
“いけと言ってるんだ!”
強く、目を光らせる。
怯えたように、後退りする妻。
罪悪感が、ニーズヘッグを襲う。
それでも、彼はもう振り返らない。
命を賭してでも、守りたいものが彼にはあるのだから。
“一人で、怖くないの?”
“怖くないよ”
“嘘つき”
“好きな相手が泣いてる時は、優しい嘘をつくのが男ってものさ”
“……ばか”
くすりと、彼女が笑う。
最後に、愛する相手の笑顔を見れて、ニーズヘッグは満足する。
意を決したように、ついに逃走を始めた妻の足音を聞きながら、彼は黒い獣と相対する。
涙を流すには、まだ早い。
黒い獣が赤く錆びた剣を口から右手に持ち換え、異様に瞬きの少ない赤い瞳を爛々と輝かす。
ここから先は、死んでも通さない。
対するニーズヘッグは、トグロを巻くようにして、洞窟内の道を埋め尽くす。
蒼白の光で獣を照らし、彼は優先順位を示す。
恐怖は、ある。
痛覚も、ある。
しかし、後悔はない。
これで愛する妻をこれ以上傷つけなくて済むのなら、それでいい。
「道を塞ぎ、攻撃の気配を消しただと? まさかお前……」
「riiiiii……」
そして、その鬼気迫るニーズヘッグの態度に何かを勘付いたのか、獣が驚いたように目を見開いた。
次いで、嬉しそうに口角を上げ、どうしてか同志を見つけたかのような親しみのある笑みを浮かべる。
「つまり
「……ril?」
なぜか刺々しい気配を消して、嬉々とした様子で獣が笑っている。
何を言っているのかは、わからなかった。
何を考えているのかも、まるで理解できない。
だが、ニーズヘッグの覚悟は変わらない。
彼にできることは、この道を死んでも通させないということだけ。
「たしかに、お前のクリスタルはかなり強固だ。本来なら関節や腕、鎧の隙間を狙うのがセオリーだが、クリスタルを直接攻撃できるなら、
ペラペラと道理のわからない言葉を獣は上機嫌に喋る。
本能がニーズヘッグに囁く。
あまりにも、危険だと。
死よりも恐ろしいものが、目前に迫っていると。
「つまり俺とお前の目的が合致したというわけだ。人間と魔物。鍛錬を通して通じ合えた。レベリングコミュニケーション。分かり合えるって、素晴らしいな」
理解不能の怪物が、一歩、一歩、ゆっくりと近づいてくる。
足が恐怖に竦み、逃走、あるいは抵抗をニーズヘッグに求める。
しかし、それは破滅に繋がると、心が警告していた。
逃走も抵抗も、選んではいけない選択肢。
ここで道を塞ぐ以外の動きをとった瞬間、全てが終わる気がした。
彼女を守ると、誓った。
恐怖も、怯えも、命さえも、愛するものためなら犠牲にできる。
たった一つ、守るために、彼は全てを捨て去る。
その命か、心か、或いはその両方か。
失うものを選ぶ権利は、ニーズヘッグにはきっとない。
(ドウカ、君ノ未来ニ幸アランコトヲ願ウ)
怪物がついにニーズヘッグの前に辿り着き、心の底から嬉しそうに赤く錆びた刃を彼のクリスタルに突き立てる。
傷は小さく、まだ痛みは感じない。
すぐに、獣はもう一度、剣を振り下ろし、満足そうに笑う。
ただ、赤い錆が身を打ち付けるたびに、心に傷がつく。
——ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ、ゴツ。
何度も、何度も、何度も、硬質なクリスタルに向かって執拗に剣を奮い、ニーズヘッグはそれを無抵抗で受け入れる。
毒のように広がっていく、痺れに似た僅かな痛み。
やがて激痛に変わるだろうという予感と共に、彼は愛する妻の笑った顔を思い浮かべるのだった。
「さあ、濡れろ、赤錆。合同
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